69.選ぶ時
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どこかで携帯の鳴る音がした。
私は夢から覚めて、鞄から急いで携帯を取る。拓真くんからだ。
「もしもし」
『ミジュ、まだ晴臣の家か?』
「うん」
『練習終わったから帰るぞ。今、晴臣のマンションの下にいるから、降りてきてくれ』
晴臣くんはまだ寝てる。握られていた手はいつの間にか離れていて、確かに帰ることはできる状態だった。
だけど。
「ごめん、私……まだ帰れない」
『なんもされてないか?』
「それは、大丈夫」
『わかった、とりあえず俺も一回そっち行くから玄関開けといて』
それだけ言って、電話は切られた。拓真くんに言われた通り、玄関の鍵を開けて晴臣くんのベッドのそばで待ってると、すぐに拓真くんが中に入ってきた。
「ミジュ」
「拓真くん」
「晴臣は寝てんのか。どうなんだ?」
「うん、熱は高いけど、他にはそんなに悪いところもなさそうだし、二、三日すれば治まってくるんじゃないかな」
「じゃあもう大丈夫だろ。帰るぞ」
「あ、それが……私、晴臣くんが寝てる間には帰らないって約束しちゃって」
その瞬間、拓真くんがムッとしているのがわかった。また怒られちゃうのかなぁ、私……。
「じゃあここにいんの?」
「うん……」
「朝まで?」
「……わからないけど、そうなるかも……」
「そのまま……明日もここにいる気なのか?」
憂えた顔で問われて、胸が締め付けられる。
「明日は……拓真くんと、海近市に行く予定じゃない」
「ミジュのことだから、晴臣にせがまれるままここにいちまうんじゃねーの」
「そんなことは……! ない……よ、多分……」
向けられる疑いの眼。絶対にそんなことにはならないって、ちゃんと言えなかった。だから、そんな目をされても仕方がないんだけど。
拓真くんはグッと奥歯を噛み締めてるように見える。それから息を少し吐き出してた。
「じゃあ、明日……朝の九時までにミジュが帰ってこなきゃ、俺は一人で電車に乗っから」
明日は私の車で、一緒に行く予定だった。
もちろん、私は今も一緒に行くつもりでいるよ。
でもそれを、声に出しては知らせられずに。
ただそれ以上なにも言わずに去っていく拓真くんを見送った。
玄関の扉の閉まる音が聞こえた時、晴臣くんがうっすらと目を開ける。もしかして、ずっと聞いてたのかな、今の会話。
「大丈夫? 晴臣くん」
「冷蔵庫に、スポーツドリンク……」
「持ってくるよ」
冷蔵庫のスポーツドリンクをコップに入れ替えて、晴臣くんに飲ませてあげる。まだまだ、熱は高いなぁ……。
飲み終わって空になったコップを受け取って、ナイトテーブルの上に置いた。
「タクマ……ちょっと怒ってたっすね」
「やっぱり、起きてたの?」
「知ってたんすか?」
「だって晴臣くんは、少しの物音ですぐ目を覚ますから」
晴臣くんは、ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をして笑った。
わかってるよ。私に帰ってほしくなかったんだよね。
「大丈夫だよ。今日はずっと一緒にいてあげるから。ほら、ちゃんと寝て」
「ん……」
私の言うことを素直に聞いて、布団の中に潜り込む。それを確認してからアイスパックを交換して、そっと晴臣くんの頭を撫でた。
目を少し開けて私の顔を確認した晴臣くんに、看護師の微笑みを見せてあげると、安心したのかもう一度寝入ったみたい。
かわいい寝顔だなぁ。ずっと見ていたいくらい。
今日だけじゃなく、明日も、明後日も、ずっと。ずっと、見ていたかったな……。
その晴臣くんの眠りに誘われるように、私の頭はゆらゆら揺れる。そしてうつらうつらと眠りに落ちた。
気づくと、カーテンから朝の光が差し込んでる。
夜中に何度かアイスパックを交換したり、晴臣くんをトイレに連れて行ったりはしたけど、結構寝られた方だと思う。
そっと晴臣くんの額に手を置くも、まだ熱は治ってないみたい。
「あ……ミジュさん」
「おはよ、晴臣くん」
「お誕生日おめでとうございます」
朝の第一声が、朝の挨拶より先にそれだった。
私は今日で二十六歳になったんだなぁ。まだ十九歳の晴臣くんを見てると、本当に若いなと感じちゃう。
「体調はどう?」
「まだしんどいっす」
「そう……」
私はチラッとベッドの時計を見る。午前の八時を時計は知らせていた。八時半までにはここを出て用意をしないと、まずいよね。
「なにか食べられそう?」
「食いたくないっすね……」
「そう。食べたくない時は無理しなくていいよ。消化活動のせいで免疫細胞が増えるのを阻害しちゃうから、食べない方が治りは早いんだ。水分はちゃんと取って、食べたくなってから食べるのが一番いいからね」
