信長の手紙
羽柴秀吉の女好きは、有名である。
若い頃から、いろんな女に手を出す。身分の高い低いにかかわらず、妙齢であれ
ば、人の妻であっても見境がなかった。
しかも、ほとんどの女はその時限りで、側室にもしなかったので性質が悪い。
その女癖は、一国一城の主となったころからさらに悪くなり、領内で妙齢の女子
を持つ両親は、戦々恐々であった。殿様の要求をはねのけることは、領民にとって
難しいことであった。
その女癖の悪さに、秀吉の正室、ねねは、我慢の限界にきていた。
秀吉と結婚して十五年、二人の間に子が生まれることはなく、それ故、彼女は夫
に対して申し訳なく思っていた。
それはもちろん、ねねのせいではなかったが、当時の社会において、彼女の感じ
る責任は重く、その後ろめたさもあって、夫の女遊びも多少は大目にみてきたので
ある。
しかし、日に日に悪化する夫の女癖の悪さに、ついに堪忍袋の緒が切れた。
その不満を主君、織田信長に訴えてしまったのである。
この日、ねねは、完成した安土城を初めて訪れ、信長や、その側室らと談笑して
いたが、話がその秀吉の行状に及び、つい不満が口をついた。
一度でも不満を口にしてしまえば、あとは流れる川の如く、とどまることを知ら
なかった。
一通り話し終えたねねは、主君に非礼を詫びたが、信長はさして気にする様子も
ない。その日は、それで話は終わった。
後日、ねねのもとに、信長から一通の書状が届いた。
天下布武の印が用いられた、公式の文書である。
その内容は、次のようなものであった。
この度は、予の言葉に従い、この安土をはじめて訪ねてきてくれたこと、嬉しく
思う。
その上、色々な土産物の美しさは見事で、筆では書けないほどだ。
何か返礼を、とも思ったが、そなたからの土産物が素晴らしく、思いつく良いも
のもなかったので、この度はやめて、またそなたが来てくれたときにでも、渡そう
と思っている。
とりわけそなたの美貌は、以前にあったときより、十のものが二十になるほどに
美しさを増している。
秀吉が、何かと不足を申しているようだが、言語道断、けしからぬ。
どこをさがし歩いても、そなたの程のものを、二度とあのはげねずみ(秀吉)は
見つけられまい。
これ以後は、日々陽気に振る舞い、奥方らしく堂々と構え、嫉妬などはせぬほう
がよかろう。
ただし、夫を立てるのは女房の役割であるから、言いたいこともある程度におさ
え、世話してやるとよい。
この手紙は、秀吉にもみせること。
この書状を受け取ったねねは、大いに喜び、すぐさまこれを秀吉に見せた。
秀吉は、驚きで声も出なかったといわれる。
この話は、織田家中にも広がり、
「秀吉めが仕置きをうけたぞ」
「成り上り者め、いいざまだ」
と、日々秀吉の出世を快く思わない者たちは、陰口をたたいた。
秀吉は、腰を低くするばかりであった。
「この度は、サルめの願いをかなえていただき、恐悦至極にございます」
しばらくの後、信長の目の前には、額をすりつけて感謝する秀吉の姿があった。
実はこの書状は、秀吉がかねて望んでいたものであった。
この時代、家の存続は、その主にとって、何よりも優先されることであった。そ
れは、新しく羽柴の家を興した、秀吉にとっても例外ではない。
しかし、ねねとの間は十五年にもなるのに、子が生まれなかった。
秀吉は以前から、自分のやっていることは女遊びではなく、羽柴家のためにやっ
ていることだと、信長に訴えていた。
今自分は、織田家のために身を粉にして働いているが、どんなに出世しても、そ
れを残す子がいなければ意味がない。何とか子をつくり、それに後を継がすことが
できれば、今以上の奉公ができる。しかし、ねねがそれを聞かずに嫉妬して、困っ
ていると訴えていたのである。
その話を受けた、この書状の重要な部分は、後半部分であった。
つまり信長は、前半でねねを褒めちぎり、秀吉にはできた妻だといいながらも、
最終的には、奥方として堂々として、嫉妬はせぬこと、そして、秀吉の顔を立てよ
と言っているのだ。
書状を、秀吉に見せるよう申しつけているのは、その内容が、おおよそ秀吉の希
望にそったものだったからある。
秀吉は、女遊びの大義名分を得た心地であった。
「おい、はげねずみ」
一通り礼を言って、信長の前を辞そうとしていた秀吉は、その声に面を上げる。
「家のためというならば、手を付けた女どもは皆、側室にせねばならぬぞ」
「やや、そ、それは……」
秀吉は、返答に窮した。
側室にするということは、その女の一生に責任を持たなければならない。そんな
ことをしていれば、城は側室であふれかえってしまう。
「それが嫌なら、節度をもて。ねねの顔も、立ててやらねばならんぞ」
「ははーっ」
秀吉はそう言って、再び平伏するほかなかった。
帰りの途中、書状の内容を思い出していた秀吉は、舌を巻いた。
信長は、一枚の書状で二人に注意をうながしながらも、両者の顔も立て、そうし
て恩を売ることで、秀吉とねねに、さらなる忠勤をうながしたのである。
(さすがは、信長様じゃ。儂も自分の配下に対して、こうあらねばならん )
こうして秀吉は、家臣の心をつかむ術も、学んでいくことになった。
結局、のちに天下人になっても、秀吉の女癖はなおらなかった。
しかしこの夫婦は、のちのちまで信長の教えを守り、お互いの顔を立てることを
忘れることはなかった。