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フレネミーは眠らない

作者: 吾妻栄子

 ほら、柿剥いたよ。二日酔いに効くから。


 今日は君、随分飲んだよね。


 何で今になって急に泣き出して……。


 そうだ、彼と初めてうちに来た時もやっぱり柿と緑茶を出したんだったね。


 去年の今くらいの時期で、ちょっと寒かったけど、おぼろな月が綺麗に見えた。


 今日の月も綺麗だね。鏡みたいにはっきり明るく見えるから、今、君をおぶってうちに帰ってくるまでも助かったよ。


 *****


 うん、彼は僕が見てもいい奴だった。君を介さず別な所で知り合っても良い友達になったと思う。


 ほら、君が今まで熱を上げた連中は、いや、「連中」と言っちゃあれだけど、男同士の目には嫌な感じの奴もいたからさ。


 当時は君が入れ込んでいるから言わなかったけど、そいつらとは付き合わなくて正解だったんだよ。


 でも、彼だけは違ったな。


 いつもみたいにまた君の片想いで振られて終わることになると、そして、一人でまたここに来て泣くんだと、正直、見くびってた。


 それが、付き合い出したと二人でここに来たんだから。


 うん、思い切り泣いていいよ。


 初めて付き合った人だったんだよね。


 僕だって一年前、ここで座って一緒に話した彼のために今日喪服を着るとは思わなかったんだから。


 *****


 そうだ、去年のハロウィンでも君はジャスミン、彼がアラジン、僕が鬼神ジンニーの格好をしたんだったね。


 ちょうど付き合い出したばかりの君たちは仮装してもお似合いのカップルだった。


 僕はというと、背がおっきい以外は鬼神向きじゃなかった気がするけど。


 え、その時の写真を待ち受けにしてるのかい?


 何だ、三人で映ったやつか。


 僕が君たち二人を撮ってあげた写真も別にあるのに使わなかったの?


 彼はそっちを待ち受けに使ってくれたんだよね。


 この三人で映ってるやつ、もう帰る頃に偶然会った先輩に撮ってもらったから僕は青い絵の具がところどころ剥げてまだらになってるじゃん。


 君らは良く映ってるのにみっともないなあ。


 そうか、皆で一番楽しかった思い出だから君はこれを待ち受けにしてるんだ。


 *****


 うん、クリスマスパーティーもここでしたね。


 駅から近いし、無駄に広い部屋だから、下手な店より僕の所を皆、会場にしたがってさ。


 そうだね、今日のお通夜つやに来た面子と一緒だね。


 君ら二人は先に一緒に帰ったけど、僕は酔い潰れて寝入っちゃった連中の世話と片付けで大変でさ、結局、そこのソファーで寝たんだよ。


 え?


 どうして、あの時、わざわざケーキを焼いて持ってきてくれたあの子と付き合わなかったのかって?


 あの子は別に僕じゃなくても良かったのさ。


 あの時、クリスマス前に失恋したばかりで真っ先に酔い潰れちゃった先輩と今は付き合ってるんだから、それで向こうはめでたしめでたしだよ。


 *****


 そう、バレンタインデーは君が彼に、ホワイトデーは彼が君にそれぞれ好きな料理を作って一緒に食べたんだったね。


 その頃にはコロナが流行り始めて外に出るよりも家でゆっくりしている方がいいから、自分でおいしく料理を作れるようにした方がお金もかからないからと彼も僕に言っていたよ。


 その頃には三人で会うより君と彼のどちらかとだけ会ったり連絡を取ったりすることが多かったね。


 彼のバイト先がコロナの不入りで潰れちゃったから、ちょくちょくこの近くの現場工事のバイトを遅くまでしてうちに泊まっていくこともあったな。


 いわゆる苦学生だったけど、本当にタフだったな。


 僕みたいに親の金で甘く生きている人間とは違う。


 だから、君も好きになったんだと分かるよ。


 *****


 うん、ゴールデンウィーク前に君らが一度別れたというか、友達に戻った時は僕も寂しかった。


 二人ともまだ互いに好きで苦しんでいるのが分かるから。


 たまに三人で顔を合わせると、何だか付き合っている時より自分が邪魔者のように思えたよ。


 でも、一番苦しいのは君だったよね。


 疲れたなら、もう横になるかい?


