《第30話》幽鬼の獅子
山道を馬で進む。馬は良く鍛えられており、山道も難なく進む。歩くより余程楽に進むことができた。
途中の枝道を、馬が歩ける程度の狭い道を選ぶと、ゆるやかな上り勾配がうねるように続く道になり、途中木立の合間から、下方の道に馬車の一団が見えた。馬車は滞り無く進んでいるようだった。
インフィらが乗る馬は、軍馬なだけあって、体力が充実していた。馬車の一団よりも早く進むことができた。
インフィは一団が見え無くなる頃、一団に向かって頭を下げた。
「あのような立派な武人がいれば、グルスティラムも安泰のように思えますね」
サディウスが背後から言うのに、インフィは無言で頷いた。
騎乗の旅路は順調に思えた。だが、やはり魔物は現れた。幸い道が多少開けた緩やかな勾配の場所だった。
インフィとサディウスは二人乗りだったので、さて、どうやって戦おうかとインフィが思案していた矢先、サディウスがふわりと宙に浮いた。飛行の術だった。飛行術は術としては高度な分類とされる。
インフィは馬を操りながらながら剣と術で、エリックは弓で、サディウスは空中から術で戦った。インフィはひそかにエリックが馬上で戦うのに興味を抱いた。ただの旅人が馬に乗ったままで戦うことに慣れているのは稀。エリックは戸惑うこともなく、冷静に魔物をいなしてく。
シアルまでの道程のように異様な魔物の発生ではなかった。三人の腕で難無く片が付く。
サディウスがまたふわりと馬上のインフィの後ろに収まる。
「いっそ飛んで帝都まで行った方が楽なんじゃねぇか?」
エリックが何気なく卓越した能力を発揮したサディウスに言った。
「それはちょっと…飛行術は、結構疲れるものなんですよ?」
インフィは弓を軽い動作で背負ったエリックを見た。
「なんだ?」
「いやぁ。エリックって何気に、相当強いよね」
言われてエリックは苦い顔をした。
「おまえに言われてもなぁ。おまえも相当なモンじゃねぇか」
その理由もエリックは今では半分納得していた。インフィは元帝国将軍だと。帝国の将軍はみな、他に並ぶ者もいない程の腕前でないと務まらないという。
「俺のはほとんど我流だ。ただ、旅ばかりだから、魔物には多少慣れてるのさ」
そうこうして道を進むうち、日は沈む。曇っているので空は夜に向けて暗くなっていく。林の中に野宿の場所を定め、支度をはじめる。
「馬車で五日なら、こちらはもう少し早く着きそうですね」
「ああ」
エリックが答える。
食事が済むとインフィは用を足すと言って灯りを持って側から離れた。ひそかに携球を持っていた。魔物の死体が入っている。
インフィはエリックやサディウスに察知されないように離れてから、携球の中身を出した。
(グレイさんが使っていた力…私にも、できるはずなんだ)
インフィは魔物の死体に手を翳した。
その力を使うために、特別な動作や集中は不要だった。これはそうしようと思ったその時、自然に発動する力であったはずだから。
インフィのかざした手の平と魔物の死体の間に球状の光が現れる。グレイは白い光が現れていた。
インフィかざす手のひらの下で光の珠が現れ、光の球は赤い色に輝いた。
光が赤くなるのを見た瞬間、インフィはそれを止めた。また恐怖感が起こった。記憶の底でなにかがざわめく。
「無理だ。この力は……完全な力。使えば私は全て思い出す……? でもそうして完全にならないと使えない力だ……」
インフィはこの力がなんだかわかりかけていた。だがそれを悟ることは、記憶が完全に戻ることが必須だった。まだ、それを決意することはできなかった。
インフィは魔物の死体を携球に戻した。
その時、唐突に何かの気配を感じ、身構える。
あたりを伺うが、見渡す限りでは視界には何もいない。
(なんだ……? 何か、いる)
ふいに背後の暗い茂みから音もなく何かが飛び出し、気づいた矢先にその何かが襲い掛かってきた。あまりに唐突だったのでインフィは避けるより、魔力の壁を瞬間的に生み出し、襲撃を弾いた。襲いかかってきた白い影は現れた方向と反対側に降りたつ。それは白いライオンのような獣だった。幽鬼のように体を縁取る光をまとってゆらめいており、瞳は青く光っていた。白い体は時折脈打つように紫色に明滅する。
白いライオンは再びインフィに襲い掛かる。白いライオンの爪をかい潜り、すれ違い様に掌を胴体に当てて、雷の魔法を叩き込む。だがライオンは何の衝撃をを喰らった様子もなく、またもや地面に降り立った。
「なんだ、これ…」
魔物だろうか。大きな声を出せばエリックらに届くだろう。インフィは警戒を呼び掛けるために声を張り上げようとした。
「お待ちなさい」
予想しようもなく、その声はインフィの真後ろ……耳元から聞こえた。インフィはその場に凍り付いた。ライオンに気を取られていたにしては、全く気配を感じなかった。
驚いたせいで行動は一瞬遅れたが、インフィは背後に対して魔力の障壁を張り、相手がこちらに手を出せないようにしてその場から横へ飛びのいた。
相手は何の動きも見せ無かったが、インフィは左腕に痛みを感じた。大きな傷ではないが、血が伝い流れる。
