ひとさらい
さて真実はいかに。
Fさんが子供の頃に体験した話を聞いた。
当時、Fさんが通っていた小学校では、子供を襲う老人の噂が広まっていたそうだ。その老人は下校時の子供を連れ去って食う、通りすがりに腕を腹にめり込ませて殺してしまう、頭を掴んで引きずり回す、などの物騒なものだったが、学校側も騒ぎに黙っておられず、無闇に知らない人に近付かないこと、下校の際はなるべく一人にならないようにすること、などを言い含められたという。実際老人に襲われた子供がいたという話が出たことはなかったが、悪ガキたちが通りすがりの老人を罵倒したり驚かしたりする事案の方が問題になったからだという。
Fさんはさらわれるのも脅されるのも、先生に怒られるのも嫌だったのでその言いつけを守った。そしてその日、近所の幼馴染と家に帰る途中、老人の噂の話題になった。
「怖いよね」
幼馴染はそう言ったし、Fさんもそれに同意した。それから二人でその老人を想像し、語り合った。ぼさぼさの白髪で手も顔もしわくちゃ、腰を曲げてよたよたと歩くのに、動きはとても素早い。古ぼけたナイロンの布を張ったカートを押して、さらった子供をその中に入れて遠くへいってしまうのだ。
我ながら恐ろしい想像をした、とFさんは内心で震え上がったが、幼馴染が楽しそうに語るのでつい盛り上がってしまった。そして、後で同じ習い事先へ行く時間の約束をして、二手に別れようとしたそのとき、ほんの僅かの距離のところに見知らぬ老人がいたことに気付いた。
それは本当に一瞬だった、とFさんは言う。本当の一瞬だったのに、その一瞬のことはとても鮮明に覚えている。よくある市販の自転車に乗った、禿頭にちらほらと白髪の生えた男性だった。その男性はにたり、と歯のない口を歪めて笑い、Fさんの頭頂部を皺だらけの手でがっしりと掴んだ。
このまま誘拐されてしまうのだろうか、とFさんは思った。だがそれだけだった。気付けば大丈夫、という幼馴染の声と、頭の痛みだけが残っていた。振り返ると、既にその男性の姿はなかった。
その日を境にかそれとももっと後のことだったか、老人の噂はいつの間にか無くなっていた。Fさんは何度かその体験の話を友人にしたが、その話はどの老人の噂とも一致しなかった。一緒にいた幼馴染も、そんなことがあったという話は覚えていないと言っているらしい。