いきたくない
断れる子供は偉い。
子供の頃、網野さんという友人がいた。なんだか酷く印象に残る名前だったので覚えている。
学校が終わってからよく一緒に遊んだのだが、同じ小学校に通っていたのかそうでないのか、近所の幼馴染なのか、年はいくつだったのか、そういったことは何一つ覚えていない。髪は長かったのか短かったのか、どんな服装をしていたのか、下手をすれば性別すら曖昧だが、網野さんという名前だけは覚えている。私たちは学校が終わると、何となく待ち合わせて二人で遊びに行った。私は、友達の少ない子供だった。
公園は上級生に占拠されており、悠々と遊べるような広場や空き地などもないから、私たちは車の来ない路地裏に入り浸っていた。めいめいが図書館で借りてきた本を読んだり、しりとりをしたり、或いは二人で考え事をしてすごしたり、およそ遊んでいるというには程遠かったけれど、網野さんがいない日は寂しいと思える程度に、私たちは一緒に遊んでいた。 そんなある日、いつもの路地裏が何処から流れ着いたか、柄の悪そうな制服の集団に占領されていた。下手に目を合わせて絡まれでもしたらことなので、私たちは仕方なしにその場を去り、邪魔をされない場所を探すためにふらふらと歩き回り、小さな神社にたどり着いた。
神社があるのは知っていた。普段は活発な小学生たちが走り回り、欄干によじ登ったり跨ったりと随分罰当たりな遊びをしていたから近寄りもしなかったが、その日はたまたまそういった子供たちの姿はなかった。天気が悪かった所為だと思う。空が、いつもよりどんよりと重いねずみ色だったことを覚えている。
それでも警戒心を失わない私は、恐る恐る境内に踏み入り様子を伺い、そして更に人気の少なそうな本殿の裏手に回ろうとした。その方が確実に人は来ないだろうと思ったのだ。そしてその神社の本殿の裏には、時々大人が見るような卑猥な漫画や雑誌が落ちているという噂を聞いていたから、それを見てみたい、という気持ちも少なからずあった。
行こう、だか早く、だか声をかけたのだと思う。網野さんが鳥居の下に留まって動こうとしなかったからだ。どうしたの、と聞けば網野さんはただ、
「いきたくない」
と言って首を振るばかりだった。いくら天候が悪そうだと言っても、どうせ降られるまで帰らない小学生たちが、いつ大挙して押し寄せてくるか分からない。だから早く、と私は繰り返した。来ないのなら先に行くよといい、歩き出した私を見て網野さんの足音が渋々ついてくるのが分かった。
境内は枯葉の湿ったにおいがしていた。やはり、雨が近かったのだろう。がさがさと落ち葉を踏み散らかして本殿の裏に回ると、そこには私の期待していたものはなかった。残念に思いながらも、いつものように二人で並んで座る場所を作ろうと屈んだところでがさ、と音がした。
網野さんが立ち止まった音だろう、そう思った。けれど、振り向いたその先に網野さんの姿はなかった。
それからの網野さんの記憶はない。恐らく引越しをしたのだろう。転勤族の多い地域だった。或いは、記憶にないだけでその後も網野さんと一緒に遊んでいたりもしたのだと思う。ただ不思議なことに、網野さんのことは私の家族も当時の同級生も幼馴染も、誰も覚えていないのである。




