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(タイトル選定中)  作者: 清野喜信
1/1

第一話ー1

(タイトル選定中)第一話の1になります。

今回は舞台と登場人物の説明などが挟まるため長めになりますが、お付き合いいただければ幸いです。

「おはよう」「おはようございまーす」「おーす」

 朝の挨拶が飛び交う校門を、少年は誰に挨拶するでもなく抜けた。

 標準より少し大きい身長にしてはちょっとだけ細身の体を包むライトグレーのブレザーは真新しく、彼がこの学校に来て間も無い事を示していた。

 昇降口で真新しい上履きに履き替えた彼は、教室に向かう階段を上がり始める。

 2-Cとプレートのついている教室に着くと、すでに何人かの生徒達がいて、予習をしたり、昨晩のテレビの内容を語り合って盛り上がっている。

「あ、えーと……会田育人あいだいくと君、だっけ?」

 教室の一番後ろにある自分の机の上にバッグを置いた彼の正面から声が掛けられた。

「はい?」

 自分の名前を呼ばれて、少年は顔を上げる。

 声を掛けてきた少女の頭には、大きな猫耳がついていた。

「昨日来てなかった分の教科書到着してるそうだから購買部に来てって伝言を……。やっぱりまだ慣れない?」

「あー……。ごめん。ちょっとまだ慣れてないみたい……」

 育人は驚いた顔を手で隠しながら謝罪の言葉を口にした。

「まあ、しょうがないよね。生まれて初めてなんでしょ? 亜人種わたしたちとの生活」

「前の所は人間ばっかりでしたんで……早く慣れる様に努力します……。伝言の件は了解です」

 育人は申し訳なさそうに手を上げて返事をすると、猫耳をつけた少女は自分の席に戻っていった。

「はあ……」

 育人はため息をつきながら自分の席に腰を下ろす。

「会田君おっはよー……って、あれ? どうしたの?」

 育人の隣の席に荷物を置いた、育人と同じぐらいの身長の黒髪ショートカットの犬耳少女が、暗い雰囲気をまとい始めている育人の顔を覗き込みながら、柔らかい表情で声を掛けた。

瀬尾せおさんおはよ。いや、まだ慣れてないなぁって思ってさ」

 育人はちょっと丸まった背中を元に戻すように伸ばしながら言った。

「あー、前住んでいた所は人間ばっかりだったんだっけ?」

 瀬尾と呼ばれた犬耳少女は屈託無く笑いながら育人の肩をぽんと叩いた。

「大丈夫だよ、そのうち慣れるから」

「うん。まあ、取りあえずは努力してみる」

 照れくさそうに笑って、育人は机に置いたバッグを机の横のフックに引っ掛けた。

「でもさぁ、珍しいよね?」

「……え?」

 独り言のように言った瀬尾の言葉が自分に向けられているのに気づくのに、育人は少し時間がかかった。

「ゴールデンウイーク明けに転入してくるなんてさ。昨日は理由を聞く前にいなくなっちゃったし」

「あー……」

 少しむくれたような表情の瀬尾を見て、育人は困った様に声を上げる。

 転校初日であった昨日、育人は朝のホームルームに参加したが、一時間目の授業を受ける事無く保健室の住人となっていた。

「まあ、それは色々とありまして……機会があったら話しますよ。とりあえず購買部に行ってこないと」

 育人は言いながら時計を見て、ホームルームまで時間がある事を確認した。

「多分、その機会はすぐに来ると思うよ」

 嬉しそうな笑みを浮かべながら言う瀬尾の言葉の真意が掴めずに、育人は教室を出て行った。

 購買部で紙袋いっぱいの教科書や副読本を受け取って教室に戻ってきた育人は、黒板にチョークで大きく書いてある文字を見て、なるほど、とつぶやくように納得の声を上げた。

『一時間目 自習』


 少ししてチャイムが鳴り、担任が教室に入ってきてホームルームが始まり、いくつかの連絡を終わらせるとさっさと担任は教室から出て行った。

 それと同時に、教室内に小さな喧騒が広がっていった。

 それはホームルーム前の無秩序な喧騒ではなく、ある程度秩序が保たれた喧騒だった。

 そんな中、机の上に置いたタブレットに外付けのキーボードで何かを入力していた男子が教室から出ていき、一時間目開始のチャイムが鳴ったと同時に戻ってきた。

「会田君、これ、お願いできるかな?」

 戻ってきた男子が、育人に一枚の紙を差し出して言った。

「え?」

 差し出された紙を受け取った育人は内容を見る。

 一番上には注意事項が書いてあり、パスは質問の三分の一までだとか、提出先が書かれていた。

「あ、これ入学式直後にやった自己紹介の焼き直しだ」

 いつの間にか横から覗き込んでいた瀬尾が言う。

「バラすなよ。瀬尾ぉ」

 紙を持ってきた男子が恥ずかしそうに瀬尾に突っ込む。

「ごめんごめん。見てすぐに分かったからさ」

 瀬尾が軽い口調で返すのを聞きながら、育人は質問を上から見始めた。

 名前や前にいた学校の名前にそこでの呼び名、家族構成や趣味特技などの項目があり、最後に昨日の一件に関しての質問があった。

「これってさ……」

 育人は会話が終わった瀬尾に聞く。

「ん?」

「今ここで前に出るとかして回答したらダメなのかな?」

 育人の言葉に教室の中が少しどよめいた。

「え……。大丈夫……なんじゃないかな……?」

 困惑の表情を浮かべながら瀬尾がためらいがちな返答をすると、育人は紙を手にして立ち上がった。

 育人が突然動き出したのを見て、教室のほぼ全員が育人に注目する。

 育人は教壇に立つと、教室内を見回して小さく深呼吸した。

「えー、皆様おはようございます」

 育人の挨拶に、散発的な返事が返ってくる。

「昨日はホームルーム後にぶっ倒れるという醜態を晒してしまい、お見苦しいところをお見せしました。昨日の醜態を挽回すべく、昨日出来なかった自己紹介をやらせていただきたいと思います」

 育人はそう言って頭を下げると、今度は控えめながら教室全体から拍手が起こった。

「ありがとうございます。えーと、最初の質問は……」

 手にした先程の紙を見て育人は黒板に向き、チョークで自分の名前を大きく書いて向き直った。

「名前は会田育人と言います。誕生日は四月一日。血液型はA。前に住んでいた所と前の高校は……これはパスで。前の学校では特にあだ名は無くて、名前か名字で呼ばれてました」

 育人は言いながら紙を見直す。

「趣味特技は……。まあ、体を動かす事と料理が趣味ですかね。特技は特に無いです。家族構成は……ごめんなさい、これもパスで。えーと、好きな食べ物はうどん。好きな女の子のタイプ……は……よくわからないです」

