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わからない

こわい美人。

 新入社員のFさんは年は三十の半ばを越えたところだというが、落ち着いた物腰と丁寧な仕事振りで入社当時から皆からの人気は高かった。とはいえ、既婚者ばかりの職場の中で人気があったから、どうということはなかった。

 Fさんは前職を辞す際に連れ添った妻と離縁したと言うので、その話題には触れてはならないという暗黙の了解はすぐに出来上がった。時々調子のいい社員が軽いノリでその理由を問い掛けたりすることもあったが、Fさんは穏やかに笑って色々ありまして、と実に礼儀正しくお茶を濁すので、いつしかその話を聞く人も居なくなった。

 その年の社員旅行である。自由参加だとは言ったのだが、どうせ休日に打ち込む趣味もありませんからとFさんは二つ返事で了承した。例年社員旅行では馴染みの温泉宿に赴き、身体を休めたり騒いで酔い潰れたりする以外にすることなどないが、参加する者はそれなりに皆楽しみにしていたので、人当たりのよいFさんの参加は喜ばしいことだった。



 列車の旅を楽しみ各自が温泉に身を浸したり温泉街に繰り出し遊びに興じる中、Fさんは一人ふらりと姿を消した。夕飯には戻りますから、と幹事に伝えてすぐに居なくなったと言うので誰も後を追うこともできず、散策なら誘ってくれても良かったのにと軽い愚痴をこぼしたりもしたが、Fさんは言葉通り夕飯の始まる少し前に宿へ戻りお湯は如何でしたかいい土産はありましたか、などと相変わらずにこにこと皆に声を掛けていたので、それを直接咎める人間は特にいなかった。Fさんは飯の前に風呂を浴びてきますと一旦部屋に戻り、大広間に現れたときは着慣れない宿の浴衣を世話焼きの女性社員に直されて照れ臭そうに笑っていた。

 飯を食い夜も更け、座に適度に酔いが回りテンションがあがってきた頃、若い社員の一人が実はこの宿には怖い話があって、などと言い出した。それを聞いて苦手な者たちは遠慮しますと言って席を立ち、怖がっていると思われたくない強がりの者や余興として楽しもうという者だけが大広間に残った。その中には、Fさんも居た。相変わらずにこにこしている。

 宿の怪談から始まり、何故だか残った社員たちで行う百物語のような流れになり、私も昔乗ったタクシーの運転手から聞いたありきたりな怪談を一席打った。大して受けは良くなかったが、それはその場に居た誰もが同じで、それほど怖くも無い話を語りなんだそれはとけらけらと笑い合った。そして、Fさんの番になった。


「大した話ではないのですが」


 Fさんはその物腰と同じく柔らかく、淡々とした語り口である。






 前職に勤めていた頃、同僚にどうにも女癖の悪い男が居まして。奥様は随分と綺麗な方だったのですが、何でも家柄の違いだとかなんとかで、それが息苦しく感じたと言って浮気を繰り返していたのですね。そうは言っても戦国時代や何やでもあるまいし、自分で選んだ相手なのですがそんなものは言い訳に過ぎないんですが。

 奥様は同僚の言う通り上品なお家のお嬢様だったそうなのですが、それが幸いしたか災いか、同僚の浮気にも特に文句を付ける訳でもなく、かと言って相手の女性のところへ押しかけたりということもせず、傍目にはただ黙って耐えているように思えましたね。良妻と思われる人もいるでしょうが、僕なんかはなんで何も言わないんだろう、証拠を集めて慰謝料でもぶん取って別れてやればいいのにと思っていました。二人の間にはどういう事情があったかは知りませんが、お子さんもいませんでしたしね。

 そんなある日です。職場に同僚の奥様から電話があったのですね。前に何度かお会いすることはあったのですが、その時とまったく変わらぬ口調で夫が帰らないのですが、というのです。同僚は数日前から有休を取っていたので、ああまたどうせ浮気旅行か何かだろうと思ったのですが、仮にそうであったとしても奥様からこうして連絡があることは初めてだったので僕は随分と驚いたものです。さてなんと答えたものかと言葉に詰まったのですが、夫から連絡があったら私に知らせていただけませんかと相も変わらず淡々とした口調で奥様は仰り、僕に連絡先を書き取らせて電話を切られました。

