私でした?
あなたはだれ?
よくある話で恐縮なんですがね、とその運転手は言った。
これはRさんに聞いた話である。Rさんは数年前、大変忙しい仕事に就いていて週に三度は終電を逃しタクシーで帰宅することを余儀なくされていたらしい。偏見と言われればそれまでではあるが、片道一時間以上はある道のりを深夜、タクシーという密室で移動するのが大変に怖かったRさんは、対応する策としてなるべく眠らないように、運転手の方と話をすることにしていたのだという。そう悪い対策でもないのだろう。深夜、都内を走るタクシーの運転手の方々はおおむね気さくで、話しかければ大体が応じてくれたという。
しかし困ったのは話題の選択である。皆が皆家庭を持っている訳ではない。Rさんからして独身だったのだから、選ぶ話題としては間違っている。故郷の話、それもまた膨らまない。それでRさんは、ひとつの話の題材としてホラー、というものを選んだ。深夜帯に勤務する運転手なら怖い話のひとつやふたつ知っていても不思議ではない、とこれまた偏見なんですけどね、とRさんは笑ったが、思いのほかこれは食いつきがよかったらしい。
八割九割は現実にあった怖い話だったのだという。例えば、釣銭を持ち逃げされた話や、タクシー強盗に遭った話。中に一人、「この話はある意味けん制みたいなところもあるんですよ」と言った運転手が居たそうだから、若い女性とはいえ深夜、長距離を走る密室に対する恐怖は必ずしも客だけが持つものではなかったのだろう。
よくある話で恐縮なんですが、とその運転手は言ったそうだ。
「あるでしょう、深夜に女性を乗せたら霊園に行くように言われたお話が」
「ありますねえ」
深夜、女性を乗せると有名な霊園を告げられ、そこへ着くと後部座席はぐっしょり濡れ、女性の姿は消えていた、というやつである。怖がりではあるがオカルトものを好んでいたRさんはその話に当然聞き覚えがあった。バリエーションがいくつかあるタイプの話なので、いわゆる都市伝説の類ですよねと答えたところ、なるほどそういう言い方をするんですね、と運転手の男性は笑ったそうだ。
「で、ね。僕もそういう女性を乗せたことがあるんですよ」
「霊園に、ですか?」
「いいえ。普通に住宅地の住所を言われました。だからね、ナビに登録したんですが、本当に普通の行き先で」
「普通の話ですね」
「そうですねえ。ちょうどこんな感じの、曇った日の夜でしたねえ」
「嫌だ。怖がらせないでください」
これはすみませんでした、と運転手は相変わらず笑っている。怖い話だというのにコミカルに話すものだから、逆にそれが恐ろしく感じたのだそうだ。
「片道ね、大体一時間くらいの距離でした。お客様は大変無口な方でしてね、こちらも黙って走っていたんですが、やはりお話してくれるお客様はいいですね」
「そうでしょうか。うるさくないですか?」
「いいえ。先ほども言いましたが、やっぱり楽しくお話させていただける方がいいですよ」
それでその運転手は、その時走りながら思い出したのだという。同じ会社の運転手たちの間でそういう噂があるということを。
「そういう噂ですか」
「これもさっきの霊園の話に少し似てるんですが、とある住宅地を指定されてそこに行くと…」
「普通の家がある」
「そうです。これもご存知ですか?」
「聞いたことがあります」
目的地に着くと客が消えていたところまでは同じで、家の前に車を停めて途方に暮れていると中からその家の住人が出てくるという話である。そして娘ならとうに亡くなりました、と言われる話だ。曰く、亡くなった女性が家に帰りたいが故にタクシーを停めるのだという。
実際もう来ないでいただけますか、と言われた運転手もいるらしい。家の人がそこまでの運賃を払う所為で、その噂を聞いたあまり素行のよくないものが娘さんを乗せたと偽って押しかけたこともあるらしい。そんな話を小耳に挟んだものだから、彼はそこで躊躇したのだそうだ。其の場所までの走行が無駄になってしまうのはまあ仕方がないとして、現地にたどり着いた時にその家の住人からそのような目で見られてしまうのは嫌だな、と思ったらしい。多分、至極真っ当な人間なのだろう。私だってそんな風に思われたら嫌ですよ、とRさんも言った。
「でも彼女が実在の方であったらそういう話をするのも失礼でしょう」
「確かにそうですね」
もっと別の話をすればよかったな、とRさんは思ったそうだ。運転手のあまりの淡々とした語り口調に、逆に怖くなってしまったのだそうだ。だからといって自分から切り出した話題なので今更やめてくれとも言えない。