 育人はそこまで言って一回目を閉じて深呼吸した。

「えーと、最後の質問ですね。昨日ホームルーム後に倒れたのはなぜか?、という事なのですが……」

 育人は視線を上げて少し考え、意を決したように視線を戻した。

「ご存知の方もいるとは思いますが、私が前にいた所は亜人種の皆さんが全くいない所でした」

 育人の言葉に小さな驚きの声が数か所から上がった。

「その為、こちらに引っ越してきてからこの街の雰囲気に慣れていないところがありまして、で、まあ、お恥ずかしい話ですが転校初日ということと学校の中の違和感というか、ちょっとうまく説明できないんですが、そういうので緊張しすぎて倒れたって事です。お騒がせしました」

 育人はそう言って頭を下げた。

「ご静聴ありがとうございました。何か質問ありますか?」

 顔を上げて、持っていた紙を折り畳みながら育人は教室内に尋ねた。

 その言葉を待っていたかのように何人かの手が上がる。

「じゃ、えーと、窓際後方の方」

 育人は思わぬ反応に驚きながら、開いた手を人間の女子生徒に向けながら言った。

「趣味で体を動かす事って言ってたけど、前の学校では部活を何かやってたの?」

「いや、特には。部活ができない事情というのもあったので」

 育人はそう言い、女子生徒が何か言いたげな顔をしながら座るのを確認してから再度教室内に尋ねる。

「他にありますか?」

 さっきよりも上がる手の数が増えたのにまた驚きながら、育人は廊下側から二列目の前方に座る男子を手で指す。

「好きな女の子のタイプがよくわからないって言ってたけど、どういう事?」

 育人は一瞬質問の意味を理解できなかったが、素直に説明することにした。

「えー、さっきの部活に関しての質問とちょっと返答が被るんですが、日々の生活が忙しくてそういう事をしてる暇が無かったんです。まあ家庭の事情ってやつですね」

「んー。なんか納得いかないけどまあいいや。サンキュ」

「では、他にありますか?」

 育人が言うよりも早く、さっきよりも数は減ったが手が上がる。


「いやぁ……自分から始めたとは言えきつかった……」

 ぐったりと机に突っ伏して育人はつぶやいた。

「結局一時間目の最後までだったもんね。お疲れ様」

 瀬尾が労いの言葉をかけながら、紙パックのジュースを育人の前に置いた。

「ああ、ありがとう、瀬尾さ……」

かえで

「ふぇ?」

 育人の礼を遮るように瀬尾が言った言葉に、育人は間の抜けた返事をする。

「楓って名前なの。呼ぶ時は名前で呼んで。あたしも育人くんって呼ぶから」

「あ、ああ、了解です。せ……楓……さん」

 突然の楓の申し出に、同級生の女性を名前で呼んだ事のない育人は、鼓動が早くなるのを感じながら返事をした。

「さて次は数学かぁ。実は苦手で……」

 自分の席に横座りしながら、楓が憂鬱そうな声を上げる。

「育人くんは勉強どれだけできるの?」

 ふと思い出したように楓が聞いてきた。

「え? どうなんだろ? 前の学校は並みだったとは言えるけど」

 育人は楓がくれた紙パックのジュースにストローを挿しながら言う。

「転入試験の結果って教えてもらった?」

「教えてもらってないなー。とりあえず全部埋めた記憶はあるけど」

 そう言いながら育人はストローを口に咥えた。


 二時間目。

 プリントの束を手にして颯爽と教室に入ってきた狐耳の女教師は、その束を教卓に置いて、

「ゴールデンウィークボケの頭を試させてもらうわよー」

 とにこやかに宣言して抜き打ちテストの開催を宣言した。

「せんせー、うちのクラス転入生がいるんですけどー」

 誰かが手を挙げて、最後の抵抗とばかりに声を上げるが。

「あら、じゃあ実力が見れていいじゃない」

 と、嬉しそうに女教師が言い、そのまま問題用紙と解答用紙の二枚のプリントが配られた。

「はーい。じゃあ、時間は三十分だから十時五分までねー。不正したら厳しい罰があるからねー。では、始め!」

 一通りの説明の後に不意を突くような開始の合図。

 同時にざわついていた教室の空気が緊張した物に一変した。


 三十分後。

「はいそこまでー」

 女教師の言葉に、教室内の緊張が一気に解ける。

「じゃあ、解答用紙を裏にして一番後ろから前の人に渡してー。一番前の人は枚数確認してね」

 女教師の言葉を聞いて、育人は前の席に座る猫耳の女子に解答用紙を裏にして渡した。

「育人くんどうだった?」

 精根尽き果てた表情の楓が、机に突っ伏したまま顔を育人の方に向けて聞いてきた。

「全部は埋めたけど……。最後の三問はもう適当、っていうか無理」

 育人は教壇を見たまま手をひらひらさせた。

「やってみて分かったと思うけど、このテスト一年から休み前までやった内容しか出してないからねー」

 解答用紙を回収し終わった女教師が、それをまとめながら言う。

「はいじゃあ解説するから問題用紙を見てね」

 女教師の言葉に、育人は問題用紙を見てふと思った。

 ――俺、まだ授業らしい授業受けてない。


 二時間目終了後の少し長めの中休みの後、育人は校庭の隅にいた。

 三・四時間目はC・D組二クラス合同の体育で、まだ体操服の届いてない育人は見学となった。

 めんどくさそうに校庭を走るクラスメートを見ながら、育人は小さく息を吐いた。

「男子だけになってやっと落ち着いたってところかな。今のため息は」

 背後からの声に育人は振り向くと、朝、自己紹介の紙を持ってきた男子がいた。

「あ、えっと……」

 思ったことを半分当てられた育人は一瞬どう返答すればいいのか迷った。

「寺田。寺田忠時てらだただとき

 育人の反応に、寺田がフルネームを名乗った。

「ところで、今の反応からすると俺が言ったのは図星ってところかな?」

 少し嬉しそうな口調で聞いてきた寺田に、育人は向き直る。

「ん……まあ、半分位はそうかも」

「残りは?」

「俺無事にここでやっていけるのかなー。ってところかな」

 育人の言葉に、寺田は目を丸くして驚いていた。

「そう思う何かがあるの?」

「いや、まあ、新生活が始まってちょっと不安になっているだけなんだろうけど」

 育人は言ってから、寺田が自己紹介の紙の作成者である事を思い出した。上手い事会話を自己紹介で答えられなかった事に誘導しようとしているのではないかと。

「ああ。なるほどね。引っ越してきたばかりだって言ってたっけ」