「わかったっす」
でも、今からどうしよう? やっぱり、速水皓月に電話して、ご両親に迎えにきてもらうのが一番いいかな。
こんな状態のまま、置いていけないもんね。私も時間がなくなってきたし、さすがに送っていったり病院に連れていったりまではできない。
「ねぇ晴臣くん。ご両親に連絡して、迎えにきてもらって……いい?」
そう確認すると、晴臣くんの手は私を求める。私はそれに応えるように、そっと手を差し出してベッドサイドに跪いた。
「俺、今日はミジュさんのために、色々考えてたのになぁ……」
手と手が優しく触れ合うと、ゆっくりと絡ませられてしまう。
「……好きっす」
晴臣くんのその一言に、すべてが凝縮されているようで。胸が、詰まる。
「今日は、ゆっくり眠ってて……」
「今ミジュさんを離したら、もうこんな日は、来ないんすよね……」
呟くように、晴臣くんは言った。
絶対ではないけど。晴臣くんの言う通りになるかもしれない。
選ぶのはミジュだからと言ってくれた拓真くんの気持ちが、今ならわかるような気がして。
自惚れじゃなければ、母親の池畑さんのためでも、妹のリナちゃんのためでもなく、拓真くんは自分のために私を待ってる。
そして私が拓真くんの元に行ってしまえば……晴臣くんとのこんな時間は、もう二度と訪れない。
そんな予感がした。
晴臣くんの顔が、悲しく歪んでる。ぎゅっと強く握られる手が、その想いの深さを表しているようで。私も心臓を押さえつけられたかのように、苦しくなってしまう。
「俺、今日、こんなだけど……そばにいてほしいっす。ミジュさんの誕生日は、ずっとそばにいたいんです」
「晴臣くん……」
気持ちは、痛いくらいに嬉しいよ……。でも……でも……。
「タクマんとこに……行かないでください。俺のそばに、いてください……っ」
「……私……っ」
「大事に、しますから……絶対に、俺の方がミジュさんを好きだから……」
そんなこと言われたら……ダメ、泣けてきちゃうよ……。
もう片方の手で引き寄せられて、私の耳は晴臣くん胸の上へ移動させられた。
ドクドク、ドクドク。昨日よりも早い鼓動が、鼓膜を伝って脳に響いてくる。
「好きっす……」
何度聞いただろう、その言葉。
告白って、すごく勇気がいるよね。多分、慣れることなんてない。
答えのわからない問いは、不安で、怖くて、常に怯えと共にある。
なのに晴臣くんは何度も、何度もその言葉を紡いでくれた。私のために、何度も。
「好きっす」
私だって……好き、なのに。
その言葉は、絶対に言っちゃいけないんだ。私が、拓真くんを選ぶ限りは……。
ごめん……ごめんね……。
「晴臣くん……私、行かなきゃ……」
頭を上げながら言うと、晴臣くんの顔が目に飛び込んでくる。
晴臣くんの目からは……涙が、溢れ出てた。
苦しそうな顔は、熱があるってだけじゃ……ない。
「ごめ……ごめんね……」
こんな顔をさせてしまったのは、間違いなく私のせいだ。
こんなにつらい思いをさせてしまったのは、私のせい。
「好きっす」
まだ、愛の言葉を囁いてくれる晴臣くん。
私にはもう、どうすることもできないのに……
「ごめんね……」
「好きっす」
「ごめん……っ」
「……好きっす」
「ごめんね、晴臣くん……っ!」
私は耐え切れずに、晴臣くんの胸の中へ崩れ落ちた。
涙が、次から次に溢れてきて止まらない。
年甲斐もなく、わああっと声を上げて泣いてしまう。私なんかが、泣いていい立場じゃないのに。
それでも……それでも、涙は泉のように湧き出てくる。
私も一緒にいたかったって……それすら、伝えることはしちゃいけない。
言いたいのに。聞いてほしいのに。
伝え、られないんだ──
「晴臣くん……晴臣くん──」
「ミジュさん……」
泣きじゃくる私を、晴臣くんは強く抱き締めてくれる。
「もう……無理なんすね……」
「…………うん」
しゃくりあげながら答えると、晴臣くんはそっと解放してくれた。
その目にはもう、涙はなくて。
苦しそうな笑みだけが、顔に貼り付けられていて。
「時間、間に合わなくなるっすよ」
時刻はもう八時四十分を過ぎようとしてた。ここから家までは、歩いて十五分も掛からないけど。でも、流石にもう行かなきゃ。
私はベッドから立ち上がった。
じゃあねも、バイバイも、行ってきますも言えなくて。
なんて言ったらいいかわからずに、無言で寝室を後にする。
その瞬間、猛烈な後悔が襲ってきた。
自分の素直な気持ちを伝えずに、謝ることしかできなかった。
伝えたいこと、たくさんあったのに。
晴臣くんに対する感情が、こんなに溢れて出てるのに。
私、このまま帰っちゃっていいの?