 ブランケットを持ってくるよ。


 *****


 横になったけど、まだ眠れそうにない?


 僕のことは気にしなくていいよ、どっちみち明日は休みだし、彼の話をもっと聞きたいから。


 エアコンの温度、もっと上げるかい?


 急に寒くなったよね。


 ちょっと前まで半袖を着て蚊に刺されたとか言ってたのに彼岸過ぎて台風が来た後はやっぱり冷え込むんだ。


 うん、暑くなり始めた頃に、君らは復縁した。


 僕もあの時は嬉しかったよ。


 *****


 やっぱり彼の気持ちに応えていれば良かったって?


 彼のことは本当に好きだったから。


 一度は別れた理由もそれだったから。


 自分を責めちゃダメだよ。


 無理して望まないことをしても、自分も相手も恨むことになるだけだから。


 彼は君の心と体を尊重してくれる人だったんだよ。


 本当にもう寝るかい?


 じゃあ、お休み。


 *****


 今日も君は僕のソファーですっかり寝入ってしまった。


 失恋する度にここが君の泣き寝入りする床になる。


 このチューリップ模様のブランケットは君専用だと気付いているだろうか。


 他の来客に貸すのは自分が普段使うのと同じ無地のブランケットだ。


 無地のブランケットは使用者が帰った後に粛々と洗濯するだけだけど、チューリップ模様のブランケットは使用者が帰った後の夜は僕の抱き枕になる。


 変態じみていて気持ち悪いと自分でも思うけれど、止めることが出来ない。


 むしろ、君に対しては決して出来ない、しないと固く誓っているのだから、その位は許して欲しいと思う。


 *****


 空になった湯飲みと皿とフォークをシンクの洗い桶に入れてから、コーヒーメーカーに粉と水を入れて加熱のボタンを押す。


 振り向いた君はソファーで変わらず眠っている。


 遠巻きに眺めるとチューリップ模様のブランケットで覆われた体は女性としては中背より少し大きいくらいなのに、顔は本当にあどけない。


 寝顔が禍禍まがまがしい人などいないだろうが、白桃じみたふっくりした頬やぽってりした小さなコーラルピンクの唇が赤ちゃんのまま大きくなった人に見えるのだ。


 見詰めていると、そのまま寝かしておきたい気持ちと口付けて目を醒まさせたい気持ちが胸の中で絡み合って渦を巻く。


 いいや、幾ら何でも今はダメだ。


 あのブランケットの下の君の体はまだ喪服を纏っているのだ。


 そもそも君は僕を純粋な友達と思っているし、何よりも……。


――ゴポゴポゴポ……。


 後ろのコーヒーメーカーから溺れる人のもがきに似た音と共に温かな甘い匂いが流れてきた。


 コーヒーの香りはこんなに優しく甘いのに味は苦いのが不思議だ。


 *****


「フーッ」


 一人用のソファーでコーヒーカップを片手に大きく溜息を吐いてから、自分のそうした挙動をいかにもうるさく当て付けがましいものに感じて、向かいのソファーの君を窺う。


 気抜けするほど変わらない寝顔と体勢だ。


 元から寝付きは良いけれど、チューリップ模様のブランケットで顎の下まで覆って横たわる今の君は、彼がここに現れてキスするまで百年でも眠り続けるかのように確固として眠っている。


 それとも、今頃は夢で彼に会っているのだろうか。


 どのみち、君の求める夢に僕はいないのだ。


 まだ熱いまま飲み下したコーヒーがジリジリと喉から胸の中を焼くようにして落ちていく。


 *****


 君のことが好きだと気付いたのはいつだっただろう。


 最初は本当に友達としてというか、小さな妹のような感覚で好きだったのだ。


 同い年で二人とも一人っ子で育ったのに「妹」というのはおかしいが、そもそも君は大学の同期で集まっていても何故か皆の妹のように扱われたし、何よりも僕がそのように接する筆頭格だった。


