《第69話》戦場、グレイの過去
「フォートラスが失われた時、司る物を失った神々は眠りについた」
そう教えてくれたのは誰だっただろう。
インフィが見ていたのは、屍の折り重なる戦場だった。国同士の戦いのようだ。人が剣と術とを駆使して戦っている。
それはグレイの過去の記憶だった。グレイの過去の出来事を、グレイの視点から体験しているのだ。
寡黙に敵を剣で貫き、次々と単純作業のように殺していく。多くの敵をそうして屠った。動く敵は次第に数を減らしていく。彼がいる側の優位のようだった。
敵軍が敗走を始めるが、彼の心は焦っていた。
「貴殿はなぜ戦うのです? それに望めばもっと高い位を手に入れることもできるはずです。あなたの名声は他国に響いています。ご存じないのですか?」
自軍の基地に帰還し、敵から浴びた返り血を拭っていると、味方の兵士に話しかけられた。答える必要はないと彼は感じていたが、戦の後で心がささくれていた。少しだけ彼は思いを溢した。
「……敵軍に弟が捕らわれている。俺の目的は弟を助けることだけだ」
弟、シアルにいる前領主の実子のことかとインフィは思ったが、ティラム大陸で国同士の戦が起こったことは、ここ数十年は無い。
ふいに鏡に姿が映る。それは今インフィが知っているグレイの姿とは違った。黒髪で髪は短い。瞳の色こそ深い藍色というのは変わらなかったが、インフィが知るグレイより若く、顔には幼さすら残っていた。
敵との衝突は何度も起きた。その度に彼は弟の救出に望みをかけ、戦い、敵軍の多くの兵士を殺した。
弟の救出だけを目的に、ひたすら戦う。
戦の回数を重ねるうち、ついに敵の本拠の城に到達する。敵の城の側には川が流れており、この上流はすでに自軍の支配下にあった。川の水は今は少ない。上流で塞き止めているのだ。これを解き放ち、下流の城を水攻めにする。今回の作戦で勝利が決定する見込みだった。
城には弟がいるはずだった。彼は水攻めの作戦が決行される前に、弟の救出のために城へ突入した。
敗戦が続く敵の城はすでに兵士の多くが逃げ出しており、彼の目的を遂行することが可能なほど残っている者は少なかった。彼は城の深部へ到達する。そこには弟が捕らわれているはずだった。
覇気も衰えずに彼に立ち向かってくる兵士がいた。彼は目を見張った。自分に剣を向けるその兵士こそが弟だった。
「兄さん。あなたを倒し、俺は彼女を守る」
弟が守ろうとしていたのは、城に仕えているという娘だった。だがそんなことは関係ない。彼の目的は弟の救出だ。このまま共に逃げればそれで目的は達成できる。
「だめだ。そうすれば彼女は敵の手に落ちて、どうなる?……誰かの慰みものになるだけだ。そんなことはさせない!」
もうすぐ水攻めの作戦が始まり、この城は水没する。時間はない。
弟は問答無用に襲いかかってくる。やめろと何度言っても、決して応じなかった。
「兄さんを倒す。そしてその手柄で、隣国で地位を手に入れる。隣国も兄さんの国と敵対しているのは知ってるだろ」
確かに彼女を守るのはその方法しかないように思えた。
弟とその恋人も自分と共に逃げればいい。いや、戦場でそれは不可能だ。女性を守る方法は戦場には無い。まして彼女が敵国の者であることが知られることがあれば、弟の言う通り残酷な運命が待っている。弟の幸福をどう購えばいいのかわからなかった。
多くの敵をほふってきた彼は強かった。弟は決して弱くはないが、彼には敵わない。
彼は弟の攻撃をしのぐことに集中していたので、物陰にいた人物に気づくことはできなかった。
背後から衝撃を受け、背中に鋭い痛みを感じる。軽鎧を着けていたが、その痛みは鎧の隙間に現れた。彼はそれを敵の出現だと察し、本能的に反撃した。連日戦の最中にある心の状態で、それを敵ではないとは疑うことは無かった。
剣が切り落としたのは、女性の華奢な腕と肩口、首。それらを胴体から切り離していた。床に転がる重い音。それらは、戦場では聞きなれた音だった。
弟の絶叫が響き渡る。