「だからまあ、こちらも仕方なくそこまで行くことにしたんですね。実際現地についてお客さんがいらっしゃらなくなっていたら、そのまますぐ帰ればいいやと思いまして。腹をくくったんです」
「怖くなかったんですか?」
「姿の見えている以上はお客様ですから」
大通りを行きますかと運転手が言うので、Rさんは素直に頷いたそうだ。実際、深夜のタクシーに女性が一人で乗るとこういう配慮を頂けることはあるらしい。あまり裏通りを通ると変な気を起こしたと思われることもあるんですよ、といつだか別の運転手に言われ、世知辛い世の中だなとRさんは思ったそうだ。
「それで、どうなったんですか」
信号待ちで急に話をやめた運転手に、逆に不安になったRさんはそう問い掛けたそうだ。運転手はふふ、と笑って話を続けた。怖がらせて楽しんでいるようにも見えたのでRさんは少し腹が立ったという。自分で話題を振ったのに理不尽でしたよね、とRさんは苦笑いをしていた。
「確かに彼女は居なくなっていました」
目的地について振り返ったとき、後部座席に目をやると既にその姿は無かったのだという。運転手はやはり、と思って溜息を吐き、早々に引き返そうとした。噂話の通りならもたもたしていると住人が出てきてしまう。その前にさっさとここを離れなければ、とタクシーメーターを操作し終えたところで、その家の玄関の扉が開いた。
「あ、まずい、と思ったんですよ。そうなるとすぐに車を出すのも何だか、気まずいでしょう」
「気まずい?」
「ええ。さっきの通り、噂は色々聞いていましたから」
だから何か言われたなら私の勘違いです、お気になさらずと言ってすぐにその場を立ち去るつもりだったと運転手は言った。
「それなのに、ですよ」
「それなのに?」
玄関の扉から出てきた中年の女性は、ぐるりと辺りを一周見回し、数分そうしてからうんざりしたような表情で大きな溜息を吐き、家の中へ戻っていったという。
「見えてなかったんですかね、車」
単純に夜暗い中だから、タクシーが見えなかったのではないかとRさんは言った。先程乗り込むときに見た車体は黒だったから、と単純にそう思ったのだという。
「でもね、お客さん、私からはその女性の顔がはっきりと見えていたんですよ」
玄関にセンサー感知式の灯りがあったのだという。女性が出てきたときに灯りが点いたのだから間違いないと運転手は言った。それに、ヘッドライトも車体の上のランプも点いていたのだから、逆に暗ければ暗いほど気付かないはずがないと。
「…どうしてでしょうね」
「お客さんの言うとおりね、もし見えてなかったんだとしたら」
車のスピードが落ちる。車は既に大通りを逸れ、狭い路地へと入っていた。
「私は一体何なんでしょうねえ」
きぃ、と音を立てて車が止まった。気付くとそこはRさんの住むアパートの前で、時刻は二時を過ぎたところだった。風呂は明日の朝入ればいい、そうしたら五時間は眠れるというようなことを考えたそうだ。メーターに表示された金額を支払い領収書を貰い、ありがとうと礼を言って車を降りる。辺りは真っ暗で、こんなことなら変な話題を振るんじゃなかったと思ったそうだ。
タクシーはアパートの前で、恐らく何らかの帳面をつけているのだろう。早く行ってくれないかな、と僅かな警戒心を持ってアパートに戻ろうとしたところ、道を挟んだ向かいの家の玄関の扉が開いた。扉の横の灯りが点く。いくらご近所とはいえ顔を合わせたことも無い相手のことだからと、特に気にも留めず部屋に戻ろうとしたRさんは、思い出したくも無いさっきの話を思い出したのだという。
「タクシーはその家の扉が閉まってから行ってしまったんですけど」
何となく自分の部屋の場所を知られたくなくて、タクシーが行くまでは部屋に戻るのをやめようと思いなおしたRさんは、鍵を探すふりをして携帯電話のダイヤルボタンを押して待機していたらしい。何かあったら通報しよう、としていたのだという。
「あの家の人、何が気になって出てきたのかしら」
恐らくはまだ帰宅していない誰かを待っていて、タクシーが止まる音で帰宅しかと出迎えにきたのだろうとRさんは言う。それでも、と彼女は続けた。
「それにしてはあの人、ずっと何かを探していたみたいに見えて」
それからRさんはもう少し楽な職に転職するまで、夜のタクシーで運転手に振る話題を故郷のそれに変えたらしい。知らない土地の話は意外と盛り上がるものですね、と彼女は楽しそうに笑っていた。