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くいしんぼう

ある種の寄生ニートなのではないでしょうか?

 聞いた話である。

 Mさんは数年前、都内のあるアパートに引越しをしたそうだ。

 駅から徒歩十五分程度と少し不便はあったが、近くにコンビニやスーパーマーケットもあり、暮らすのには快適であったという。さぞかし家賃も高かろうと尻込みをしていたのだが、その界隈の相場か、下手をすればすこし安いくらいというので、もしや所謂事故物件ではないかと思い不動産屋に確認をしたのだが、それもなかったという。それがあまりにも堂々とした態度だったから、本当に何もないのだろうとは思ったそうだ。ならば、前の入居者から何か聞いては居ないかと言えば、これも特に何もないのだという。ただ、どういう訳かそのアパートのその部屋だけは、長くても二年経たずに引越しをしていく人が多いとのこと。ならば隣の住人がうるさいだとか治安が悪いだとか、何らかの理由があるのかもしれないが、その部屋は二階建てのアパートの二階で、片方は夜の仕事の女性で反対側、角部屋にあたる部屋の住人は至極大人しく、人付き合いもあまりない方らしい。

 早急に部屋を移らない事情があり、それならなるたけ安い方がいいとそれなりに切羽詰っていたMさんは、早々に内見を済ませたのだが、部屋の中を散々見回ったところ特に問題も見当たらなかったそうだ。日当たりも良く周囲の環境は静か過ぎるほどに静かで、若い女性であれば夜などは少し怖いかもしれないとは思ったが、Mさんは三十も半ばを過ぎた独身の男性なので、そこも気にならなかった。

 ならば、と滞りなく契約を済ませ、然程多くもない荷物を持ち新しい根城に移って、しばらくはMさんも慌しい日を過ごしていたらしい。その中で、不義理だとは思うが両隣への挨拶も満足に出来ず、時折アパートの前や廊下ですれ違っては会釈を交わすだけで、何だかんだと一ヶ月が過ぎていた。聞いていた通り騒音なども気にはならず、二度ほど隣の女性が正体を無くすほどに酔って明け方に騒いだ以外は問題も起きなかった。その女性は翌日、Mさんの在宅の折を見て部屋を訪れ、Mさんが恐縮するほど丁寧な謝罪と、何んだか高そうな菓子折りを差し入れてくれたそうで、それ以来何かあれば声を掛けたり裾分のようなことをする間柄になったという。

 さて、反対側の隣人である。

 これは不動産屋から聞いていた通り大人しい人で、Mさんが挨拶をしても軽く首を振る程度の返礼しかなかったという。最初は、引越しの挨拶がなかったことが気に障ったのかとか、Mさんが己でも知らぬうちに何か粗相をしていたのだろうかと考えたが、隣人はどうやら元来愛想のないタチらしい。

「人が嫌いなんでしょうヨ」

 何かの折、ふとそんな話をしたところ、反対隣の女性―――親しくなるうち彼女はYさんと名乗ったそうだ。しかしそれは、店での源氏名だったと後に名刺を貰い知ったという―――はつまらなさそうにそう言った。Yさんも引っ越した当初は、職業柄何かと愛想よく声を掛けたりなんだりと下のだが、俯いて何やらぼそぼそと答えるだけで、そのうちに構うのをやめたのだと言う。

 隣人は二人で住んでいるようだった。件の愛想の悪いのは髪の長い女性で、昼間は不在にしているらしい。もう一人は快活そうな男で、こちらは頭を下げれば笑顔で返すし、今日は暑いですねなどと軽い世間話をしたりもする。その話をしたところYさんは、


「そっちは見たことがないね」


 とにべもなく答えたのだから、もしかしたら家から出ることが少ないのかも知れない。

 Mさんは男性の方には好感を持ったので、ばったりと出くわした時などはひとつふたつ、言葉を交わすようになったという。

 そうして特に何の問題もなく、気付けばその部屋に越してから半年ほどが過ぎた。相変わらず隣人は片や愛想なく、もう一人はにこにこと朗らかだった。

 そんなある日、Mさんの家に郷里の母からミカンが箱で送られてきた。特に農家という訳ではないがMさんの里はミカン農家が多く、検品でハネられたミカンを安くで販売しているのだそうだ。Mさんもミカンは特に嫌いではないが、さすがに一人では腐らせてしまう量だったので、これはとお裾分けに出向いたのだという。