 君の方でも何かと僕を頼ってくるようになった。


 今までもそうした相手は性別を問わず少なくはなかったけれど、君は少しでも世話されれば飾り気のない笑顔で「ありがとう」といつも返してくれるので頼られても煩わしくなかった。


 優しくすればその分だけいつも感謝を示してくれる人は案外少ないのだ。


――ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン、ヒュウウ……。


 タワーマンションの窓ガラス越しに電車の駆け抜けていく音が遠退いていく。


 壁の時計を見やると、もう夜半を過ぎていた。


 今、耳にしたのが多分、終電だ。


「フーッ」


 苦いコーヒーの味を薄めようと吐き出した自分の息の音が妙に耳の中でざらついた風に響くのを感じながら、視線は安らかに眠る君の唇に移ろう。


 小さくて柔らかそうな、桃色のグミのように見える。


 音もなく針だけが動いていく時計の見下ろすこの部屋には、今、君と僕の二人しかいない。


「ウーン……」


 不意に君が小さく唸ってソファーの上で僕に――飲み掛けのコーヒーカップを置いて立ち上がり掛けた男に背を向ける形で寝返りを打つ。


 柔らかそうな栗色の髪がソファーの上に広がって、買ったばかりの真新しい黒の喪服の肩、そしてあまりにも薄くて肌の上では黒というよりグレーに見えるストッキングの小さな両足がチューリップ柄のブランケットから抜き出た格好になった。


