37話 無界の王
黒い靄があたりを包む。瘴気ではない。瘴気すらその場所では何物にもならなくなる。そこには何もない。何かであったはずの存在が居る筈なのだが此処に落ちた時点で何者でもない。全てが無になる、それが無界。
八層の最下層とはいえあまり広くないその世界の中心に、この世界唯一何者である人物は何をするまでもなく立っていた。
灰色の髪に灰色の瞳。階層主らしく髪はとても長い。その名は無王、秦淵。
「……来たか」
少し掠れた声が靄の中に響く。彼は殆ど会話をすることが無い。訪れることができるのは階層主だけで、その階層主も2名を除き自分の階以外は関心が薄い。
その除外される数少ない存在、深皇と史真。最高神と魔王は各々足場固定の魔法陣を敷いて無界へ降り立った。
「何千年ぶりになる?」
「……史真とは、8000年、か、その程度かと……お初にお目にかかる、当代の最高神、深皇」
「お初にお目にかかります無王、秦淵」
「来ると、思って居ました」
「……用件は分かっているのだろう?」
「えぇ……1000年前の、あの日の事ですね」
「……貴方はあの日、権能譲渡の儀にいらっしゃらなかった」
「えぇ……ですが、何があったか。それだけは、理解しています」
ふわりと靄が舞う。この靄こそ無王の権能、何物にもならなくなる権能。最高神と魔王とて本気で権能を浴びればたちまち存在が無くなってしまうものだった。
「……あの日、太陽が無くなった日、この無界に私以外の、生命体が現れました」
「……此処に?」
「はい……信じられないことですが、此処に合ってなお自我を保ち続けた……彼女は私の眷属のような形で、此処に存在し続けていました」
「女性形だったのですね」
「えぇ。名は、確かアコニト。そう名乗りました」
「……名を名乗る程度には知能もあり、かつ、この無界で存在を確保できる者……」
「それ、本当に8層の生命体で区切って良い者なの?」
「わからないが、原初の神でも無いのだろう」
「原初の神ならまぁ……行ける、かな?」
原初の神。それはこの8層に及ぶ階層を作り上げ、その管理を最高神という生命体として作り上げた史真に任せて彼方へ飛び去った8柱の神。内2柱はこの8層に残り世界を見守っている。残りの6柱が何処に消えたかはほとんど誰も知らない話。だが此処に居るとは考え辛かった。
「……あれはそんな、大層な者では、無い。原初の神は、時折無界を、ゴミ捨て場にするが。あの子には、気付きもしなかった」
「…………ごみすてば」
「……アレらしいと言えばそれまでだな」
おそらくこの場所を面倒か手に負えない物のゴミ捨て場としている原初の神の1柱に心当たりのある最高神と魔王は揃って渋い顔をする。勿論史真の表情は変わらない。その様子に秦淵は笑みを零した。
「対処としては、問題ない」
「そうなんだけど……」
「……それで?その女は今何処に」
「……1000年、この場所に、ただ何をするわけでもなく、居たのだが。つい先日、姿を消した」
「それって……」
「……おそらく、アコニトは、此処に落ちる前から、この無界の力を使っている」
靄が舞う。この靄こそ秦淵の権能、無界を取り囲む能力の姿。
「何にもならなくなる力、権能ではあるが、この無界に広く行き渡っている力でもある」
「えぇ……魔界の魔物を操ったのも、この力」
「だから史真の命令を聞かない魔物だった……なるほどね……」
「明確な罪が無くては、この無界に、収容できない。だから、アコニトのやることを、止めてほしい」
「……もちろん。それが必要な事だからね」
「あぁ……案ずるな秦淵。この一見弱そうな最高神だがやる時はやる」
「史真、一言余計」
「ふふ……」
秦淵は淡く笑う。感情は薄いが秦淵にも感情はある。感情が無いのは階層主では史真だけ。深皇は内心立場が逆なのではと思って居た。
「私の力が、必要になったならば、いつでも言うと良い。出来る範囲で、力になろう」
「わかりました」
「出来る範囲と言わず有無を言わさない方が良い。コレはそういう階層主だ」
「だよねっ」
「……史真。余計な、事を言わないように」
「事実だろう」