彼はもう一度先程切り落とした敵を見た。華奢な女性で、手に持っていたのは小さな果物ナイフにすぎず、兵士とはとうてい思えない、ガウンを着ていた。
弟は女性の名を叫んだ。彼が殺したのは、弟の思い人の女性だった。彼は絶句し、意識が凍りついた。絶叫しながら背後から復讐に襲いかかってきた弟の斬撃をかろうじて剣で受け止めた。だが殺意の塊と化した弟の力は凄まじく、また彼の恋人を斬った動揺からか、受け止めきれず剣を弾かれてしまう。かろうじて剣を手放さないで済んだが、弟はすぐさま追撃を続ける。何度か剣を合わせ、火花を散らせる。
もう彼がいくら弟の名を呼ぼうと、何を言おうと弟の攻撃は一瞬足りとも止まらなかった。何度も斬り合ううち彼は押されつつあった。だがそれは彼が弟に対して本気を出せないでいるからだった。しだいに彼が負う傷が増えていく。
弟は一端身を引いて助走をつけ、渾身の斬撃を放つ。降り下ろされる剣に、彼は渾身の力を持って剣で受け止めようとした。
だが……。
彼の剣は弟の首にめり込んでいた。その肉を斬る感触に少し遅れて、後方から金属が床に落ちて転がる音がした。
彼の剣は弟の剣が止めるはずだったが、弟の剣が耐えきれずに折れた。
そして彼が剣を受け止めるために放った渾身の力は、弟の剣が受け止めきれず、弟の剣をすり抜け、弟の頸を斬り裂いた。
弟は剣を取り落とし、膝を折る。そしてそのまま前のめりに倒れ込んだ。立ち竦んだ彼の靴を弟から流れ出た血が濡らす。
何のために戦ったのか。敵に囚われた弟を救出する、そのためだけに数多の人間を斬り殺したのではなかったか。
弟を助けるためにその恋人が彼の背中にナイフを突き立てた、その傷が熱く疼いていた。
彼は城の外に向かった。頭の中は空白だった。ただ、目の前に動くものがあれば無造作に斬り捨てた。斬り捨てた中には自軍の者もいたかもしれない。敵だとか味方だとか、斬るべきだとか守るべきだとか、まるでそういう観念は始めから知らないことであったかののように、まったく思い出さなかった。
ただひたすらに斬り殺し、弟の頸を切り裂いた感触を新しい感触で上塗りしていった。
恐れをなしたのは仲間だった者たちだ。彼らは暴走する彼を止めるため、ただ一人を狙って一斉に矢を放つ。
さすがの彼も、それほどの矢を避けきることはできない。いくつかを受け、致命傷をも負う。
だが何もかもどうでもよかったし、何も考えられない。何も感じられなかった。死んでしまいたいとかそういうことすら頭に浮かばなかった。
不意に轟音が聞こえてくる。上流の堰が切られ、濁流が迫ってくる。強大な濁流の激しい衝撃を受けた所で、彼の意識は途絶えた。
「神の力は絶望に宿る。どの神かわからないが、それを望む神がいるからだ」
そう教えてくれたのは誰だったろう。
彼の意識は靄の中にあった。彼は自身に意識があることにまず驚き、それはすぐさま自分の命がまだあることへの悲しみへと変わった。
体は動かなかった。全身の感覚は無かった。今どこにいるのかもわからない。
体に何かが触れた。目を開けても何も見えない。だが自分にふわりとした暖かい物が降り注いでいることがわかった。
それは心地良かった。もしかしたらこれが死の感覚なのかもしれないと思うと、心は安らいでいった。
暖かい何かは体に満ちていった。
目が、覚めてしまった。
そこは川縁だった。あの濁流に飲まれ、流れ着いた場所のようだった。水溜まりに写った自分の姿をあらためると、髪の毛からは色が消え失せていた。
彼は唐突に悟った。
自分は死んで、蘇ったこと。
自分は神の力を手にいれたこと。
それはその力によって成されたこと。
「眠れる神々から零れ落ちた力の欠片。それが集まり結晶となる」
それはふいに力を身に付けて、誰から聞くでもなく悟った事実のひとつだった。
弟を救えなかった事実よりも、悟ってしまった真実の方が重かった。何かを望むのなら、それを成す力があった。
だが、弟を救う目的は終わってしまった今、彼は何の望みも持たなかった。