 後ろ向きになった頬の丸みが正面から目にした場合よりもいっそう幼く浮かび上がる。


「世話が焼けるなあ」


 自分にだけ聞かせるつもりで呟くと、何だかおかしくて小声で笑う。


 ゆっくりと向かいのソファーに歩み寄って、ずり落ちかけたチューリップ柄のブランケットを取り上げて黒い喪服の肩からストッキングの足まで覆うようにして掛け直す。


 喪服は鎖骨が露になるデザインだし、足ときたら布地の上から指や土踏まずまで透けて見える。


 これでは外では裸足と大差ない。


 男性の喪装は夏には地獄だが、女性のそれは冬には苦行だ。


 そんなことを思いながら、少女趣味なチューリップ模様のブランケットで君の喪装をすっぽり覆い隠す。


 今更ながら自分も喪服のスーツのままだと気付いたから、このまま風呂場に行って、脱ぎ捨てて、体を頭から洗い流そう。


 *****


――最初にあんたに会った時から、こうなる気はしてたんだ。


 シャワーを浴びながら閉じた瞼の裏で、昨夜の彼の顔と言葉が蘇る。


 もう日付けが変わってしまったから、一昨日おとといだろうか。


 どのみち二十四時間ちょっと前まで、彼は僕や君と同じように生きていた。


――付き合い出してすぐにね、色んな奴に言われたんだ。あの子は変わってるし、“支配人しはいにん”がくっついてるから止めろって。


 男にしては小柄だが、色の浅黒い、目の大きく円らな、一般には精悍な風貌をした彼は、諦めたような、しかし、どこかこちらを憐れむ風な笑いを浮かべて言い放った。


――親切にはしてくれたけど、あんた、本当は、俺が邪魔だろ。


 耳の中に響いてくるシャワーの音を聴きながら、まるで昨夜、氷雨が降り始めた瞬間のように震えが体を走る。


 いつもより熱めに設定したお湯を浴びているのに。


 そうだ。


 僕は今まで君の恋愛相談に乗って、意中の相手と上手く行くように願っているフリをしながら、そいつらが遠ざかるように仕向けた。


 自分も彼らと友達付き合いして他の女の子を紹介したりそれとなく親しくなるように仕向けたりすれば、ちょっとだらしない連中はすぐに君から離れていってくれた。


 でも、こんな風に知らない所で噂になるということは、僕が嫉妬深いフレネミーだと感付かれていたんだろう。


――あいつは純粋に優しくしてくれる友達だ、互いにそういう目で見たことはないと言っているけど、嘘だ。


 このマンションのエントランスで、僕はちょうど屋根の下にいて雨粒がアスファルトの地面をポツポツと黒く濡らし始めるのを目にしただけなのに震えていた。


 母さんが買ってくれたばかりのイタリア製(僕は背が大きいので海外製で合うサイズを探した方が早い)のコートを着て、どこも濡れてもいないのに。


 小柄な体に毛羽だって色褪せたジャケットを纏った相手はそんな僕を虚ろな目で見詰めていたが、不意にあはは、と乾いた声で笑った。


――“支配人”にはかなわないよ。


「支配人」とは父さんがホテルグループの会長をしているから付いた徒名だ。


 僕自身は彼や君と同じ学生に過ぎないのに。


――じゃ。


 彼は恨みや怒りよりも疲れを滲ませて告げると、急速に点から線に変わって密度を増していく雨の中を駆け出した。


 色のめたジャケットは後ろ姿になると、正面から見た時よりも布地のいたんで薄くなった感じが目についた。


 熱いシャワーが僕の顔も体も流れて排水溝に落ちていく。


 あの後、帰る途中で彼は車に跳ねられ、意識不明の重体で病院に運ばれたものの、間もなく息を引き取った。


 彼の霊に尋ねても、僕に泣いて欲しいとは答えないだろう。


 でも、君を間に挟まずに知り合っていれば良い友達になれただろうと思える相手にこんな形で去られてしまったことが、とても痛い。


 *****


 髪も体もすっかりいつものシャンプーとボディーソープの匂いに洗い流して、取り敢えずは洗濯籠に入れた喪服の代わりに普段の部屋着を纏う。


 僕だけが息詰まるような喪服を早々に脱ぎ捨ててしまった。


 後ろめたさを覚えつつ、足音を忍ばせて、エアコンを点けたままにしたためにふわりと生温かく、そしてまだコーヒーの甘い匂いが幽かに漂うリビングに足を踏み入れる。


「あ……」


 声にならない叫びが体の中を駆け抜ける。


 ソファーの上の君は白桃じみたふっくりした頬のあどけない寝顔をこちらに向けている。


 しかし、体に対して横を向いたうなじからはベージュのブラジャーの肩紐が微かに覗き、喪服のスカートから抜き出た黒ストッキングの両脚は半ば開かれ、片足はソファーから落ちかかっていた。