 育人の考えを知ってか知らずか、寺田が納得した表情で会話を切った。


 体育の授業はソフトボールをやっていた。

 運良くC・D組とも授業参加者が十二人となっているので、内野に一人、外野に二人追加する特別ルールで試合が進んでいた。

 広い校庭には育人達の授業以外に体育を行っているクラスは無く、さながら野球場の中で試合を行っているような状態になっていた。

「で、だ。瀬尾はどんな感じよ?」

 野球場で言えばセンター最深部に該当するであろう箇所――体育館横に、寺田と育人は座って試合を見ていた。

「どんな感じって?」

 寺田の言葉に、育人は言ってる意味が分からないという風に返す。

「あー……。ぶっちゃけて聞く。彼女にしたいとかそういうのはあるのかって事」

「ぶっ!」

 寺田のストレートな質問に、育人は思わず吹き出す。

「な……何をいきなり……。とりあえずは色々と良くしてもらってるけど、会ってまだ二日目でそんなのある訳ないでしょ」

「そっかー。まだ早かったかー」

 育人の言葉に半分棒読みで言った寺田が、ふと思いついた様な顔をする。

「まだ瀬尾の本当の姿を見てないからだな。見たら多分そういう気になるぞ」

「本当の姿?」

 育人の言葉に寺田が大きくうんうんと頷く。

「実はな、瀬尾って結構スタ……」

「二人共! そっちにボール飛んでくるぞ!」

 特別ルールで外野の更に外側を守っているクラスメートに言われて、二人は顔を上げた。

 勢いのある打球が、二人の手前二十メートル程に落下し、大きく跳ねた。

「あっちゃー。バッター仁藤じゃねーか。さすが野球部飛ばすねぇ」

 寺田の声と同時に育人は素早く立ち上がり、着ていたブレザーを脱いで足元の打ちっぱなしのコンクリートに置いた。

「会田?」

 育人の行動に、寺田が声を掛ける。

 その声に何も答えず、大きく跳ねたボールが落下してくるであろう地点に育人は小走りに移動した。

 鋭い打球を飛ばした打者はホームランと思っているのか、悠々と二・三塁間を走っていた。

 落下してきたボールを育人が掴んだ瞬間。

「バックホームだ! キャッチャー構えろ!!」

 寺田が鋭く叫んだ。そしてその手にはコンパクトデジタルカメラがあった。

 そして次の瞬間、プロでも滅多に見れないような見事なバックホームが育人の手から放たれた。

 野球の球よりも大きいソフトボールが、それだと思えない速度のライナーでホームベースに向かい、打者がホームインする数メートル前で、ワンバウンドでキャッチャーミットに収まった。

 少しの静寂の後、ホームベース周辺で歓声が起こったが、育人はボールを投げ終わった体勢のまま、動かなくなっていた。

「すげーな会田! お前本当は前の学校で野球部でレギュラーやってたんじゃ……。どうした?」

 興奮した寺田が育人に声をかけながら近づいてきて、異常に気付いた。

「あのさ……」

 首だけ寺田に向けながら、育人が控えめに声を出した。

「ジャージって誰か持ってないかな?」

「ジャージ? 購買に行けばあると思うけど、合うサイズがあるかって問題が……」

 そこまで言って、寺田がなにか気付いた顔をした。

「まさか……」

「うん。ズボンのお尻破けた……」


 四時間目が終わり、楓が教室に戻ってくると、育人がズボンの股の部分を縫っていた。脱いだズボンの代わりには少し大きめの学校指定ジャージを履いていた。

「育人くん何してるの?」

 楓は自分の席につきながら育人の手元を覗き込んだ。

「縫いもの。ちょっと調子に乗りすぎたかなぁ……」

 育人は言いながら裏返したズボンの股の部分の直しを再開した。

 調子に乗ったという発言とズボンの繕いがどういう関係を持つのかいまいちピンとこない楓は、近くにいた男子に声をかけた。

「ああ。会田のあれ? もうちょっとすれば放送で見れるんじゃないかな」

 購買部で買ってきたパンを開けながら言う男子の言葉に、楓は教室の前方にあるテレビの電源を入れた。

 火曜日昼の校内放送は、報道部映像班によるニュース番組になっている。前週に行われた各部活動の結果や校内トピックなどを放送するのだが――。

「あれ?」

 楓は画面の表示に首を傾げた。

 テレビからは『ただ今編集中です』という静止画が表示され、軽快な音楽が流れているだけだった。

「いつもだったらもう始まってるよね?」

 楓は黒板の上にある時計を見ながら言った。

 その声を待っていたかの様に、聞きなれたオープニングテーマがテレビのスピーカーから流れ出した。

「あ、始まった」

 楓は放送が始まったのを確認して自分の席に戻った。

 育人はまだズボンの股をチクチクと縫っていた。

 番組はキャスターを務める三年生男子が、まず開始が遅れた事の謝罪から始まり、ゴールデンウィーク中に行われた各部の公式戦・練習試合などの結果を、取材に行った物は映像付きで紹介していった。

 時折画面の外から何かを確認するような声が聞こえるが、番組は平常に進行していた。

「なんなんだろうね? 番組の開始が遅れたのに特に変わったところないよね」

 友人三人と近くにあった机をくっつけて弁当を食べている楓が、画面を見ながら言った。

「よし。できた」

 ズボンの繕いを終わらせた育人が、隣の楓たちの昼食を邪魔しないように静かにズボンを表にしながら言った。

 そのズボンをきれいに畳んで、誰かから借りたものであろうソーイングセットと共に机の中にしまうと、机の横にかけたバッグの中から弁当箱を取り出した。

「あれ? 育人くんもお弁当?」

 楓は育人の手元にある弁当箱を見ながら言った。

「あ、うん」

「お母さんが作ってくれてるの? うちは姉妹が多いから自分で作ることが多いんだけど」

「ああ、えっと……」

 楓の言葉に育人が少し言い淀んだ。

『さて、ここで先程撮りたてのスーパープレー映像です!』

 画面の中のキャスターの声に教室中の視線がテレビに注目した。

 画面が切り替わると、先程までの取材映像よりいくらか画質の悪い映像が映し出された。

「え? あれ、育人くん?」

 楓が画面の中で背中を見せている人物の正体に気付いた。

 画面では育人が右手でボールを掴み、右足を軸に体を一気にねじってから、大きく左足を前に踏み込んで胸を大きく開き、溜められたねじりを一気に右手に掴んだボールに乗せてバックホームしている所が映し出された。