その人物は女性だった。灰色のワンピースを着ており、こんな山の中には似つかわしくない。ゆっくりとインフィの方を振り返る。瞳の色は金色でインフィが持つ明かりに照らされると、光を吸い込むかのように暗く輝く。その手には血の着いたナイフがあった。
「なんだ、あんたは……」
白いライオンは動かなかったが、絶えず威嚇する瞳でインフィを見ていた。
女は微笑んでいるように見えたが、暗い瞳をしていて冷酷さを感じる。女は手にしたナイフに付いたインフィの血を反対側の手に持っていた透明の石に伝わせる。
石の中に文字のような紋様が浮かび上がる。
「あなた、マティケでしょう」
女が少女のような声で言った。
インフィには何のことかわからなかったが、マティケという単語に記憶がざわついた。
「なんのことだ……マティケ?」
記憶の奥底に何かを感じる単語だったが、それとは別に聞き覚えのある言葉だと気づいた。エデッタでテレスに協力して戦った魔物、その最後の言葉だ。
「この石は王から賜りし至宝。あなたの血筋を正確に暴くわ」
女の持つ石の中に、次から次へと紋様が浮かび消えていく。
血筋という単語に反応して、インフィの肌が粟立つ。それは暴かれてはいけないもの。そういう直感があった。
「エリック! サディウス!」
インフィは警戒を呼び掛ける。女はただ微笑んでいた。
「無駄なの。ここはもう、私の力の内。助けは呼べないわ」
「まさか……」
インフィは相手の挙動に警戒しながらゆっくり膝をかがめ、地面に手を触れた。魔力を地面に伝わらせて行き、辺りを探る。一定の範囲に壁のような存在を感じた。
「結界?」
女は喜々として目を細める。敵意があった。
「何が目的だ?」
インフィの口調にも、敵と判断した強い響きがあった。
「だって、あなたマティケでしょう? 地上で魔力を振るうものは裁かれなければならないわ」
なんのことかと思ったが、インフィの中に微かな記憶が浮かび上がる。
『我等が役目は魔族の監視。地上で力を振るい均衡を崩す者を戒めねばならぬ』
女性の声だった。声から思い浮かんだ人物に見覚えがあった。膝のあたりまで延びた長い黒髪。白磁のような白い肌に金色の瞳。
『おぬしもゆめゆめ忘れぬよう。さればおぬしが一族に認められる日も来よう』
インフィは一瞬目眩を感じた。浮かび上がろうとする記憶と、それを拒否する感情がせめぎあっていた。
だが、身を置かれた状況を思い出し、頭を振るって記憶の葛藤を払った。
「なんで私が裁かれなきゃいけない」
「白々しい……人間のフリでもしているのかしら?」
女が笑みを消し、殺意を剥き出しにした。白いライオンが低く唸なる。
襲撃を予想して身構える。
「インフィ! どうしたのです?」
サディウスの声だった。すぐに明かりが近づいてくる。
「なぜ……私の力に干渉できるの?」
サディウスの登場に予想外に驚いていたのは女だった。
白いライオンが飛び上がる。攻撃を予想していたインフィだったが、ライオンは女の方へ向かい、女はライオンの背にまたがり踵を返した。その瞬間強い風が巻き起こり、地面に積もっていた枯れ葉や砂を巻き上げる。
「インフィ!」
サディウスが駆け付ける。女は姿を消していた。
何が起きたのか状況を説明しながら、腕に付いた傷にサディウスの治療を受ける。
「マティケと言っていたのですね?」
サディウスが確かめるのにインフィはうなずく。
「全く気配をさせなかったな。サディウスが突然立ち上がっておまえがいた方に行ったから、何事かと思ったぜ」
遅れてやってきたエリックだったが、魔物の気配が無かったと言って、どこか気が抜けたままだった。エリックにはインフィが呼んだ声が聞こえていなかったようだ。
「たぶん結界みたいなものが張られていたんだ。サディウスはどうして気づいたの?」
「ああ、私は耳が良いですから」
自慢げに言うサディウス。
警戒は解かず、交代で見張りをしながら休むことになった。
「先に休んでいいですよ」
サディウスが気遣った。気を張り続けてもいざという時に何もできないと知っているインフィは、言葉に甘えて先に休むことにした。
紺色のマントにくるまり、横になる。
焚火を見ると、その向こうでで安穏としたサディウスが竪琴の手入れをしていた。
ふと、サディウスが駆け付けたときのことを思い出す。サディウスはあの時険しい顔をしていた。仲間の危機を察知したのだから笑っているわけもないのだが、例えば魔物と対峙している時の表情ともどこか違うような気がする。
なんとなく気になって、一度閉じた目を再び開く。
「ねぇ、サディウス」
「はい?」
安穏とした表情に変わりはなかった。呼び掛けたは良いが、何と尋ねれば良いのかわからない。
「いや、なんでもないや。先に寝るね」
「はい、何かあれば起こしますから、おやすみなさい」
程なくしてインフィの寝息が聞こえる。
サディウスにはマティケという単語に覚えがあった。そしてインフィがその単語については、深く確かめようとしないことにも気づいていた。
サディウスは竪琴の弦を小さく弾いた。
瞳はただ燃える焚火を見つめていた。
瞳に映った炎が揺れている。