 幸い、Yさんは出勤前の在宅で、ミカンは大好きだと大喜びしたのだそうだ。それならばまだあるから、と後日また分ける約束をし、そのまま反対隣へも声を掛けに行ったと言う。

 出てきたのは女性だった。郷里から送られたものです、とMさんがミカンを差し出したところ相変わらず愛想のない顔でぼそりとありがとうございます、と頭を下げる。無愛想もここまでくると無礼だなとMさんは思ったが、欲しくもないものを押し付けてしまったのかもしれないとそこは堪えた。ドアの隙間からちらりと、部屋の中を見ると別段変わったところはないが、いつもの男性の姿はない。

 特に掛ける言葉もなく、それではと静かにドアを閉められたので、Mさんは仕方なく部屋へ戻った。普段なら無愛想な人だ、と済ませられるところなのだけれど、ミカンを渡す時に一瞬触れた手がびっくりする程冷たかったので、なんだかそれが気になってしまったのだそうだ。そして、今までの住人が早々に転居してしまう理由は彼女にあるのかもしれない、とも思った。確かに薄気味悪くて生気の薄い人だった。

 とは言え、それが人としての個性であるなら別に気に咎めることもない。特に関わらなければいいだけだとMさんもしばらくは彼女のことは忘れていた。そうして数日経った後、隣人の男性に廊下で出くわしたので、ふと思い出しなんとなくそんな話を持ち出してみたのだ。


「ミカンですか?」


 男性はそう言って怪訝そうに首を傾げた。あれ、と思った。男性が本気で知らない様子だったからだ。なので、Mさんは数日前に実家から届いたミカンをお裾分けに伺ったと詳細を伝えたのだが、男性が眉間にシワを寄せて考え込んでしまったのでこれは拙いことをしたのでは、と思った。彼女がミカンを嫌いで捨ててしまったか、或いは一人で食べてしまったのか、どちらにしても余計なことを言ってしまったと思ったのだそうだ。


「僕は、知りませんけど」


 てっきりミカンの話だと思っていたMさんは、Mさんは慌ててミカンはまだあるのでよければ、と取り繕ったのだが、男性はおかしいなあ、と呟いたのだという。


「時々あるんですよね、何故かそういう事が」


 男性はそう言うと、あまり気にしないでくださいと頭を下げ、もしよかったらミカンをいただけないかと言ったのでMさんもホッとして、急いで部屋からコンビニの袋に残っていたミカンを幾つか入れて男性に手渡した。彼はとても喜び、さっきの話は気にしないでくださいと部屋に戻っていったそうだ。

 男性は知らない、と言った。よくある、とも。入居前から短期間で転居する住人の噂を聞いていたMさんは、その話をすぐにオカルト的なものに結び付けてしまったのだという。つまり、何らかの霊なのではないかと。隣の部屋には女性の霊が住み着いてるのではないかと。住人である男性が一切気にも留めていない様子だから、それならMさんも気にしないでいようと考えた。そういうことなら、あの女性にはあまり関わらずにいよう、と決めたのだ。

 ところが、翌朝。

 激しくドアを叩く音で目を覚まし、時計を見ると朝の六時だったという。在宅で仕事をしているMさんは、前日は考え事をしてしまったこともあり眠ったのは三時ごろだったので、何事かと思いつつも機嫌悪くドアを開けたという。何にせよ、火急の事態出なければ文句のひとつも言ってやろうという気構えでいた。

 ところが、ドアを開けてそんな気はなくなってしまった。今朝方あれは幽霊であったと結論付けた女性が、憤怒の形相で立っていたのだ。


「いい加減にしてください」


 彼女の大きな声は、半年暮らしてその時初めて聞いた。彼女自身も大きい声を出しなれていないのか、肩を上下させながら息を切らせ、さらに続けて怒鳴った。


「何の嫌がらせなんですか」


 そう言って投げつけられたものは、昨日スーパーの袋に入れて隣の男性に渡した里のミカンだった。


「それは昨日お宅の男性にお渡ししたもので―――」

「男性?」

「あなたに差し上げたミカン、食べてないと言うから」


 Mさんがそう言うなり、女性はぶつぶつと何やらを呟き出したという。目は見開いているし髪は逆立つかの勢いで、割と怖いもの知らずと自負していたMさんもさすがにこれには怖気づいたと言う。断片的にありえない、とか、絶対許さない、とか気持ち悪い、とかの言葉が聞こえて、Mさんはこのまま祟られたり呪われたりするのではないかと思ったという。