 チューリップ柄のブランケットは完全に足元の床に落ちている。


 少女趣味な模様をした脱け殻のように見えた。


 カーッとシャワーで洗い流したばかりの体が奥から熱くなって握り締めた掌に汗が滲むのを感じる。


「ねえ」


 テーブルの上に置いた自分の飲み掛けのコーヒーのカップ。


 点けっぱなしのエアコンのせいで立っているだけでも生暖かくなった部屋。


 どこか白々しいほど甘く優しい匂い。


「誘ってるの?」


 答えないその無邪気な寝顔すら、全ては壊すためにあるように思えた。


「君が悪いんだよ」


 いつだって他の男に熱を上げて、僕より明らかに貧乏で一般的な基準では容姿も劣ったような奴らに舞い上がって、結局、見事に失恋して、この部屋で無防備な寝姿を晒す。


 まるで、僕が彼らと同じ男ではないかのように。


「今日は彼のお通夜だってのに」


 まだ彼は灰にされていないと思いつつ、視野の中で安らかに上下する黒い喪服の胸と白い肌より微かに暗いベージュのブラジャーの肩紐が大きくなる。


――思い切って強引にやっちゃおうと押さえ付けたら、殺されるみたいに真っ青な顔で固まっちゃってさ。


――付き合ってるのに、そもそもお前が好きだと言ってきたのに、何で俺はずっと我慢しなきゃいけないんだって言ったら、泣かれたよ。


 憐れむように笑っていた彼の、しかし、ゾッとするほど苦い声が胸の中に蘇って、昨夜聞いた時よりも深く突き刺さってくる。


 喪服から抜き出たうなじや滑らかに濡れたコーラルピンクの唇が目の先に迫るほど、酒と線香の匂いが混じってきた。


「でも、ここまでおぶわれて来たんだから君もどっかでそうなりたかったんだろう」


 彼が見られなかった姿まで見て、触れられなかった所にも触れて、君の体にも心にも僕の爪跡を刻み付けよう。


 歓ばせるよりむしろ苦しませて泣かせたい思いで、一年前から変わらず、一度は彼と友達に戻った期間ですらずっと銀の指環を薬指に嵌めた君の小さな手の首に腕を伸ばす。


「おかあさん」


 僕の手が君の手首に触れるか否かの所で桃色のグミじみた小さな唇から幼い声がこぼれた。


 ビクリとして少し離れた瞬間、今度は涙の混ざった声がはっきり響いた。


「お母さん」


 閉じた長い睫毛から滲み出た滴がこめかみから栗色の髪に伝い落ちる。


 不意にお通夜で初めて会った、彼のお母さんの姿が浮かんだ。


――今日はあの子のために来て下さってありがとうございます。


 一見して彼に良く似た浅黒い肌に円らな瞳をした、しかし、髪には白い物が目立つその人は息子と年の変わらぬ僕たちをうつろな目で見詰めていた。


 彼の話によれば、小さな時に両親が離婚して母子家庭だったとのことだ。


 シングルマザーとして苦労して一人息子を大学にまで入れたあのお母さんは、一夜の内にたった独りの境遇に突き落とされたのだ。


 今頃はもの言わぬ我が子の横たわる棺に寄り添っていることだろう。


 明日、いや、今日にはもうその息子が焼かれて灰にされるその時を待ちながら。


――ご香典はこれを持って行きなさい。


 彼の訃報を電話で告げると、僕の母さんは飛んでやって来て、クローゼットの奥にあるまだ買っただけで一度も着ていない喪服のスーツ一式にアイロンを掛け直すと、既に袱紗にまで包んだ金を差し出した。


――向こうのお母様には失礼のないようにするんですよ。


 一度も会ったことはないはずの相手に言及する母さんの目には痛ましい色が走った。


「フーッ」


 すっかり体の奥に冷や水を掛けられた心地で僕は大きく息を吐く。


 今、喪服でソファーに横たわっている君のお母さんにはまだ会ったことがない。


 ただ、娘が酔って寝ている所を強姦される事態を望んではいないだろうし、そんな男を許しはしないだろうとだけは理解できる。


「風邪ひいちゃうよ」


 母さんの口真似をしてチューリップ柄のブランケットを拾い上げて広げる。


 ふわりとフローラルの洗剤の香りがした。


 君のお母さんの口調や洗剤や石鹸の匂いとは恐らく違うだろうが、僕は僕に出来る役割を手探りで演じるしかない。


 ファサッと勢いをつけて被せると、扇情的な喪服姿も銀色の指環を嵌めた小さな手も全部、小さな女の子が好むようなチューリップ模様の下に隠れてしまった。


 赤ちゃんのような安らかな寝顔だけが抜き出ている。


「ゆっくり寝な」


 こめかみについた一筋の涙の跡を指でそっと拭って、栗色の髪に半ば隠れた渦巻き貝じみた耳に囁く。


 そうだ、君は小さな子供だ。


――私、彼のことは好きで一緒にいたいけど、全然そういうことはしたくないの。


 半年とちょっと前、このマンションのガーデンにもチューリップと桜が咲いていた頃、ふらりと一人で現れた君は確かにそう言った。


 付き合って半年に差し掛かり、彼は最初は遠慮がちにだったが、段々と苛立ちを隠さずにキス以上の接触を迫るようになったと語った後だ。


 普通のカップルなら半年も続いていればとっくにそういう関係になっている、妊娠が怖いならちゃんと避妊するだけの知識や準備は自分にもあるから心配ない、好きだと言うなら何故応じてくれないのかというのだ。


 俺は子供じゃない、とも。


 その時まで僕は君たちが、互いの家に往き来して好きな料理を食べさせ合っている君と彼にはそうした関係が当然あるものと信じて疑わなかった。


 むしろ、僕の前ではごく無邪気な君が彼とはそうした行為を望んでして歓んでいるのか、と、何だかポルノみたいな淫らな風に想像する度に吐き気がして胃が痛くなった(実際の性行為はコンテンツで扇情的に描かれるような大仰なものではないけれど、少なくとも僕はそんなやり方をしたいとは思わないけれど、君が他の男とそうした行為をすると想像するだけで拷問だった)。


