キス中毒
疲れた。
もう足が棒だ。頭は重いし、体はだるい。今日も一日頑張った。子供の頃から憧れていた会社は、確かに楽しいけれど、私には荷が重い。
もういっそ、道路に倒れこんでしまいたい。ついつい、そんなことを考えてしまう。でも、後少し辛抱すれば家に着く。夫に会える。それまでは頑張ろう。
―――私は、少し普通じゃない。少し、本当に少しだけど、異質な存在。そしてこの国では、少しの違いが人を目立たせてしまう。私も例外じゃない。目立つことが必ずしも悪いわけじゃないことに気づくまでは、ひどく苦しんだ。
私はキス中毒者だ。キスをしないと生きられない。キスしないと不安になってきて、体の震えが止まらなくなる。周りの目も相まって、生きるのが辛くなる。今でこそ仕事の間くらいは耐えられるようになったけど、学生の頃は大変だった。敵を見る目で見られたし、ひどいこともたくさん言われた。いじめられたこともある。口元の寂しさを誤魔化すために指を噛む癖がついたのも、学生の頃。
でも、これは生まれつきじゃない。子供の頃はキスなんてしなくたってよかった。高校生になって突然発症した。
原因は今でも分かっていない。お医者さんも治し方が分からないから、精神安定剤で誤魔化すように言われてる。この症状が嫌だから、自分なりに原因を考えて治そうと試みたりもした。今は、自分では原因を分かったつもりでいる。あまり人に話せる内容じゃないけれど。
私は多分、愛されすぎたんだ。小さいころから両親に愛され、祖父母に愛され、叔父叔母に愛されてきた。父は厳しく私を叱り、母は私を優しく諭した。父は子供のように私と遊び、母は先輩として相談に乗ってくれた。そういう家庭だった。
きっと私は贅沢者だ。そんなことは分かってる。でも、更なる愛を求めてしまうのが、私だった。愛の飽和に慣れてしまったのだ。
そんな贅沢者の私の不幸は、父が死んだことだ。父が死んで、私には愛が足りなくなった。母からの愛では足りなかった。友人との友情では補えなかった。周囲からの同情は、愛ではなかった。愛が不足した。
気づけば私は、常に寂しさを抱えていた。誰といたって、何をしていたって、孤独感が消えない。自分が一人のように感じる。私の心に寄り添う人はいたはずだ。なのに、私にはそんな人たちが見えていなかった。
この寂しさこそ、キス中毒の原因だと思う。高校生の時、私はキスなしでは生きられなくなった。
当然、私はすごく目立った。私は世間の腫物だった。人がどんどん離れて行って、私はもっと孤独になった。
でも、目立つことは必ずしも悪いことじゃない。それを知れたのは、この中毒になって唯一よかったこと。
たくさんの人が私から離れていったけど、手を差し伸べてくれた人もいた。困っている私を助けてくれた人は、一人じゃなかった。夫もその中の一人だった。
―――我が家が見えてきた。窓から光が漏れている。毎日見るこの光景に、心が落ち着く。きっと今、夫は私のことを待ちながら、料理を作ってくれているのだろう。自然と足が軽くなった。
家の前に立つ。鍵を開けて、中に入る。ただいま、と声をかける。彼が現れて、にっこりとほほ笑む。私はちょっと背伸びをして、彼に顔を近づけた。彼の腕が、私を優しく包んだ。
これが私の日常。