《第82話》野球場
「この建物は何なんだ?」
円形の建物を見上げてエリックがインフィに尋ねる。
「まるで闘技場みたいね」
アミールがその建物の形状から彷彿とした物を、感想に述べる。
「闘技場……そうだね」
建物は円柱上で、高さよりも幅の方が広い。
「先程の通りも大きい建物ばかりですが……この建物も大きいですね」
「東京ドーム一個分」
インフィはいたずらっぽく言って、意味がわからずぽかんとする仲間をよそに、一人でくすりと笑う。
「さっきテレビに映ってたでしょ? あれは野球っていうスポーツなんだ。スポーツって、ええっと、運動競技って意味なんだけど。ここはその野球をするための施設なんだ」
インフィは言いながら、フォートラスとフィフトラスで、通じる事と通じないのものがある事を不思議に思った。
「博士は野球をしているのですか?」
「いや、たぶんしていないと思う。でもさっきのテレビ。あれって他の物を映すことができるんだけど、野球が選ばれていたじゃない。もしかして博士って野球が好きなんじゃないかなって思って。それならここは博士にとって重要な場所だってことになる」
野球場には他の場所と同様、人の気配が無かったが、街中のように喧騒が聞こえるでもなく、しんと静まり返っていた。インフィはどこから入ったものか辺りを伺い、建物の一角に扉の無い石の壁の出入り口を認めてそちらに向かう。出入り口をくぐると、外壁の内側のようで、中にはさらに円形の壁があった。大きな砦の歩哨の中の通路のようだと思いながら、インフィは首を捻って呟く。
「う~ん……勝手がわからないなぁ……とりあえず客席に出てみるかなぁ」
インフィが先導するしかなかった。インフィ以外にとっては全く未知の建造物だ。インフィも勝手がわかっているわけではないが、だいたいの構造は想像がついている点で、他の皆とは違った。
インフィがあたりを伺い、当たりをつけながら通路を進み、通路状になった階段を上ると、視野が開ける。正面は再び階段状に下ってその先が広い草地の地面になっていた。円形の草地は低い壁でぴったりと囲まれており、その壁より外側は階段状の床で囲まれ、全体はすりばち状の形状をしている。階段状の床はインフィらが上がってきた階段とこの区域の出入り口を越えて、背後を振り替えるとかなりの高さまで続き、壁に区切られている。壁から壁へピッタリと白い天井が覆う、また、階段は緑色の椅子に埋め尽くされ、無機質で得体の知れない様相をしていた。
「中も闘技場のような形式ですね……」
サディウスもまた、その形状を闘技場に例える。インフィは頷いた。
「そうだね。通じる部分がある。中央が競技場で、階段状になってる外周は客席なんだ」
その開けた広大な空間は、アミールら帝国兵と共闘した洞窟の空間を思い出させた。
「魔物がズドン、は勘弁だぜ」
エリックが言うが、魔物どころか人の気配も無い空間にインフィは途方に暮れるようにした。
「あの草地で競技をするのですかね?」
サディウスはフォートラスの知識に恐れを抱かず、興味を持っていた。
「そう。作った芝なんだけどね。……降りてみるか」
言ってインフィはあたりを見渡す。
「客席から降りれる場所なんてあるのかな……」
インフィが何かを探すのを見て、グレイが首をかしげる。
「直接降りればいい」
インフィははっとして答える。
「えっ、それもそうだね」
自分の思考に違和感を抱いた。草地と外周を仕切る壁は人の腰くらいの高さしかなく、低い。降りるのなら、簡単に壁を乗り越えればいい。だがインフィには言われるまでその思考がなかった。その違和感の正体がわからないまま、インフィらは客席の階段を下り、壁を乗り越えて草地に降り立った。
「客席からグラウンドに降りるとは何事だ。試合妨害行為とみなされるぞ」
ふいに呼び掛けられた声は、ココノエ博士の声だった。一行は声のした方を振り返り、身構える。
草地の一端が壁を抉ったように空間が開いており、そこに下り階段がある。ココノエ博士はその階段を上がってくる。
「ここまで来れた所を見るとあの世界を知っているようだが、そのくせに野球を知らないとは関心せんな」
「野球には興味無かったからね……」
ココノエ博士にはインフィ以外が視界に入っていないかのように、インフィだけに一方的に話し掛けていた。
「では、何に興味があるというのだ? おまえくらいの年の女性のことだから、音楽やドラマなどだろう。あの流行りの歌はなんだったかな。薄紅色のなんたらいう歌詞の曲だ。あの歌は嫌いじゃないな」
「その歌くらい知ってる。有名だし」
「おまえは高校生か? それとも大学生か」
「いや……私は……」
インフィは何かに心が囚われてしまったように硬直した。脳裏に様々な記憶が溢れていく。インフィはその記憶の本流を止められずにいた。それはフォートラスの記憶だった。そしてフォートラスの記憶に押し流されるように、フィフトラスの記憶が遠退いていくのを感じたが、止められずにいた。
記憶が流れることを押し止められないこの感覚には覚えがある、そう思った時、インフィの脳裏に流れ行く記憶から声が響いた。
(かあさま)
インフィはただちに我を取り戻した。脳裏に響いたトキの声が、インフィをフィフトラスの記憶の中に押し留めた。
「……フォートラスのことを話してどうするつもりだ」
インフィの口調には怒りがあった。フォートラスの記憶を取り戻せば、フィフトラスの記憶は失われる。インフィがフォートラスの記憶の中にあれば、インフィは無力になる。シアルを出た船の上で、フィフトラスのことを思い出したと共に戦う力を取り戻したのだ。フォートラスのことを思い出せば、戦う力を失う。インフィには、そうであるとわかった。
「どうやら本当にあの世界を知るようだな。だが脳が錯覚しているのか? それともあの世界の観念とこの世界の観念が同居できないものなのか? 私にはそんなことは無い。おまえは興味深い現象を起こしている」
博士に指摘されてインフィは困惑した。フォートラスの情報を思い出すと、フィフトラスの自分が遠のくように感じた。フィフトラスに来てフォートラスのことを思い出せなくなっていくあの現象の逆だ。
(そうか。神法だ……神の力がフォートラスの記憶を拒んでいる。いや、フォートラスでは神の在り方が違ったんだ。フォートラスでは神々は神の世界にいたという。フィフトラスではずっと眠っているという……なぜ目覚めない?)
