《第2話》エリックと
「……で、気付いたらこの森の中にいたってわけか」
「うん」
お互いにどうしたらいいかわからず、とりあえず座って話をした。相手は親切にも持っていた水を飲ませてくれた。
「俺はエリックだ。オマエは?」
問われて、口を開いてそのまま固まってしまう。
「名前……」
どういう訳か、名前を思い出すことが出来なかった。未知の境遇にあって、頭が混乱しているのだろうか。それとも歩き続けて疲れてしまったのか。そうだとして、名前くらいは忘れない物ではないだろうか。
もう一度名前を口にしようとして、先ほど自分を呼んだ声が脳裏に浮かぶ。
「……インフィ……」
呟くように声に出した。
「インフィ?」
エリックが聞き返す。しかし答えた矢先、奇妙な感覚にとらわれた。先ほど初めて聞いた単語──日本人にとっては名前であるとはすぐには思えない──のように思うが、聞き覚えがあるようにも感じた。なぜ先ほどは、それを自分が呼ばれたと感じたのだろうか。
「インフィ? ……ってなんだろ?」
名前を問われた立場ながら、逆に質問する羽目になった。だが、当然初対面のエリックにわかるはずもない。呆気にとられるエリック。
「はぁ? おまえの名前なんじゃないのか?」
「違うよ。私は……名前……」
改めて名乗ろうとして硬直する。名前が思い出せないままだ。
「名前……忘れた」
自分で明言してみたが、自分で戸惑うばかりだ。だが、頭がはっきりしないという事も無く、はっきりと思考できている状態だと感じた。
エリックは、おかしな物でも見た、という顔をする。
「はぁぁ!? 普通、自分の名前くらい忘れないだろ?」
言われた当の本人もそう思う。二人とも困惑するばかりだ。
「そう言われたって、わからないものはわからないんだもん!」
焦ったような早口で反論され、圧倒されるエリック。そして頭を抱え込んだ。
「ああ、はいはい。わかったよ。名前忘れちまったのな?」
必死に思いだ出そうとして、ふくれっ面になってしまったが、エリックにはその必死さが伝わったらしい。エリックは無造作に頭をかきむしる。
「じゃぁよ、今言ってたインフィってのでいいんじゃないか? 仮にしろ名前がないと不便だろ? な?」
「……よくわからないけどそれでいいや」
納得することにしたインフィの顔に少し笑顔が浮かんだ。納得しようと思ったら、思いのほか抵抗感はなかったのだ。
「でよ、インフィはどこから来たんだ? 住んでた街とかは覚えてるか?」
「霧澤市星谷町」
「キリサワシホシヤチョウ? そんな長くて変な地名あったっけか?」
「日本」
「ニホン? どこだそりゃ?」
これでは何も通じなくて会話にならない。エリックの知識に問題があるのだろうかと疑問に思い、インフィは呆れた。
「もーなんだよ。じゃぁ聞くけど、ここはどこなの? どこの国なの?」
馬鹿にされたように思って、エリックに詰め寄るインフィ。エリックは詰め寄られながらも冷静に答える。エリックは胆力のある人物のようだ。
「ここはグラインの森だ。抜けるとエデッタの村がある。シェリア国の領土だな」
聞きなれない単語ばかりで、眉間にしわが寄る。
「もしかして、ヨーロッパの辺り……?」
「なんだそりゃ?」
エリックは呆れてばかりだ。
「ところでオマエよ、さっきイグル語話してただろ。もしかして研究者か? イグル語なんて研究者しか使わないだろ」
「イグル語?? あれは英語のつもりだったんだけど……。エリックさ、日本語喋ってるけど……日本人?」
「ニホンゴ? こりゃそんな怪しげな言語じゃねぇよ。世界共通の言葉じゃねぇか」
インフィは首をかしげる。世界共通語というなら、せめて英語ではないのか。どうも話が噛み合わない。
「相当遠くから来たのか? だが、それがなんだってこんな森の中にいるんだよ」
エリックが頭を掻きながら言う。
「それが本当に、私もわからなくて困ってるんだ。どこから、どうやって、ここに来たのか……」
途方に暮れた顔をするインフィを見て、エリックは本当にインフィが困っているのだと感じた。
「空間転移の魔法だってんなら、そんなこともあるのかもな」
困ったインフィを見て、エリックは冗談を言う口調で話す。
「魔法?」
「いや、冗談さ」
自分で言っておいてエリックは鼻で笑う。初対面にしてはインフィに対して親切に話をしてくれている、気さくで人の良い男だった。
「空間転移の魔法が本当にあるなら、違う世界にしか行けないらしいぜ。そのくせ違う世界じゃ存在できないから、そんな魔法は実在しないって言うしな」
違う世界という言葉に、インフィは何か引っかかる物を感じた。
「違う世界だなんて、そんな漫画みたいなこと……」
インフィは呟いて否定しようとして、この状況を鑑みると否定する自信も無いことに気がついた。
「マンガ? なんだそりゃ?」
「漫画も無いの? よくさ、ファンタジーとかの空想の話であるんだよ。異世界とか、魔法とか」
「魔法が空想だっていうのか?」
エリックから問われて、インフィはきょとんとしてしまう。エリックの口ぶりでは、魔法が空想ではないというように受け取れる。そして問われたインフィが答えようとしたのは
(魔法は空想なんかじゃ……)
インフィは答えようとして、そんなはずはないと感じて言葉を飲み込む。自分の思考に違和感があり戸惑う。
続いたのはエリックだった。
「魔法は空想じゃないだろ。まさか、おまえ本当に違う世界から来たとか言うんじゃないだろうな?」
「ちょっと待ってよ。そんなこと、信じられるわけない!」
インフィは焦った。いや、混乱していた。
「魔法とか、違う世界とか、そんなこと……」
そして、言葉に詰まった。頭では否定しようとしているのに、否定する言葉を口に出来ない。訳のわからない状況である以上に、心の何処かが何かを訴えていた。
(違う世界、魔法……?)