 牽制のつもりかと思ったのですね。それなら、いくら落ち着いたように見えてもご立腹か、それともよほど悲しんでおられるか、いずれにせよあんなに綺麗な女性をいつまでも悲しませている訳にもいかんと休憩時間になってから、同僚の携帯電話に連絡を取ってみたのですね。そうすると繋がらない。電源が入っていないか電波が届かないところに、というあのアナウンスが流れる訳です。よほど山奥にでも女と旅行しているのだろうかと思いました。それで、少し僕も腹が立った訳です。有休ですから別に非は無いのですが、こちらが必死に働いているというのに奥様を悲しませて、と思ったのです。

 山奥でも電話ぐらい繋がる?そうですね、最近はアンテナでしたっけ、そういうのも増えていますからね。そう、ここも繋がりますからね。便利なものです。

 まあそれはそれとして。まあ、そんな訳でちょっと苛立っていたもので、また仕事が終わったらもう一度連絡してやろうと思い仕事に戻ったわけですが、今度はまた別のところから電話があった訳です。それが、今度はね、警察だったんですよ。しかもY県の県警だと言います。前職ですか?都内でした。だから不思議に思ったのです。まあ考えてみればどうせまた不倫旅行だろうと思っていたので、それ自体におかしなことは無かったのですが。そしたらそのY県警の方がね、言ったんです。おたくの会社の社員と思われる人間の遺体が上がったと。

 上がった、と言います。その時は一瞬分からなかったのですが、まあ沈んだから上がったのでしょうというのは今なら分かります。詳細を伺い電話を切り、慌てて奥様に連絡しました。そうしたら相変わらず、冷静な様子ではあったのですが今からすぐにそこへ行くというので、流石にそれは危険だろうということで社を代表して私が奥様を現地にお連れすることにしました。車を取りに家に帰ったときに妻に、まあ当時の妻ですが、その旨を告げると訝しげな顔をされましたが、事情が事情なだけに手早く着替えやら軽食やらを整えて持たせてくれました。できた妻だったんですね。

 奥様をお迎えに上がってからY県まで向かいました。助手席に乗られた奥様は凛とした横顔をされておられましたが、それでも少し蒼褪めているように見えました。無理も無いことだと思います。不倫旅行に出かけたという夫が見知らぬ土地で亡くなったかもしれないというのですから。声を掛けるのが正しいのか黙っているのが正しいのか分からず、結局私は黙ったまま車を走らせました。結構な距離のドライブになったのですが、奥様はその間一言も口をきかずにおられました。

 現地に着き警察署の方に案内され、同僚との対面となった訳ですが、そこに至って奥様が真っ青になり、とうとう倒れられてしまいました。よほど気を張っていたのでしょう。これでは面会もままならんだろうということで、確認は私に一任されました。正直気は進みませんでしたがここまで来て無理ですとも言えず、同じように倒れてしまうのも情けない話です。意を決し遺体の安置されている部屋へ通されました。

 水死体を見たことのある方はいらっしゃいますか?そうですか。あれはね、もう、何と言いますか、まあ食事の席ですから…はい。ひどいものです。あれだけ見目が変わってしまうと正直、間違いなく同僚ですとは言えませんでした。それでも、遺体の隣に並べられた免許証や彼の自慢していた腕時計などから同僚に間違いない、と答えました。流石に気持ち悪くなってしまって、その後すぐに部屋を出たのですが待ち構えていた奥様にどうでしたか、と問われました。その時の奥様は取り乱していたように思えます。黙って首を振ると、奥様は今度は気丈にも顔を青くしながら踏ん張って立っていたのですが、私がおくやみの言葉を告げるととうとう立っていられなくなったらしく、私に縋り静かに涙をこぼしておられました。






 そこでFさんは口を閉じた。長くはあったが怖い話ではない。少々拍子抜けした空気の中、若い社員が声を上げた。


「終わりですか?」

「ええ、まあ」


 Fさんは曖昧に頷いて、コップの底に残っていたビールをぐいと煽った。これで完全に座は白けてしまった。さあならばお開きにしますかとそれぞれに席を立って行く中、名残惜しそうにFさんは手酌で酒を飲んでいる。


「戻らないのですか」


 酔っ払いたちが街に繰り出すというので、出歩くのも億劫になった私はFさんに声を掛けた。お疲れ様でした、と私を見てFさんは、いつもどおりの穏やかな笑みを浮かべている。


「今の話、本当にあれで終わりなんですか」

「ええ、終わりですよ」

「ちっとも怖くありませんでした」

「そうでしょうね」


 のらりくらりと私の話をかわしながらFさんは変わらず手酌でコップを空けていく。意外と酒に強いのだな、と思った。すぐに潰れてしまうだろうと私は勝手に思っていたので、これは予想外だった。