人間界より下の階に関して言えば史真の方が詳しい。そんな所でも自分との差を見せつけられながら深皇は笑った。この差だけはどうしたって埋められないのは事実なのだから。所詮自分は長い長い天界の歴史からすればつい最近即位した新参の最高神。原初の神々から八層を託された初代最高神史真とはキャリアの差が歴然なのだから。
「じゃあ、僕と史真はこの辺で。有事には遠慮なく駆り出しますから覚悟してくださいね秦淵」
「……善処しよう」
言質を取り、深皇と史真はふわりと上へ向かう。まずは冥界へと足を向ける。
「では、また」
「……あぁ」
無界は元の静けさを取り戻す。おそらくこれから彼らに有無を言わさず巻き込まれるのだと思うと無王、秦淵はため息とともにこの静けさを噛み締めていた。
冥界から魔法界を経由し深皇と史真は人間界へと舞い戻る。司の部屋まで戻れば時刻は深夜。ふわりと降り立てばそれでも待っていたのか衛理と清志は揃って炬燵で寝落ちしていた。
「あ~あ……風邪ひいちゃうよ」
「とりあえず寝かせよう」
解けるように最高神と魔王は学年主任と講師へ転ずる。同期2人を司の家で泊まる時の定位置に運び、炬燵へと戻っていく。炬燵は二学期お疲れ様会の時点で神哉の部屋から司の部屋に持ち込まれたものであり、集まりの効率と神哉の冬の生活態度是正のため司の部屋に置きっぱなしとなって居る。
「……問題はいくつかあるけれども、まずはアコニトと名乗った無界の徒が今何処にいるのか、そして太陽の姫の暗殺や魔界魔物操作などに関わっているのか」
「あと清志の学校で発生した魅了事件も含めておけ。どうやったかは知らないが上にあがったのならば魔法界か魔界からかすめ取っていった可能性もあるだろう」
「うん……多分鍵となって居るのはその転校生なんだ。しかも聞いた話、女子生徒」
「符合はするな」
「そう。でも一度本人を見てみないと何とも言えない」
コトンと神哉の前にホットココアが置かれる。少し甘さ控えめなココアは神哉が買ってきて司が淹れたもの。食事に関して無頓着な神哉だったがこの部屋にコーヒーや紅茶などの飲料を持ち込んでいた。当然のように司は淹れ方にこだわり提供する。あきれ返りながら衛理に小言を食らったのはつい最近の事だった。
「そちらの調査は任せよう。私は、やはりあの矢が気になる」
「姫ちゃんの時と、この前。似たようなと言っては何だけれども」
「いや、アレは殆ど同じ矢だ。お前は当事者だったからいまいち実感はわかないだろうが」
「……あの矢、本当に僕を狙っていたのかな」
「……確かに、射線上には鴻も居たな」
「うん……」
あの現場、飛んできた射線上に神哉が居ただけで本当は真唯が狙われたのではないか。だとすればかつての暗殺事件の再来で、それは衛理にとって最悪の事態だった。
「衛理さ、本当によく笑うようになったよね」
「……あぁ。前は私程とは言わないがそれなりに笑う程度だったな」
「この前なんて木原さんが闇魔法の応用見つけたって嬉しそうに報告してきてさ」
「D組も凝り性は研究科顔負けだからな」
「うん……僕はそんな衛理が笑っていられる世界を望むよ」
「……平穏な世界であるならばそれが一番だ」
「だよね」
夜も更ける。毛布を確保し神哉はそのまま眠り、司もまた定位置で眠りについた。神と魔王であっても今は人の身。人並みの生活を送るのが、日常だった。
防壁が弾く音が響き渡る。今日もD組は防御障壁の授業に勤しんでいた。
「だいぶ見れるようになってきたな鴻」
「でもやっぱり守りって苦手かも」
「お前の性分じゃな」
今日も真唯は衛理の特訓を受ける。その後ろで高度戦闘になりかけている2人に気付いた衛理は真唯に炎弾を指示、着弾の衝撃も2人は防御障壁で防ぎ切った。
「おいコラ司っお前藤森の防御障壁張る速度計ってどうする」
「いや何。この数日で多面展開は18面、多重展開は8重と鴻も驚きの成長速度を見せるのでな」
「で、でもさすがに疲れました……止めてくださってありがとうございます黒風先生」
「無茶すんな……」
「攻の僕と守の陽菜っちが居れば最強じゃね?」
「そうかもね。フォーメーションのバリエーションが増えるわ」