 そういう自分を不潔に感じて嫌悪を覚えると同時に、もう君に対して無関心に、嫌いになりたいとすら思っていた。


 しかし、改めて怯えた表情の君から真相を告げられると、今度は彼が力ずくで君を押さえ付ける姿が浮かんできてゾワゾワと体の奥が騒いでくる。


 このままだとそうなるのは時間の問題だ。一刻も早く引き離さないと、君が壊されてしまう。


――今まで好きになった人ともそういうことをしたいと思ったことはない。付き合う以前にフラれてばっかりだったから、問題にはならなかったけどね。


 寂しく笑うと、僕の淹れた紅いローズティーに目を落として、二人しかいないのにまるで僕にすら聞かれるのを恐れるような声で続けた。


――映画やドラマでそういう場面が出てきても、興奮するとか自分も同じことしたいとか思ったことは一回もないの。気持ちいいことだと色々な所にこれでもかと書かれてるけれど、全然したいと思えない。性欲ってどういうものなのかこの年になっても分からない。


 再びこちらと眼差しを合わせた君は「予想通りだ」という風に苦い後悔の滲み始めた面持ちで頷いた。


――やっぱりあなたもそういう顔するんだね。


 その時どんな顔をしていたかは分からないが、僕も彼と同じ、君を好きで本当はキスもセックスもしたい欲求を持った人間だ。


――大人になれない欠陥人間だもん、こんなの。


 窓ガラスの向こうには水色の春の午後の空が広がっていて、エアコンを点けなくても丁度良く暖かな部屋には馥郁とした薔薇の香りが漂っていたのに、君の声は乾いていて重たかった。


――ノンセクシャルだね。


 僕はいつかネットで見た性的少数派セクシャル・マイノリティの一派の名称を思い出していた。


――君みたいな人も普通にいるんだよ。


 僕はそうではないし、身近には君しかいないけれど。


――同じような人も普通にいるから、欠陥とか異常とか思わなくていい。


 君はしばらく表情の消えた面持ちでこちらを見詰めていたが、その眼差しがふっと温かに潤んだ。


――ありがとう。


 その時の笑顔ほどこちらを救って、沈み込ませたものはない。


 僕は君に絶望して欲しくなかった。というより、僕に絶望して離れていって欲しくなかったのだ。


 それに、その時は少し喜んでもいた。君は彼に体までは許していない。そんな関係を望んでもいない。


 その意味では、彼も結局は僕と変わらない位置にいる、と。


 あわよくば、自分が彼に代わって君が根源的に無いと主張している性の欲望や快楽に目覚めさせる立場になれるかもしれないと。


 君の秘密を受け入れて共有することで、儚い希望を繋げようとしたのは僕だったのだ。


「ずっとここで眠ってればいいんだ」


 また目が覚めて、棺から今度は灰にされて墓に入れられる彼のために泣かなくていい。


 所詮は君を理解するより自分の欲求を通そうとした男のために悔いなくていい。


 また別な男に熱を上げて今度は無理してでも体を許そうなどと思わなくていい。


 僕が君と他の男との恋愛に嫉妬して壊そうとする、友達の皮を被った敵だとずっと気付かないで欲しい。


――あいつは純粋に優しくしてくれる友達だと言ってるけど、嘘だ。


 正直者の彼は死んで、嘘つきで偽善者の僕は生きている。


 時計の針はもう草木も眠るときを示していた。


 閉じたカーテンの隙間から覗く夜空は闇そのもののように深く暗い。


 鏡のような月ももう道の半ばを過ぎてしまったのだろうか。


 そろそろ僕も寝て、君が目を覚ます頃にはまたいつもの失恋明けのように朝食のミックスジュースとサンドイッチを用意しなければならない。


 君から口にした時以外は、彼のことは話題にのぼせないようにして。


 頭ではそんな算盤を弾きつつ、瞬きの度に微かにまぶたの痛む目で眠る君を見詰める。(了)

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