「あの、エリックは魔法が使えるの?」
恐る恐る尋ねてみるが、エリックは慌てることも怪しむこともなく答える。
「……術はあまり得意じゃない」
「でも使えるんだ! すごい! 見たい!」
インフィは心の何処かに魔法と言う言葉が引っ掛かっていることを自覚した。魔法がどんなものか、知りたい。まるでそれが、何かの打開策になるのではないか、そんな風に感じていた。
「そんなめずらしいモンでもねぇだろ。……なんだ、オマエ術使えねぇのか?」
エリックがわざとらしく鼻を鳴らせる。インフィがむっとしてみせる。
「使えるわけないでしょ。時代は科学の時代だよっ」
「カガク?? どこの時代のおはなしなんだか……よし、簡単な奴でいいなら見せてやれるが?」
インフィが歓喜する。
「見せて! 見せて!」
まるで手品をせがむ子供のようだ。
エリックは右手で人差し指と親指を合わせて念じる。
「むぅ……ん」
期待する眼差しで見詰めるインフィの前で、エリックの手に光の輪が現われ、光の輪を中心として小さな風が巻き起こる。
「フィーブリヒド!(風光臨)」
集中力を解き放つように呪文のような言葉を唱え、同時に手を上に向けると、風が一気に巻き起こり、手を向けた方向へ駆け上っていった。風の強さは服をなびかせる程のものだった。
唖然とするインフィ。何もない所に、エリックが風を起こした。本当に魔法だと思った。半信半疑、しかし、現実として目の前で起こった。
「す、すごい……今のが魔法なんだ?」
エリックは誉められたことがそれなりに嬉しいらしく、得意げな顔になっている。
「今のは魔法じゃねぇ。念法だ。」
「ネンホウ?」
「人間の精神力で誰でも使える簡単な奴さ。そのかわり威力もそれなりだけどな」
「じゃぁ、術っていうのは?」
「術ってのは魔法や念法とか法術とか……そういったいろんなやつ全部をまとめた呼び方だよ」
インフィは考え込む。想像していた魔法とは違った。
「……なにがどう違うの?」
「そうだな。まず念法は人間の思念で使えるし、魔法なんかは魔力がないと使えねぇし……術によって必要な力が違うんだな。まぁ俺は魔力がないから魔法は使えねぇ。簡単な念法だけだな」
インフィは考え込んだ。
「私も魔法使ってみたいな」
「無理だろ。だってオマエ、魔法は空想だって言ってただろ。違う世界で魔法は使えなかったんだろ?」
エリックは意外にもすんなりとインフィの状況を信じてくれているようだった。単に相手の言う事を否定しない、優しい人柄なだけなのかもしれないが。
「やってみないとわからないじゃないか」
インフィの事を止めても聞かない性格だと見抜いたエリックは、とりあえずやらせて、あきらめさせようと考えた。
「……しょうがねぇな。魔法がいいのか?」
「うん。魔法魔法」
うきうきとしている。いまいち魔法と術の違いを理解しているとは思えなかったが、エリックは頭を一度掻き毟ってからインフィに向き直った。
「じゃぁまず手のひらを合わせて……」
エリックは手本に手を合わせて見せる。拝む姿勢に似ている。言われた事に従って同じ動作をするインフィを確認して続けるエリック。
「で、意識を集中するんだ。そうすると魔力があれば体の中に流れを感じる」
エリックは説明をするが、実演はしない。
「……らしい。俺には魔力が無いからわからんがな」
インフィは言われた通りに意識を集中する。
「う……」
何かが体の中に流れ込んできたように感じて、それに意識を凝らせようとして目を閉じた。
「どうだ? できそうにないだろ? 魔力がない人間の方が多いからな」
エリックがそう言った瞬間、インフィの周りに光が明滅しだして、エリックは目を見張った。陽炎のように周囲の空気が歪んで見える。
(ちょ、ちょっとまて!? 魔力が渦巻いているのが見える!? 見えるほどの魔力だっていうのか!?)
するとインフィはゆっくりと目を開いた。どこか虚空を見ている。
「……??」
エリックは雰囲気に飲まれて、何かが起こりそうなのに止められないでいた。渦巻いて見える魔力に気圧されていた。
正気とも思えない目をしてインフィは静かに口を開いた。
「散り散りなる大気を束ね、駆け抜けろ……ローグフィーグ(大気崩)」
呪文を唱えたインフィは両手を上空に突き上げた。土埃が巻き上がり、小さな竜巻となって風が空に昇っていった。
「……っっ!!」
あきらかにエリックの使った術よりも強力なものだった。エリックが咄嗟に足を踏ん張って堪えた程の突風が巻き起こる。
風が止んでインフィがゆっくりと手を下ろす。本人はなんてことのない様子できょとんとした顔で立っていた。
「魔法……できた」
インフィは不思議そうに自分の手のひらを見つめる。
「で、できたってオマエ!? 見えるほどのすげぇ魔力だったぞ!!?」
エリックがいまだ信じられない様子で、インフィに詰め寄る。
しかしインフィはエリックが肩に手を掛けようとしたその瞬間、力無く倒れてしまった。エリックは反射的にインフィの体を支えた。
「お、おい! インフィ!? 大丈夫か?!」
しかしインフィに返事はない。ぐったりと全身から力が抜けている。エリックが体をゆさぶってもなんの反応もない。インフィはなにか苦しそうな表情をして目を閉じたままだった。
「インフィ! インフィ!!」