「だね。爽子、ちょっといろいろ組んで見ない?」
「良いわよ」
賑やかにフォーメーション会議に入る司令塔組を見ながら陽菜は一息つく。元々の運動神経の無さはどうしようもないが陽菜にはそれを補うための手段が多数存在していた。特に反射速度を上げるためにいくつもの魔法を多重展開させている。あの日、神哉を守った時も違和感に気付いた瞬間、魔法を多重展開していた。
とんでもない実力者ばかりのクラスに居る陽菜は気付かない。魔法の多重展開がどれほど難しいか。それは魔法界の住人でもなかなか居ないレベル。人間界ではトップクラスの実力者でもなかなかできない離れ業。それを彼女は日常的に難なく使いこなしている。
「やっぱ藤森もⅮ組なんだな」
「どゆことセンセー」
「気にするな。さて……そろそろ攻撃手段が恋しくなってきたころじゃないか?鴻」
「手合わせ?!」
「軽くな」
跳ねて喜びを表現する真唯を見てⅮ組メンツは和む。それは彼女たちにとっての日常であり、何がなんでも守りたい平穏だったから。
「……真唯ちゃん、きっと私の防御要らないぐらい強いんだと思う」
「陽菜?」
「それでもさ、真唯ちゃんが守りたい人を私が守れば、その分真唯ちゃんが戦えるんだよね」
「……そうね」
「じゃあ頑張らないと。とりあえず目標は20面展開と10連展開かな」
「お前ならばすぐに出来るようになるだろう」
「黒治先生のお墨付き」
「陽菜なら出来るよ」
「うんっ」
規格外のクラスに頼りにされる。それだけで陽菜は自信を取り戻していった。
放課後、生徒が誰も居なくなり、教員たちも疎らになる夜、衛理はようやく帰宅の徒に付いた。駅から近い物件を選んだのは本当になんとなくだったのだが帰宅に労力を使わなくて良いという点で好立地を選んだと思い返していた。
「ただいま……」
返ってくる声の無いただいまを言うのも慣れた。今日は久しぶりの真唯との手合わせを含め、詠唱科が多重詠唱で威力を高める実験を始めたり解析科がスライムの構成式を解析しようとしたりと中々にハードな授業が続いていた。さすがの衛理も疲れが貯まる、夕飯の準備をする気力もないが神哉に食育を施している身としては自分が食べないわけにも行かない。何とか作り置きしてある総菜を手に温め盛りつけ、テーブルに置いた。
「……防御障壁ね……」
戦闘科だけではなく他学科の1年にも余裕があるならば教えることとなった防御障壁。出来る生徒は人を守ることのできるサイズを展開することが出来、イマイチ出来ない生徒も真唯のように自分への攻撃防御に仕える手元に出す盾サイズは出すことが出来た。傾向としては戦闘科と同じ、後衛向きだった生徒が前者、前衛向きだった生徒が後者のサイズの防御障壁を張っている。
コーヒーを飲みながら衛理は思案する。前世の自分は真唯と同じ、自分の身を守るだけの防御障壁しか張っていなかった。他人を守れるサイズの防御障壁を張れるのは一部の実力者たちと階層主、そして魔法界の住人達ぐらいのもの。あの時、アエトスが暗殺された時、自分に防御障壁を張る実力があったのならばと後悔しない日は無い。今世で魔法が使えるようになって衛理が真っ先に覚えたのも防御障壁だった。だから今は大事な生徒達を守ることが出来る。
感知も出来ない矢だと司も神哉も言っていた。実際に衛理も神哉の時、気付けたのは陽菜が防御障壁を張った時だった。陽菜は風切り音で分かったと言っていたが確かにⅮ組の数名が風切り音に気付いていた。それは異変を察知することに長けた司令塔組であり、前衛組の細やかな動きにも対処する必要がある後衛組の何人かだった。
食器を片付け、ベッドに寝転がる。明日もあの賑やかなクラスと、それに負けないぐらい問題児揃いの1年生を見なくてはならない。
「……もっと、だよな」
力が無ければ彼女たちを守ることが出来ない。自分たちの遥か高みを跳んでいく彼女たちを守るためには。守るべきものが増えた。ならば自分の実力ももっと強くならなければならない。そうでなくては、あの時無力にも姫を喪った自分と何も変わらないのだから。
眠りの淵に落ちる。明日がある。そっと、瞼が伏せられた。




