第110話 魔王の影
この『鏡月館』の異界、あるいは『相補性複合異界』とでも呼ぶべき異界は、蘆屋道孝とゴマさんこと朽上理沙、つまり、『転生者』を捕らえるための罠だった。
『監視者』の1人、堕天使『アルマロス』に課された役目はその異界の内部に潜み、オレ達を直接的に捕縛し、連れ帰ること。少なくとも、アルマロスはそう命じられていただろうし、そのつもりであの礼拝堂で待ち受けていたはずだ。
これはオレの推測でしかないが、捕らえた後の脱出手段に関してはこちらで用意するから問題ない、とでも伝えられていたのだろう。言わば、オレたちをハメた側であるアルマロスにはそれを疑う理由はない。
だが、実際には、この罠に出口は存在しない。踏み込んだものを敵味方を問わずに皆殺しにする袋小路だ。
そう。黒幕側であるはずのアルマロスまでもがここで殺される。この罠はそのように作られている。彼女もまた罠に陥った側なのだ。
「――くっ!? うっとおしい!」
その証拠に、今も目の前の森から無限に出現する殺人鬼とアルマロスは戦い続けている。彼女が拳を振るうたび、数体の殺人鬼が吹き飛ばされていた。
それでも、少しずつ追い詰められている。相性の問題だ。
いくらアルマロスでも10人に同時に襲い掛かられれば手傷を負う。そして、一体一体はただの『殺人鬼』、低級の怪異に過ぎないが、こいつらは攻撃にほとんど魔力を必要としない。つまり、傷を負っても通常と違い、アルマロスは最低限の魔力しか『吸収』できない。
そして、この異界が維持される限り『殺人鬼』が尽きることはない。数日か、あるいは数十日か、いずれはアルマロスの魔力が尽きて、彼女は殺される。
まったくよく考えられてることで……この場にいる全員の異能や性質、それらの情報を完全に把握してなければこれだけの作戦は建てられない。
となると、やはり、この罠を破る方法は一つしかない。
「ミチタカ、理屈はわかりましたわ。ですが、不可能というものです。わたくしは連中のことはよく知っています。こちらが遺恨を捨てられたとしても、あちらは信仰を捨てません。解体局と手を組むくらいなら、ここでの殉教を選ぶ。殉教騎士団とはそういう連中の集まりです」
隣に立つリーズが務めて冷静にそう言った。
数百年単位の恨みつらみがあるんだ。言いたいことはそれこそ山のようにあるだろうが、全部呑み込んであくまで副隊長としての意見具申にとどめくれている。
まったく、今回は助けられてばっかりだ。
「ああ、わかってる。でも、君の言った通り、意外と俗な部分もあるんだろう? なら、活路はある。君としては……いや、こいつは野暮だな」
「ええ。野暮ですわ。無論、失敗しても諸共に焼き払うだけですので安心して失敗してくださいまし」
そう笑って、杖を振るうリーズ。迫ってくる殺人鬼を炎で蹴散らし、オレのために時間を作ってくれた。
頼もしい限りだ。他の2人も、オレの背後を固めて、要救助者三名を守りつつ、殺人鬼どもを撃退してくれている。これなら遠くにいるs子も含めて一旦全ての式神を退去させても大丈夫だ。
オレもみんなの信頼に応えなければ。アルマロスを引き込むためにも、まずは力を示す。
「――『四海の大神、悉く去れり』」
ずっと練り上げていた術式が、詞を紡ぐ。意識が内海に沈み、気付くとオレの右手には黒い木槌が握られていた。
古びて、使い古されたそれは豪奢さとは縁遠く、また、神聖でもないが、見るものに敬意と畏怖を抱かせる風格がある。まさしく『王の器物』とでも呼ぶべき代物だ。
そのまま、術の促す魔力の流れにそうようにして、木槌で地面を叩く。すると、地面を打ったというのに清澄な鐘の音が辺りに響き渡った。
「『我ここに百鬼を招く。凶災をもって我が敵を打ち払わん』」
もう一度、木槌を振るう。すると、今度は鐘の音だけではなく、どこか遠くから数多の声が聞こえてくる。それは祭囃子のようでもあり、轡を並べて行進する鬨の声のようでもあった。
本来であれば、『百鬼夜行』を避けるための呪文、その意味を反転させるということはつまり、百鬼夜行を引き寄せるということだ。