「うお、やっぱスゲエ」「え、なにこれ?」「これ、体育館のところだよね?」

 映像を見た生徒達から声が上がる。

 映像が切り替わり、今度は校舎から撮った映像に切り替わった。

 番組で使われている取材映像と同じカメラで撮ったと思われる高画質の映像は、育人の投げたボールが見事にキャッチャーミットに収まるまでを映していた。

『この見事な返球をしたのは誰なのか。久しぶりのこのコーナー。フーイズザットのコーナーです!』

 キャスターの言葉と共に、軽快な音楽が流れ始める。

『転入生を紹介するこのコーナー。先程の映像でプロもびっくりな返球をしたのは二年C組の転入生相田育人君。昨日付で転入したのですが、諸事情で今日から授業に参加しています』

「なんだこれは……」

 弁当を開ける手を止めて育人がつぶやいた。

『この運動神経はなかなかの逸材ではないでしょうか。また未確認の情報ではありますが、転入試験で高得点をマークしているという話もあります』

 キャスターの言葉に、教室内の全員が一斉に育人を見た。

『ですが、前に在籍していた学校の名前や家族構成がわからないなど、謎の多い人物の様ですが、皆さんよろしくお願いします』

 キャスターの言葉と共に音楽がフェードアウトしていき、別の話題に話が変わった。


「プライバシーが無いのか、この学校は……」

 育人は画面を呆れたように見てから、弁当を開ける作業を再開した。

 育人に注がれていた教室内の視線はいつの間にか元通りになって、それぞれの行動に戻っていた。

 育人の胸中には六割の呆れと三割の怒りが渦巻き始めていた。残りの一割は怒りを抑えるために空白状態にしている。

 この時期の転入生は珍しいだろうし、うっかりやらかした体育の事もネタにはなるだろう。だが、当人の承諾も無しに話が進み、多分教員から得たであろう当人が知らない情報すらも公表する。

 固定化された日常という水面に放り込まれた小石のような存在なんだと育人は弁当の蓋を開けながら思った。

「わ、すごいお弁当」

 突然横から楓の声が聞こえた。育人のそばで弁当を覗き込みながら目を輝かせている。

「育人君、これ誰が作ったの?」

「え、あ、俺だけど……」

 言いながら、育人は箸を構え、弁当箱を持った。

「あ、あのさ、育人君……」

 さあ食べよう、というところで楓が声をかけてきた。その後ろでは楓の友人が楓をたしなめる声を上げている。

「その野菜炒め、ちょっともらっていい?」

「……器ある?」

 育人は弁当箱を机に置き、弁当箱を持っていた手を楓に差し出した。

「え?」

「他人のお箸を自分の弁当箱に入れられるのが嫌なんだ」

 育人の言葉を聞いて、楓が自分の机の上にある弁当箱の蓋を育人に差し出した。

「これでいい?」

「うん」

 育人は蓋を受け取ると、それを裏返しておかずを乗せていく。ちなみに育人の弁当のおかずは肉野菜炒めに卵焼きと少々の漬物。

 ある程度の量を乗せると、育人は蓋を楓に差し出した。

「え? こんなにいいの?」

 楓が驚いた声を上げる。肉野菜炒めは三分の一、三切れある卵焼きの一つが楓の弁当箱の蓋の上に乗っていた。

「まあ、元の量が多いから」

 育人はそう言って、再び弁当箱を持った。


 楓は自分の弁当箱の蓋の裏に乗った肉野菜炒めの香りから、これが普通の肉野菜炒めではない事を確信していた。

 とは言っても、自分の家で母や姉たちに作ってもらった他には家族で行ったファミレスや中華料理屋で食べたぐらいなので高級な肉野菜炒めというのがよく分かっていないのだが。