「実は、その同僚さんの旅行先が此処だったのではないですか」


 Fさんの向かいに座り、適当に残されたビールやら日本酒やらをかき集め私も手酌で始める。私の問い掛けに、Fさんはくすくすと笑った。


「鋭いですねえ」

「やっぱり」

「本当はね、…自信が持てないんです」


 がやがやと騒がしい声がどんどん遠ざかっていく。完全に聞こえなくなった後は、やたらと広い座敷に私とFさんの二人きりで、しんと身体が冷える気がする。Fさんは、私の後ろ側にある大きな窓の外を見ていた。


「あの時ね、私は彼を間違いなく私の同僚だと言いました。でもね、さっきも言ったとおり、その、…ひどいものです。水で亡くなった遺体というのは」

「ひどい」

「聞かない方がいいです」


 聞かせたくないというよりは話したくないのだろう。それなら追求することもない。そうですか、と頷くとまたコップを空にして、Fさんは大きな息を吐く。随分と酒臭い。


「もうあれから何年か経ちましたが、今同じものを見せられてもやっぱり、胸を張って彼だと言える自信はありません」

「…奥様は、ご納得されたのでしょうか」

「ええ」


 雪でも降るのであろうかという冷え込みようである。暖房を強めてもらおうと思ったが、それも億劫だった。部屋が広すぎるのがいけない。


「こんな時期でしたね。道路もよく滑ったんでしょう。車ごと、落ちたと言いますから」


 何故この話をさっきのところで止めてしまったのだろうか。ぞわっと肌が粟立った。これ以上聞くのもよくは無いと思うのだけれど、席を立つことができない。このもやもやとした気持ちのまま部屋に戻るのも良くないと思ったのだ。Fさんのことだから、最後に笑い話にしてくれるとも思った。


「もしかしたら、あれは私の同僚ではなかったのかもしれません」


 Fさんは相変わらずにこにことしている。それがなんだか余計に恐ろしかった。これが怖い話なのだとしたら、Fさんには語りの才能がある。笑い話にするために、最後までこの話を聞かなければならないと思った。


「結局、その後同僚の葬儀やら何やらに付き添っている間にですね、妻からいらぬ疑いを掛けられて私たち夫婦は別れることになってしまったんですが、…ここまで話すと怖い話になりましたかね?」


 顔を上げたFさんと目が合う。余りにもにこやかな表情でいるから、私もつられてそうですね、と笑った。社内の誰もが聞けなかったFさんの離婚の理由を私だけに打ち明けてくれたのだろうかと思ったら、なんだかFさんとの仲が親密になった気がした。


「でもね、時々考えるんです。彼はもしかしたら、あの奥様から逃げたのではないかと」

「…と、言うと?」

「奥様は凛として美しい人ですが、どうにも情が薄いくせに独占欲が強いのです。同僚の浮気を許していたのも、絶対に逃がさないという怨念のようなものがあったからだと思います」

「逃げた、と」

「顔なんて分かりませんでしたからね」


「そう、言っていましたね」

「実は、さっき同僚の浮かんだところへ行って来たのです」


 誰かの使いさしたコップにビールを注ぎ、Fさんはことりとそれを床に置く。なんとなくそれを供物のようだと察して私は黙った。

「非常に綺麗な景色でした。…彼はいい場所を選んだものです」


 Fさんの目は窓ガラスの向こうに、昼間に訪れたその場所を見ているようだった。私も黙ってその視線の先を追う。そうしてしばらく窓の外を見詰めた後、Fさんが静かに立ち上がった。


「戻られるんですか?」

「ええ、妻に連絡をしなければならないので」

「奥様ですか?再婚されていたんですか?」

「ええ。綺麗な女なんですが、どうにも嫉妬深くていけない。必ずどこにいるか連絡をしろと言うのです」

「大変ですね」

「本当に。今度は、失敗しないように必死なんでしょう」


 立ち上がるや足元をふらつかせて倒れかけるFさんを慌てて支える。うつむいた顔は、今までに見たことも無いほど険しい顔をしていたので、ぞっとしてしまった。


「私も、逃げたくなりますよ」


 今までに聞いたことも無い冷たい声でFさんは言い、ありがとうございますと言いながら頭を下げ、危なっかしい足取りで大広間から立ち去っていった。






 部屋から姿を消したFさんが近くの公園の噴水に沈んでいるのが発見されたのは翌日の昼過ぎのことだった。夕方になり、蒼褪めた顔で駆け付けたらしいFさんの奥様は、凛とした随分と美しい方だった。

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