博士は興味深そうにインフィらを観察していた。博士に、地上で会った時のように苛立った様子は無い。
(なぜ……神々は……)
インフィの脳裏に何かがあふれようとしていた。
ふいにインフィの肩にグレイが触れて、インフィは自分が何かに取り憑かれたかのように思考に陥っていたことに気がついた。グレイは無言でインフィの目を見た。
(これは……考えると私が私じゃなくなる……)
グレイがそれを察してインフィを止めたことに気づいて、インフィはグレイに頷き返した。
疑問は次から次へと浮かぶが、どれも答えが出るような物ではなかった。
インフィは意を決して博士に尋ねた。
「博士。あなたはこの世界をどうするつもりだ? 一度滅ぼして作り直した世界をまた滅ぼしてどうする?」
それらが本当のことかはまだわからないし、半ば信じられないでいた。博士の言うことを本当だと仮定することで、博士の意図を聞き出そうとしたのだ。
問われた博士はすぐには反応しなかった。
「滅ぼすことが私の目的ではない」
博士は答えた。インフィの推測そのものは外れていないと理解できる内容だった。
「生命がどのように作られるか知っているか?」
対話をするつもりが博士にあることに、インフィらは内心驚いていた。博士は語り続けた
「赤ん坊が生み出されることではない。もっと根本的な、生命の起源だ。私はそれを研究しておるのだ。世界が生まれ、そこにいかようにして生命が発生するのか。私はあの世界を滅ぼし、新しい世界で生命が誕生する様を見た」
博士の言葉は簡潔でありながら、その内容に想像がついていかなかった。博士は構わず話を続けた。
「生命が生まれ、進化し……だがこの世界はあくまであの世界と同じだった。同じような生命が育っていった。私はエムで刺激を与えた。するとある程度操作することができたのだ。あの工程は非常に好奇心が刺激されるものだった。そのうち、あの世界と違う生命に進化させるために、あの世界には無かった要素であるエムを生命体に深く内包させる方法に行き着いたのだ」
「まさか、そうして生み出したのが魔族なのですか?」
すかさず問いかけたのはサディウスだった。
「だが不完全だから破棄したのだ。そういえばおまえは魔族とおまえらが呼称する物だったな。安心しろ。フラスコにいれば崩壊現象を起こすことはない」
サディウスはあ然とした。目の前の男が、魔族を生み出したというのだ。マティケの掟は博士の言葉が何かしらで残ったのではないかとサディウスは咄嗟に考えた。
「待ってください。フラスコというのは魔界のことですね? ……なぜ、あそこで魔物が生まれたのです。インフィが魔力を解き放ったあの時……あそこは魔界だったはずです。博士、あなたの言うとおり、魔界でなら世界の崩壊を招かないなら、世界の崩壊が魔物を生み出す現象と同じことなら、なぜあの時魔界で魔物が生まれたのです?」
サディウスはインフィが魔物を生み出した時のことを指摘した。言われてインフィははっとする。
「確かに、博士の言うことが本当ならおかしい……」
訝しむ一行の様子に反して、博士はサディウスの言葉に目を輝かせた。
「それは本当か! でかした! ならばそれは、世界の融解現象がフラスコの境を飲み込み融和しつつあるということだ! いいぞ! ならば融和を加速させ続けて、フラスコを解放すれば、あそこに詰まった高濃度のエムが解き放たれ、世界の崩壊が一気に加速するぞ! それでいい! 今度こそアイの世界の創造に着手できる!」
博士はさも愉快そうに笑う。だが、瞳はぎらついていて、まるで魔物が現れたときの忌避感をインフィたちに呼び起こした。
「アイの世界?」
「そうだ! アイが行くことを望んだ世界だ!」
博士は訳のわからないことを言ったが、博士は自分自身で自分が激昂していることに気づいた。
「この私としたことが興奮しすぎた。余計なことを喋ったな」
ふいに殺気が放たれたことに、一行は身構える。
「だが、貴様らの情報は有益だった。まだ研究したいことがある。エーエム! 氷結牢に捕獲しろ!」
博士は空中に向かって、エーエムという相手に命令するように言い放った。すると答えるように無機質な声が響く。大穴の縁で博士と会話していた声だ。
「了解しました。捕獲シークエンスを開始します」
芝生だった地面が、インフィたちの足元を囲うように円形に光を放つ。危機を察知し一行それぞれが行動をとる。その円形から離れようとした。
危ない!
真上に来い!
突然響いた知らない声に、すぐさま従ったのはアミールだった。アミールは博士が現れたあたりから、落ち着いて周囲を伺っていた。
「みんな! こっちよ!!」
アミールは呼びかけに答えて、持っていた槍を地面に突き刺した。アミールの槍が地面の光に亀裂を入れた。光が消えた場所には芝生ではなく、硬い青白い物質があった。その物質が青白く光り、皆を飲み込む。