 とりあえずざっくりと切られたキャベツに箸を伸ばして口に運ぶ。

「!」

 楓は口の中にあるキャベツの歯ごたえに驚いた。

 普通、野菜炒めは時間が経つと柔らかくなってしまうが、今食べているそれは歯ごたえを残していた。

 その上、絶妙な塩味とほんのり広がる肉の旨みのバランスが楓の予想以上だった。

「楓、おいしい?」

 隣に座っている猫耳の友人が聞いてくるが、楓はそれを制するように手のひらを見せた。

 キャベツを飲み込んでから、今度は肉に箸を伸ばして口に入れた。

 先程のキャベツのおかげで今度は驚かなかったが、楓は柔らかく炒められた肉を噛みながら、育人の料理の腕前は趣味というレベルではないと確信した。

「楓、おいしいの?」

 再び聞いてきた友人に、楓は大きく頷いて応える。

「本当? あたしももらってもいい?」

「……いいよ」

 楓は肉を飲み込んで少し考えて返事をし、きれいに作られた卵焼きを四分割してその一つを口に入れた。

「おいしい!」

 つい声が出てしまった楓は、慌てて口を押さえた。

 香りからだし巻き卵だと思っていたが、卵とだしの具合が丁度良く、しかも味に深みがある。

 家で食べるだし巻き卵とは違う物に感じられた。

「本当だ。野菜炒めおいしい……」

 信じられないという感じの声で言った猫耳の友人の声を聞いて、残りの二人も楓に確認を取ってから肉野菜炒めに箸を伸ばし、驚きの声を上げる。

「ねえ、育人君」

「ん?」

 楓の言葉に育人がもくもくと口を動かしながら短く返事をした。

「料理上手だけど、誰に教わったの?」

「……誰にも。本は読んだけどね」

「そうなんだ」

 楓は育人の返事に少しだけ違和感を感じたが、それは聞いてはいけないような気がして話を打ち切った。


 育人は弁当箱に残ったご飯を飲み込むと腕時計を見て、昼休み終了まであと一五分程あることを確認した。

 弁当箱をバッグの中に片付けてから、育人は机の中から先ほど入れた制服のズボンとソーイングセットを出して立ち上がった。

「あれ? どっか行くの?」

「これを職員室に返却してくるのと着替え」

 育人は楓の言葉に手に持った物を持ち上げながら言った。

「あ、じゃあ職員室まで一緒に行くよ。道中何があるか分からないし」

「何の事?」

 楓の言葉に育人は不思議そうな顔をして答えた。

「え? ああ、いや、こっちの話」

 椅子から立った楓がなんでもないという感じで手を振った。

「さ、行こっ」

 楓がそそくさと教室の戸に向けて歩き出したのを見ながら、育人は釈然としない何かを感じながらその後を追った。 

 廊下に出て階段を下りながら、先を行く楓の後ろ姿に育人は違和感を感じた。

 腰の少し下辺りから髪の毛と同じ黒い毛のそれが、楓の動きに合わせて左右に揺れていた。

「しっぽ……?」

 育人は少し考えてから確認するように呟いた。

「え? なに?」

 育人の声が聞こえたのか、階段を下りた楓が振り向いた。

「いや、楓さんって尻尾があるんだなぁって」

 階段を下りた育人は立ち止まって楓に言った。

「あれ、気づかなかった? 結構みんなついてるんだけどね」

 そう言いながら楓が廊下を歩き出し、それについていくように歩き出した育人は複数の視線を感じていた。

 多分、さっきの映像を見て興味を持った人だろう。

 視線の正体をそう判断した育人は、職員室の引き戸の前で立ち止まっていた楓に気づかず、そのまま衝突した。

「きゃっ」

 短い悲鳴と同時に楓の体が倒れそうになる。

「おっと」

 育人は素早く楓の腰に腕を回して楓の体を支えた。

「ごめん。よそ見してた」

 育人は恥ずかしそうに笑みを浮かべて謝った。

「……」

 少し驚いた表情で育人を見ていた楓が、少しぎこちない動きで体勢を立て直したのを見て、育人は腰を支えていた腕を外した。

「こ、ここが職員室ね」

「あ、うん」

 ちょっとだけうわずった声で言った楓に、育人は短く返事をした。

「失礼しまーす」

 育人は言いながら引き戸を開けて職員室に入っていった。

 

 職員室に入っていった育人が後ろ手で引き戸を閉めたのを確認した楓は、両手で頬を押さえた。

 手のひらに感じる熱さに、自分の顔が赤くなっているのが分かった。

 ――こ、ここ、腰抱かれたぁ……。

 突然起きた育人との急接近に、楓は軽くパニックに陥っていた。

 楓は腰に回された育人の腕の感触を思い出していた。

 普通の女子に比べて高身長な上、小学生の時からやっている格闘技のおかげでしっかりと筋肉もついているため体重もある自分の体を、育人の腕はしっかりと支えていた。

 ――育人君結構細いように見えるけど、結構力持ちなのかな?

 手のひらに感じていた熱が引いてきたように感じて、楓は頬から手を離した。

 ――でも、なんだろう……。嫌じゃないし、なんかいい匂いもしてたなぁ……。

 育人の匂いを思い出して、楓は少し胸が高鳴ったように感じた。


「失礼しましたー」

 育人は職員室の引き戸を閉めながら言って、楓がいるはずの場所を見たが、いない。

 先に戻ったのかと周囲を見回したら、視界の下に見慣れ始めた黒い犬耳が見えた。

 視線を下に向けると、楓が手で顔を隠してしゃがんでいた。

「楓さん、どうしたの?」

 育人の声に、楓が跳ねるように立ち上がった。

「だ、だだだ、大丈夫。なんでもないよ」

 顔を赤くして返事をする楓がすたすたと廊下を歩いていくのを、育人は慌てて追いかけた。

 