そして、百鬼夜行が来るということは、当然、その主もまたここにお出ましになるということだ。
「『出でませ、ましませ、影なる王よ』」
三度目の点鐘で、周囲に存在するありとあらゆる影がざわざわと蠢きだし、オレが手にしている木槌へと集う。
今この場にある影は影にあって影にあらず。異界の深淵、ここではないどこかから来るものの先触れとなった。
召喚の術はこれで完成だ。すでに縁も結ばれている。契約も交わした。あとは、オレが御しきれるかどうかだ。
「――『真影魔王・山本五郎左衛門』」
そうして、影の中心でオレはその名を口にする。
瞬間、膨れ上がった影がオレを呑み込んだ。
同時に、五感のすべてが遮断され、ただ心の中に声が響いた。威厳がありながら、どこか楽しんでいるような弾んだ声だった。
『ようやく出番かい。坊主、ちゃんと使いこなせよ?』
闇が晴れ、オレは先ほどと同じ場所に同じ姿勢でしゃがんでいる。ただ、その姿だけが先ほどとはまるで違っていた。
濡れ羽色の狩衣と烏帽子。
覗き込むとそのまま落ちてしまいそうな深い黒をしたその衣は意志ある影が形を成したもの。ただ纏っているだけで絶大な力を感じさせた。
実際、この狩衣は異界法則を捻じ曲げている。オレがこの『鏡月館』に侵入した時点で与えられていた役、それに付随した服装の変化をさらに強力な法則で変更しているのだ。
オレ自身の魔力循環にも影響が出ている。感覚的に言えば、普段よりもはるかに速く、精密に魔力を操れている。言ってしまえばめちゃくちゃ調子がいい。今のオレならできることがかなり増える。
それに、魔力の消費に関しても、こいつを着ている間は心配いらなそうだ。狩衣自体が高密度の魔力でできているから、多少の消費は肩代わりしてくれる。
そして、背後には影の太陽。江戸時代に描かれた絵巻ものに登場するそれは現代においては一つの妖怪として解釈されることもある。
『空亡』。百鬼夜行の最後に現れるという闇の太陽。正体なき影なる魔王の仮初の姿だ。
……ぶっつけ本番でどうなるか不安だったが、想定していた以上の性能だ。これで本体ではなく、『四辻商店街』で遭遇した『影』を式神として落とし込んだものでしかないのだから、改めて恐れ入る。
もっとも、この『真影魔王・山本五郎左衛門』の本領はここからだ。
「――来たれ、『揚羽蝶紋・骸武者』」
刀印を切って、別の式神、『シキオウジ』と同じく盈瑠から借り受けた『骸武者』を呼び出す。すぐにオレの周囲に10数名からなる平家の落ち武者たちの亡霊が現れた。
そう、この『真影魔王』はオレの持つAランク『神域』の式神の中では唯一他の式神との併用が可能だ。より正確に言えば、『真影魔王』の顕現中はオレの式神の召喚、その上限がなくなる。陰陽五行の属性の循環、脳の処理能力の限界を無視していくらでも式神を呼び出せる。
これは伝承における『山本五郎左衛門』が妖怪たちの頭領であり、魑魅魍魎が跋扈する『百鬼夜行』の主として定義できるがゆえに得られた権能だ。
主がそこにいるということは、そこには『百鬼夜行』があるということ。つまり、この場においてはありとあらゆる『妖怪』、『怪物』、『怪異』が存在しうる。それゆえ、オレの式神の使役が普段よりも格段に自由に行えるのだ。
この一種の『力場』、小規模な異界の形成こそが『真影魔王』の本質。それを応用すれば、こういうこともできる。
「『真影・揚羽蝶紋鎧武者』」
今しがた出現した『骸武者』たちを魔王の影が覆う。次の瞬間、姿を現したのは影で象られた大鎧を纏った『鎧武者』だ。その偉容たるや1000年前に実在した平家武者たちとも遜色ない。
変わったのは見た目だけじゃない。実際の戦闘力、怪異としての位階も確かに上昇している。
王たる『山本五郎左衛門』の影には配下を強化する特性がある。対象との相性もあるが、この強化があれば格上の相手とも互角に渡り合える。
「――蹴散らせ」
そうして、オレは王の代理として命を下す。まずは、殺人鬼どもを蹴散らす。そこからは力と言葉で交渉だ。