 彼女に気圧されて一歩後ずさりしたところ、反対隣の部屋のドアが開いてYさんが顔を出した。その時にMさんは聞こえているのか、とぼんやり思ったそうだ。仮に彼女が幽霊なのだとしたら、Yさんにまで聞こえるのは凄いことなのでは、と。

 仕事明けなのか、ねむたげな顔をした素顔のYさんは、あからさまに不機嫌な顔していた。


「ちょっとさあ、朝っぱらから静かにしてくンない?」


 声を掛けられてもなお、女性は顔を上げずぶつぶつと何か呟いている。Yさんはふう、と深い溜め息を吐きMさんの方をちらりと見たので、Mさんは促されるように事情を説明した。話すうち、Yさんはどんどん怪訝そうな顔になり、Mさんも自分の話に自信が持てなくなったという。仮に、この女性がYさんに見えていないモノだとしたら、と。


「何言ってんの?」


 Yさんにそう言われ、やはり自分がおかしかったのかと思う。そう考えたら目の前の女性がより恐ろしくなった。

 視線をちらりと逸らすと彼女の部屋のドアが少し開いているのが見えた。開いていたのだけれど、部屋の作りは同じはずだから、彼女の部屋のドアも自分の部屋と同じ向きに開くはずだ。その所為で、Mさんの右隣から顔を出したYさんの姿は、ドアに遮られて見えない。だからMさんが左隣を見たとき、見えるのはドアだけのはずなのだが。

 男性が、笑顔でこちらに会釈をしていた。いかにもすまなさそうに、多分、迷惑を掛けて申し訳ない、といった感じの表情をしていた。なので、Mさんも反射的にそちらを見て会釈をしてしまったのだが、Mさんの視線を追った彼女が声を上げた。悲鳴ではない。獣の雄たけびのようだった。

 その途端。

 時間にすれば一秒にも満たなかっただろう。自室のドアに向かい、彼女が声を上げる寸前。

 男性がすう、と消えた。




 それから数週間後、Mさんは引越しを決めた。不動産屋にはやはりですか、と不満とほんのわずかな怒りが入り混じったような顔で言われたが、あれ以来、アパートで彼女と顔を合わすことができなかったのだ。

 念の為に、と聞いてみたけれどあの左隣の部屋も、特に事故物件ではないらしい。それであれば、あの男は彼女についてまわる何かだったのだろうか。


「お宅の隣も越すそうですよ」


 不動産屋はまあこれからは入居シーズンですから、と身も蓋もないことを言って笑った。仮にアレがあの部屋に住み着いた何者かであったのならば、彼女が越すのも道理だろう。こうなってしまえば、あの部屋で起きていたことなど、特に不動産屋に話す義理もないだろう。

 Mさんがその部屋から越そうと思った理由はもうひとつあるという。


「それが、その騒動があった何日か後のことなんですけど」


 既に新しい家に移って長いはずのMさんは、私の記憶にある同じ人物より少しだけ痩せ、少しだけやつれていた。


「彼が来たんですよ」


 あのミカンを食べそびれてしまったので、と彼は言ったそうだ。いつも通りの愛想のいい笑顔で、悪びれた風もなく。Mさんは特に何も考えず、残っていたミカンを渡したら、それぎり姿は見せなくなったそうだ。


「ただね、本当時々、時々なんですけど、家に置いてある食べ物がなくなることがあるんです」


 食いしん坊なんでしょうね、彼は、とMさんは呆れた顔で笑った。私には見えないんですが、と言い添えて。


「見えないならいいのかな、と思ったりするんです」


 都内の駅から近い、その分手狭なMさんの部屋の、キッチンの影からやたら愛想のいい男が、こちらに笑顔で会釈をするのが見えた。

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