 結局、育人は教室に着くまでに楓に追いつけなかった。

 制服に着替えるためにトイレに寄ったというのが一番の原因ではあったが。

 嫌われるような事をしたかと考えてみたが、思い当たる節がない。

 そうこうしている内に五時間目と六時間目が終わり、帰りのホームルームが手短に終わった。

 教室の中の面々がそれぞれ動き出す中、育人は机の横のフックに掛けたバッグを持って立ち上がり、教室の掃除の邪魔にならないようにさっさと教室から出た。

「あ、育人君」

「え?」

 廊下に置かれているロッカーから何かを取り出そうとしていた楓の呼びかけに、育人は声のした方に向いた。

「この後予定ある?」

「まあ、帰るだけなんで特に予定は無いですが……」

 育人は、ロッカーからスポーツバッグを引っ張り出している楓の言葉に素直に返答した。

「ほんと!? だったら学校の中案内してあげよっか」

 楓が嬉しそうに言った次の瞬間、その表情が少し曇った。

「相田」

 背後から声をかけられて、育人はその方向に向いた。

 育人より一回り背が高く、丸刈りでがっちりとした体格の男子がそこにいた。

「あ、えーと……。どちら様で?」

「D組の仁藤だ。わりいんだけど、この後ちょっと付き合ってもらえねーかな?」

 申し訳なさそうに言う仁藤を見てから、育人は背後の楓をちらりと見た。

 表情は普通に戻っていたが、警戒心を前面に出して、楓は仁藤を見ていた。

「用件はなんですかね?」

 仁藤に視線を戻して、育人は聞いた。

「あー……。体育の時間のあれ、昼の放送で流れただろ。俺野球部なんだけどさ、あれ部の先輩が見てて、放課後呼んで来いって言うんだよ」

「野球の能力が見たいとかそういう話ですか?」

「多分そうだと思うよ」

「悪いけど、今日は無理」

 間を置かずに育人は返事をした。

「体操着の準備ができてなくてさ。今日見学したのもそれが理由だし」

「あぁ……そういう事か。それじゃしょうがないか」

 少し落胆した表情で言った仁藤は、時間取らせて済まなかったと言いながら去っていった。

「育人君、いいの?」

「なにが?」

 背後からの楓の言葉に、育人は振り向きながら答えた。

「今の話。ジャージは持ってるでしょ?」

「あー……。下はあるけど上が無いし、先約があるから」

 育人の言葉に楓が少し驚いた表情をした。

「この後予定あったの? だったらそれを言えば……」

「楓さん、さっき仁藤さんに声かけられる前に言った事もう忘れました?」

「……なんだっけ?」

「学校を案内してくれるんじゃなかったっけ?」

 育人は言いながら楓の横を通って、楓から少し離れた場所にある「相田」と真新しいシールが張られたロッカーを開けた。

「あ、ああ、そっか。言ったね」

 楓の返答は少しぎこちなかった。

「あれ? 楓さんなんか用事あった? 部活とかやってるんじゃないの?」

 育人はロッカーの中にバッグを入れる手を止めて楓に聞いた。

「あああ、いやいや。大丈夫。うん」

 少し慌てながらスポーツバッグをロッカーの中に戻した楓は、ロッカーのドアを勢い良く閉じた。


 育人達が通う私立藍山高校は小高い丘の中腹にある。

 高校にしては広大な敷地を有しており、校舎自体も一般教室棟・特別教室棟に加え、グラウンドはメインとサブの二つ、二面のテニスコートや格技棟を併設した体育館がある。

 一学年に六クラスあり、全校生徒は約六百二十人。

 校内男女比は四対六で、女子の亜人種率は約半分となっている。

 一般教室棟と特別教室棟の間には広い中庭があり、そこには全校生徒を収容できる学食兼カフェテリアがあり、放課後の憩いの場となっている。

 一通り校内を回ってきた二人は、そのカフェテリアの外に設置されているテーブル席で一息ついていた。

「一通り回ってみたけど、どうだった?」

「色んな設備が充実してるってのが第一印象。運動も勉強もね」

 育人はほうじ茶の入った紙コップを両手で包みながら言った。

「前にいた学校はどんな感じだったの?」

「ふつーだよ。多分」

 育人は言ってからほうじ茶を一口飲んだ。

「あ、いや、普通とは違うか。亜人種の人達はいなかったからその点は普通じゃないな」

 育人は校内を回っている間に、楓との会話でこれまで自分が暮らしていた環境が世間一般とかけ離れていた事を知った。

 楓が言うにはどこにでも亜人種はいるはずで、いないという事がおかしいのだそうだ。

「まあ、そういう土地もあるんだろうけど、珍しいよね」

 楓は育人におごってもらったカフェラテを飲んでそう言った。

「亜人種の生活とか覚えていった方がいいんだろうなぁ……これからの生活考えると」

 育人は腕を組んで考え込み始めた。

「いや、そんなに考え込まなくても。それに昨日に比べれば慣れてきてるじゃない」

 楓は屈託なく笑いながら言った。

「今日は放課後まで居て、亜人種のあたしと校内回ってるんだから慣れてきてるんだって」

「そう……なのかな?」

 育人は自信無さげな返答をしつつも、確かに昨日の朝から比べると亜人種という人達に慣れてきているという実感はあった。

 ちょっと姿が違うだけで、彼女達も普通に人なんだと育人は思っていた。

 ふと。そこで育人の意識が立ち止まった。

 彼女達?

 これまで亜人種の女性は多く見てきたが、男性はいたか?

