《第74話》大型帆船出港の時
「クロって何?」
インフィとアミールは出港準備が整うのを船室のひとつで軽食をとりながら待っていた。インフィは未だ納得いかないという顔でアミールに詰め寄る。
「だってインフィが本名名乗ったらまずいでしょ?」
「えーっと、そうじゃなくて……いや、そうなんだけど……なんか犬とか猫みたいな名前でイヤなんだけど」
アミールが言われてやっとそのことに気づいたようで笑い出す。
「あら、やだ、本当! うけるー!」
インフィは本当に今気づいたのか疑わしいなという目でアミールを睨む。
「由来は七勇士のクロノス。とっさに思い付いたのがそれだったんだから仕方ないでしょ」
依然インフィはアミールをじと目で見ていた。
「クロ!」
扉を開けてサディウスが入ってくるなりクロ、の名を呼んだ。インフィはむしろ悲しげな顔をして振り返った。
「この船、倉庫に楽器がしまわれてるそうですよ! 音楽家などいないのでぜひ弾いてくれと頼まれてしまいました」
サディウスはインフィの様子には構わず、無邪気に喜んでいた。
インフィがじと目でサディウスを見つめるとアミールが解説した。
「名前が気に入らないんですって」
「そうですか? 愛らしい名前じゃありませんか」
「愛らしい……それってやっぱり犬とか猫っぽいってことじゃ……」
「名前っていえば、そうよ。インフィの昔の名前って?」
アミールが尋ねるが、インフィは何のことかと首を捻る。アミールは今度はサディウスに尋ねる。
「魔界にいた頃の名前よー。気になってたのよね。インフィの名前は上皇陛下が下さったんでしょう?」
ああ、と同じタイミングで納得の相づちをうつインフィとサディウス。上皇とは先代の皇帝、すなわちインフィの養父、クウェスタの実父のことだ。
「魔界での名前、無いよ」
「だったらサディウスっていうのは?」
「地上で使うためのあだ名みたいなもんでしょ?」
インフィがサディウスを振り返ると、サディウスは頷いて説明を始めた。
「マティケの王族は名前を持たないんですよ。常に敬称や呼称で呼ばれるわけですから必要も無いんです。私のサディウスという名前はインフィが言う通り、魔界以外での便宜上の名前です。あだ名みたいなものですねぇ」
へぇ、と相づちをうつアミール。
「じゃぁ、何て呼ばれるの?」
「私は王ですから王と呼ばれますねぇ。王位を継承する前は継承者と呼ばれますし……」
「お母さんは自分の子供のことを何て呼ぶの?」
「見た目の特徴などで呼びますかね。それに自分の、とかつけて……たとえば我が翠の子、とか」
「サディウスは碧玉の子、だろ?」
インフィがサディウスの呼び名を知っていることにサディウスはたじろぐ。幼名にあたるので気恥ずかしい物なのだ。碧玉というのも親心からのあだ名にあたる。玉のごとくに美しい、そんな意味が込められているのだろう。
「インフィは銀遼の子じゃないですか」
こちらはインフィの白い翼にちなんだ名前だった。それが雄大に広がる様を遼という言葉で表現しているのだ。
「うーん……地上の感覚からしたら、やっぱなんか変だよね。気取ってて恥ずかしい感じ」
「そうですねぇ」
「クロよりも銀遼の方が良かったかしら?」
これには渋い顔をして答えるインフィ。
「感覚わからないと思うけど、銀遼ってすごく恥ずかしい。たとえばアミールがすっごい小さい頃にお母さんがアムアムちゃーん、とかって呼ぶでしょ? それに近いものなの」
そういうものなんだ、とくすくすと笑うアミール。
ふとインフィは考える。
「そっか。考えてみたら、名前を呼び合うマティケの王族って、きっと他にはいないね」
インフィがサディウスに笑いかけるのでサディウスも笑ってうなずく。
「そうですね」
インフィもサディウスも同じことに気づいていた。こうして兄妹で笑い合って会話できる日がくるとは、魔界にいた頃では考えられないことだと。
エリックは甲板で船員たちが忙しく働く様を興味深く眺めていた。
「邪魔邪魔!」
「おっと、悪ぃ」
船員の移動経路を横切ってしまって、船員に叱られながら、エリックは甲板の端に歩いて来た。そこにはグレイが手すりに寄りかかって、同じく船員たちの様子を眺めていた。
「もう少しかかりそうだな」
エリックはグレイの近くの手すりに寄り掛かりグレイに話かける。グレイはちらりと見て頷く。
「グレイはどこで剣術を習ったんだ?」
インフィがグレイのことを敬称無しで呼び出したので、いつしか皆にもそれが浸透していた。本人はまったくそれを気にした様子も無い。
グレイは甲板を眺めながら答えた。
「正式に誰かに師事したことはない。戦場にいたのでそこで否応なしに身に付いた」
「戦場?」
エリックはその単語に思う所があって反応した。
「昔の話だ。おまえはどうなんだ? あの顔ぶれで引けをとっていない」
「ああ、実は……」
エリックは言うのを迷う様子があったが、先程の戦場という単語に反応した所以を語ることにする。
「俺も戦場にいたことがあるのさ。十代の頃にな」
それを聞いてグレイはエリックを振り返る。
「あんたがいたって戦場はまさか、ローティアススンじゃないよな?」
エリックが戦った戦の名称だった。十数年前におきた西の大陸での戦だ。だがグレイは首を横に振る。グレイがいた戦場は、おそらくエリックが生まれるより前に起きていたものだ。
「そうか……同じ戦場にいたんなら敵か味方かってことだ。そうじゃなくて良かったよ。味方だとしても再会するのは辛いからな……」
エリックが俯き加減に言う。
「そうだな」
グレイにはエリックが言った意味がわかる気がしたので、共感した。戦場では味方を見捨てなければならない場面が多分にある。だから味方だった者に会うというのは、過去に見捨てたかもしれない者に会うという意味だった。
答えたグレイは再び視線を甲板に戻す。その思うところがありげな表情にエリックは気づいた。
「インフィも言ってたんだが、あんた無表情のわりにいい奴みたいだな」
エリックは言って笑う。グレイはちらりと睨む。だがインフィにそう言われたことを思い出し、ため息をつく。
「どちらでも良いことだ。第一、お前達ほどお人好しではない」
「そりゃ確かに」
エリックは言われて豪快に笑う。
その時、汽笛が壮大に鳴り響いた。出港の合図だ。
音を聞き付けて、インフィたちも船室から出て来る。
渡しが外され、帆が張られ、錨が巻き上げられる。
「出港だ!」
インフィたちは甲板に立ち、港町を、いや大陸の姿をまじまじと見た。
船は最初ゆっくり港から離れ、次第に速度を上げていく。
インフィは一歩下がって、遠ざかっていく大陸に深く頭を下げた。
(行ってきます)
頭をあげると皆も感慨深げに大陸を見送っていた。
「出発だ!」
インフィが朗らかに言うと、皆がインフィを振り返り、力強く頷く。それぞれに決意を秘めた表情をしていた。