 この町に引っ越してきてから、亜人種の男性を見た記憶が無い。

 どこかで見ていたかもしれないと記憶を手繰ろうとしたその時。

「あ、姫様だ!」

 楓の言葉が育人の思考を中断させた。

「姫様?」

 今の時代あまり聞くことの無い言葉に、育人は楓に聞き返した。

「ほら、あそこ。あの銀髪の眼鏡かけてる子」

 楓が指差した先には何人かの女子生徒が談笑しながら歩いていた。

 その中に一際目立つ存在感を持った少女がいた。

 長く伸びた銀色の髪と日本人とは少し違う顔立ち、周りの女子とは違った雰囲気を持った少女は、確かに楓が言うように姫様と表現するのがぴったりだと思った。

竜造寺天海りゅうぞうじ あまみさんっていって、竜人族の子なんだよ。クラスは二年A組」

「へぇ……」

 育人は楓の言葉を聞きながら、その姿を目で追っていた。

「おばあちゃんが世界的企業の会長さん……だったかな? まあ、生粋のお嬢様なんだよね」

 なるほど。そういう生まれであれば確かに他の子達と雰囲気は違ってくるものなんだな。と育人はそう考えながら天海から視線を外し、ほうじ茶をすすった。

「あの……会田さんですか?」

「え?」

 柔らかい女性の声で呼ばれて、育人は声のした方を見た。

 そこには今しがた話題に上がった竜造寺天海が立っていた。

「あ、はい」

 育人は天海の雰囲気に飲まれて、思わず立ち上がりながら返事をした。

「二年A組の竜造寺天海です。お昼の放送を見ましたけれどもスポーツがお得意なんですね」

「いや……あれはたまたまで……」

 不意を突かれた上に天海の雰囲気に押されっぱなしの育人は思った言葉がうまく出てこない。

「転入してきてなにかと大変でしょうけれど、力になれることがあればおっしゃってくださいね」

 天海はそう言いながら育人に右手を差し出した。

「あ、はい。その時があれば」

 育人は天海の華奢な手を握りながらそう言い、その顔を見た。

 日本人とは違う国の血も混じっていると思われる顔立ちの中で、眼鏡の奥にある瞳孔が縦長のものであるのを見て、育人は天海が亜人種であることを実感した。

「それでは失礼します」

 数秒の握手の後、天海は一礼をして一緒にいた女子の元に戻っていった。

「珍しいこともあるもんだ」

 椅子に座り直す育人に楓はそう言った。

「え?」

「姫様は男子と積極的に関わらない方だと思ってたんだけどなぁ」

 楓は首を傾げながら腕を組む。

「男子に声を掛けるのが珍しいってこと?」

「姫様と同じクラスの子に聞いた話だとねー……」

 楓の声が力無く途切れた。視線が上を向き、何かを考えている。

「楓さん、どうしたの?」

 育人の声に楓は返事をしなかった。

「あーっ! こんなところにいた!」

 背後から聞こえた声に、育人は思わず振り返った。

 栗色の髪をポニーテールにまとめた犬系か猫系亜人種の少女が、上履きなのを気にせず渡り廊下から中庭を突っ切って育人達の所に走ってきた。

「な……なかちゃん……」

 楓はしまったと言いたそうな声をあげた。

「って……あれ? 会田君?」

 楓がなかちゃんと言った少女は育人達の前で急停止すると、今気づいたかのような声をあげた。

「あ、どうも。会田育人です」

 育人はとりあえず自己紹介をして会釈した。

「あ。えっと、B組の中野恵里なかの えりです。って、違う! 楓、先輩が待ってるよ」

「えー……」

 中野の言葉に楓は拗ねた声をあげて、テーブルに突っ伏した。

「やっぱり部活やってたんだ。だから聞いたのに」

「ううー……」

 育人の言葉に、楓はうなって返事をする。

「中野さん」

 育人は中野を呼びながらその顔を見た。

「ふぇ?」

 急に呼ばれた中野はちょっと気の抜けた返事をした。

「俺から校内案内してくれって楓さんに頼んだんだ。部活があることは知らなかったんだ。申し訳ない」

 育人は椅子から立ち上がって頭を下げた。

「楓さんもごめん。部活があったならあるって言ってくれればいいのに」

 突っ伏したままの楓にも育人は頭を下げた。

「え、いや、そういうことだったんならまあ……」

 急に育人に頭を下げられた中野はびっくりしながらそう言い、頬を掻いた。

「先輩に説明しづらいんだったらこれから一緒に行くけど……」

「だいじょぶ。あたしが言う」

 楓は突っ伏したままで返事をした。

「んじゃ、ここで解散だね。ごめんね無理言って。コップ片付けておくから」

 育人はそう言って自分と楓の紙コップを手に取ると、上履きを履いた正規のルートである学食の中に入っていった。

「で? 本当はどうなの?」

「……あたしから誘った」

 育人が視界から消えたのを見てから聞いてきた中野に、楓はのろのろと起き上がりながら言った。

「……まあ、会田君の顔を立てるとしますか。ほら、行くよ」

 中野の言葉に、楓は立ち上がりつつ育人の優しさに感謝していた。


 育人は学食を出ると、ロッカーに入れたバッグを取りに行き、昇降口へ向かう廊下を歩いていた。

 廊下に人の姿は少ないが、昼の放送の件もあってか育人の姿を見て振り返る者が数人いた。

「きゃっ」

 昇降口がすぐそこまで来たとき、育人の耳に短い悲鳴と足音が聞こえ、その方向に目を向けると、少女が階段の中程から落ちるその瞬間が目に入ってきた。

 育人の体が反射的に動いた。

 バッグを床に落としながら少女との十メートル程の距離を一瞬で縮め、両腕を開いて少女を受け止めた。

 しかし、階段の途中という足場の悪さのため、受け止めた育人も一緒に落ちそうになる。

 手すりに手を伸ばそうとするが、間に合わないと判断した育人は少女を抱えると階段を蹴って後ろに飛び、一階の床に無事着地した。

 大きく息をついた育人は、目の前にある銀色の髪に見覚えがあった。

「あ、あの、危ないところを……」

 そう言いながら顔を上げたのは天海だった。

「間に合ってよかった」

 育人はそう言って天海を解放する。

 顔を紅潮させた天海は少しうつむきながら育人から離れた。

「いやぁ、竜造寺ぃ災難だったねぇ」

 芝居がかった言い方で、階段の上から男の声が聞こえた。

「しかしぃ、階段から転落するなんてやはり亜人種の……あれ?」

 一階と二階の間の踊り場に姿を表した細身で長身の神経質そうな顔をした男は育人と天海を見てポカンとした表情をした。

「やあやあ、誰かと思えば転入生の会田くんじゃないか。なに? 竜造寺の奴に襲われそうにでもなったのかい?」

 ポカンとした表情から戻った男は、踊り場から動かずに好き勝手なことを言い始めた。

 育人は、誰かは知らないがこの男とは仲良くなれそうな気がしないと思った。

「階段から転落しそうになってたところを助けただけだよ」

 育人は言いながら、天海を背中に隠すように立ち位置を変えた。

「いやぁ、いかんいかんよ会田くぅん! そいつら亜人種は優しくすると何をするかわかったもんじゃない」

 大袈裟にポーズをつけながら、男は捲し立てる。

「そんな事知らんよ。なに? あなた亜人種嫌いか?」

「大っ嫌いだね。この世からいなくなってほしい存在だね」

 育人の言葉に男は即答した。芝居がかった口調を忘れるほど本心から出た言葉らしい。

「あー。そういう事か」

 育人は男の顔を見上げて、あきれた口調で言った。

「竜造寺さん階段から落としたのは、あんたの手下か」

 男の表情が一瞬狼狽えたものに代わり、すぐに戻った。

「何をいきなり……。証拠があるって言うのか?」

 男の言葉に育人は大きくため息をついた。

「階段を降りてくるときに、竜造寺さんが転落していること前提で喚いていたよな。ああ、二階から見えていたって言う言い訳は無しな。壁で見えない位置だったからな」

 育人は階段の中程から始まっている壁を指差す。

「それと、証拠証拠言い出すのは犯人かその関係者のお決まりの言葉なんだよ。まあさっきの発言が証拠みたいな物だけどな」

 育人の言葉に、男は育人をにらんだ。

「……覚えてろよ。亜人種の味方をしたことを後悔させてやる」

 男はそう言って階段を上がっていった。

「悪いが新しい暮らしに必死なんであんたの……って聞こえてないか」

 育人が小さく息を吐きながら振り向くと、何人かの生徒が遠巻きに見ていた。

 後ろにいた筈の天海も姿を消していた。

 まずいことをしたかなと思いつつ、床に落としたバッグを拾い、育人はその場をそそくさと離れた。

 昇降口で靴を履き替え、校門を出ようとした時、一台の高級車が門の外に止まっているのに気がついた。

 運転席にいるのは女性で、昇降口をじっと見ていた。

 生徒の親というには若すぎるその女性は、育人の視線を感じたのか育人を見て小さく会釈した。

 思わず会釈を返した育人は、そのまま家へ向かって歩き出した。


 育人が去ってから数分後、昇降口から目当ての人物が出てきたのを確認した女性は無駄の無い動作で車から降りて後席のドアを開けた。

「お帰りなさいませ。お嬢様」

 女性の言葉に返事もせずに天海は後席に乗り込んだ。

 いつもと違う天海の様子に戸惑いながら、女性はドアを閉める。

「どうかなさいましたか。お嬢様?」

 運転席に座った女性はエンジンを始動させながら後席の天海に声をかけた。

「えっ?」

 何かに驚いた表情で、天海は前席の女性を見た。

「どうしたんです? 乗る時も返事が無かったですし、また亜人種排除派の誰かになにかされたんですか?」

「されたけど、そうじゃなくて……。とりあえず出して鈴音りんねさん」

 天海の言葉に、鈴音と呼ばれた女性は滑らかに車をスタートさせた。

「それで、何があったんです?」

 学校を出て少し経ち、大きめの道路に出たところで鈴音が口を開いた。

 天海は鈴音の問いに少しもじもじしていたが、意を決したようにあった事を話した。

「……なるほど。助けてくれた転入生がかっこよかったと」

 五分ほど話した天海の話の内容を、鈴音は簡潔にまとめた。

「あと、勘違いでなければなんだけど……」

 天海は何かを思い出すように言った。

「なんです?」

「ひょっとしたら、会田くん適合者かもしれない」


 楓は自室のベッドの上に横になりながら、育人の事を思い出していた。

 特に気になったのは、腰を抱えて支えられた時に感じた匂いだった。

 どこかで嗅いだ事があるが、どこでだったか。何で嗅いだかが思い出せない。

 不意にスマホがSNS用に設定した短い着信音を鳴らして、楓の思考を中断させた。

 体を捻って机の上のスマホを手に取り、内容を確認する。

「なんだ。なかちゃんか」

 言いながら送られてきた短文メッセージを読む。

 中野から送られてきた内容は、育人と天海の出来事を知らせるものだった。

 それを読んだ楓の胸が少し痛くなった。

 その痛みがどこから来ているものなのか。楓は痛みの原因が分からないままスマホを元に戻した。


 翌日。

 登校した育人を待っていたのは色々な生徒からの質問攻めだった。

 天海との出来事が昨晩の内にSNSを通じてある程度の生徒が知り、登校してきた生徒がそれを聞いて当人から話を聞こうとなり、ホームルーム前だというのに育人の机の回りには人垣ができていた。

「だから、竜造寺さん助けたのは本当だけど、その後になんか請求したとかそういうのは無いんだって」

「でも、目撃した人は会田くんが竜造寺さんに凄んでたって言ってるんだけど」

「そんな事しないっての。その前に亜人種大っ嫌いだって奴の相手してたらいなくなってたんだから」

「そんな事より会田! お前竜造寺さんを抱いたのか!?」

「言い方に語弊がありすぎだよ。あの状態じゃ抱えるしか……」

「そこまでだ。お前ら」

 急に響いた声は教室内の空気を張り詰めたものに一変させた。

「げ。風紀委員長だ……」

 誰かが小さく呟くのが育人の耳に聞こえた。

「予鈴五分前だぞ。他のクラスの者は自分の教室に戻れ」

 はっきりとしたその言葉に、育人の机を囲んでいた生徒達のほとんどは教室から出ていった。

「君が会田育人か」

 人垣が無くなったのを見計らって、制服の左腕に「風紀」と書かれた腕章をつけた細身で気の強そうな人間の女性が育人に声をかけた。

「私は風紀委員長をしている加古かこという者だ。申し訳ないが、昼休みに少々時間をいただけないだろうか」

「昼休みにですか……」

「なに、時間は取らせないよ。さっきの騒ぎの件で聞きたいことがあってね」

 加古と名乗った女性は渋る育人に優しい口調で言った。

「それだったら私も同席させてもらっていい?」

 加古の背後から別の女性の声がした。

水瀬みなせか。新聞班が何の用だ?」

「昨日の事で当人に話聞きたかったんだけど、加古ちゃんが調書取るんだったら信頼の置ける話が聞けると思ってさ」

「お前な……」

 水瀬と呼ばれた女性は、加古の影に隠れてしまい育人からその姿は見えなかった。

「あのー」

 育人はある事に気づいて二人に声をかけた。

「ん?」

「予鈴です」

 育人は加古に腕時計を見せた。

「おっと。じゃあ、会田くん昼休みに生徒相談室で待ってるぞ」

 加古はそう言いながら足早に教室から出ていった。

「また後でー」

 加古の後ろにいた水瀬も加古を追うように出ていった。

「大変だね。育人君」

 これまで話しかけることができなかった楓が声をかけた。

「俺は階段から落ちそうになってる人を助けただけなのに……」

 力無い育人の言葉と同時に、予鈴が鳴った。


 昼休み。

 育人は食事も早々に職員室の隣にある生徒相談室に向かった。

 引き戸をノックすると、中から加古が入室を促す声が聞こえ、中に入ると長机の向こうに加古ともう一人の女性がいた。

 肩の辺りで揃えられた黒髪に薄い灰色の肌の、一瞬中学生かと思うような小さな体。

 育人は多分この人が水瀬さんだろうと思いながら、加古に促されて二人の反対側に座った。

「朝は自己紹介できなかったが、私は水瀬巴みなせ ともえ。報道部新聞班の班長をしてます。今回同席させてもらったのは校内新聞の取材です。記事にするかもしれないのでそのつもりで」

 薄い灰色の肌の女性はそう言って会釈をし、胸ポケットからメモ帳とシャープペンを取り出した。

「さて、じゃあ昨日の放課後の話だが……」

 天海が階段から落ちそうになったのを助けた一連の話の聴取は、育人が思っていたよりあっさり終わった。

「会田くんが竜造寺さん助けた後に出てきたのは、まあ藤峰ふじみねだろうなぁ」

 そう言って加古は頭の後ろで手を組ながら疲れたように言った。

「藤峰?」

「んー……。まあ、風紀委員会の立場として言うならば、気を付けてとしか言えない」

 加古は困った顔で水瀬を見た。

「亜人種を目の敵にしているのは昨日の発言でわかりますけど……」

「校内だけで喚いているならまだどうにかできるんだけど、外の団体と繋がりがあってね」

 水瀬がやれやれと言いたげに言った。

「そこにうちの生徒を引き込んでるのよ」

「風紀委員会や生活指導の先生達も警戒はしてるんだけどね」

 加古は言いながら腕を元の位置に戻した。

「取りあえずは気をつけます。なんかリベンジする気満々でしたから」

 育人は、昨日藤峰が去り際に言っていたことを思い出しながら言った。


 藍山高校の水曜日に午後の授業は無い。

 昼休み後にホームルーム、校内各所の掃除があり、授業の代わりである部活の時間ということで校内各所が活気を帯びる。

 生徒は何かしらの部活に入ることが義務付けられているので、校内をぶらぶらしているのはサボりか、育人のような部活が決まっていない者だ。

「部活ねぇ……」

 育人はメイングラウンドの端から様々な部活の活動を見ながら呟いた。

 これまで育人は家庭の事情があって部活動には参加した事が無い。

 これは今でも同様で、部活動にはできれば参加したくない。

 転入する際の説明では、終了時間である十五時三十分までは下校できないと言われているので、参加するにしても水曜日のみで、かつ終了時間で終わってくれるような部活動を選びたいところだが、昨日校内を回っている時に見る限りではそういう部活動は無いように見えた。

「校内見て回るか……」

 昇降口に戻ろうと回れ右をした育人の背中に何かが当たった。

 振り向くと足元に野球の硬球が転がっていた。

「わりぃ! ボール拾ってくれー!」

 顔を上げると五十メートル程離れた所から野球部の誰かが両手を挙げて声を上げていた。

 育人はボールを拾うと、山なりの弾道でボールを投げ返し、相手が捕球できたことを確認してその場を離れた。

 校内に戻った育人は念のため立ち寄った購買部で、ちょうど入荷した体操着一式を受け取り、それをロッカーに入れるために自分の教室に戻って事を済ませたら行き場が無くなった。

 育人は少し考えてある所に足を向けた。

 その行き先は図書室だった。

 亜人種に関して基礎知識程度は押さえていた方が、これからの生活で驚いたりすることも少なくなるだろうと思ったからだ。

 しかし、一般教室棟四階にある図書館は開いていなかった。

 サボってる人達の溜まり場対策かと考えながら、育人は当てもなく階段を下りた。

「あ、会田さん」

 二階まで降りたところで、育人は背後から声を掛けられて振り向いた。

 そこには天海が立っていた。

「あ、どうも……」

 育人はぎこちなく挨拶をする。

「どうされたんです。こんなところで?」 

「部活決まってないんで、校内ふらふらしていたところです」

 天海の問いに、育人は簡潔に返した。

「転入されたばかりですものね。……そうだ、よろしかったらうちの部に見学に来ませんか?」

「良いんですか? お邪魔にはなりませんか?」

「大丈夫だと思いますよ。それじゃ行きましょうか」

 天海が育人に背を向けて歩き出したので、育人はその後をついていくことにした。

「ところで、竜造寺さんは何部に所属しているんです?」

「ああ。言ってませんでしたね」

 育人の問いに、天海は振り向いた。

「魔法研究部です」

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