でも、また晴臣くんを傷つけるために戻れるの?
私の足は前にも後ろにも動かせず、膠着状態になった。
拓真くんの元に行きたい。
晴臣くんを置いてはいけない。
葛藤が私の中で渦巻く。それに耐えるように立っていると、寝室の方から声が聞こえた。
……晴臣くんの、嗚咽。地獄の底よりも、もっと深いところに叩き落とされたような……そんな声。
ダメだ、こんなの聞いちゃったら、私……っ!
私の足は、勝手に今来た廊下を戻ってしまう。そして、締めたばかりの扉をそっと開いた。
ベッドの上に座った晴臣くんは私に背を向けていて、顔は見えない。
「晴臣くん……」
もう一度、晴臣くんに近寄る。どうして戻ってきちゃったんだろう。
また、晴臣くんを苦しめるだけだってわかっていながら。
「晴臣くん……!」
二度目の呼び掛けで、ようやく晴臣くんはこっちを向いてくれた。
その頰を、涙でグショグショに濡らして。
「なんで戻ってきたんですか……これ以上、期待させられると……つらいっす」
そう……だよね。わかってたのに。
でもあのまま別れてしまうのは、嫌だった。戻ってきたのは、ただの私のわがまま。
「私……晴臣くんと一緒にいられた時間は、宝物だったよ。すごく楽しくて、ドキドキして、幸せだった」
私の言葉を聞いて、フラつきながらベッドを下りる晴臣くん。私は思わず駆け寄って、その体を支える。
見上げると、すごく近い場所で視点が交わった。
「俺も、ミジュさんがそばにいて笑ってくれるだけで、すげー幸せだったっす」
一瞬だけ笑顔になった晴臣くんは、すぐに泣きべそ顔に戻って。
「でも、あいつのところに行くんですよね……」
胸に痛みを負いながら頷くと、晴臣くんはギュッと私を抱き締めた。
「これで、最後にしますから……」
ボタボタと落ちてくる涙が、私の肩を濡らしていく。
これで最後。
本当の最後だ。
「好きになってくれて、ありがとう……。晴臣くんの気持ち、本当に、本当に嬉しかった……っ」
「……っ」
晴臣くんの喉から漏れ出る、苦しそうな泣き声。
すごく残酷なことをして、ごめん……
でも、どうしても伝えたかった。好きになってくれて、嬉しかった気持ちを。
お互いに抱き締め合うと離れ難くなって。
それでも時間は容赦なく迫ってきて。
私たちは、ゆっくりと体を離した。
「急がないと、間に合わないっすよ……」
涙だらけの顔で、晴臣くんが疲れたような笑みを見せてくれる。
「うん……じゃあ……行くね」
「もし次に戻ってきたら、抱き締めて、キスして、もう離さないっすからね」
今度は、いつもの笑顔で。
冗談とも本気とも取れない台詞で、私を送り出してくれる。
「また、お盆明けにバレーでね」
「……そうっすね!」
その、強がりの笑顔を背にして、私は走った。
もう、振り返っちゃいけなかったから。
拓真くんの元に、行かなきゃいけなかったから。
私は後ろ髪を断ち切るような気持ちで、拓真くんの待つアパートへと急ぐ。
スマホで時間を確認すると、九時まで残り五分しかなかった。私なんかのスピードじゃ、全力で走っても多分間に合わない。
思った通り、アパートの前に着いた時には九時を三分も過ぎてた。
もう駅の方に行っちゃったかもしれないと思いながら、階段を上がる。
そこに、拓真くんは……いた。
私の部屋の、扉を背にして。
ぼうっと空を眺めながら、そこに立ってた。
「はぁ、はぁ……拓真くん……」
「ミジュ……」
「間に、合った……?」
「遅刻だよ。俺今、放心状態だった」
切れた息を整えながら、微笑みかける。
よかった。まだ拓真くんが行ってなくて。
「もっと、早く来てくれよな。心臓に悪ぃ」
「ごめんね……」
「来てくれた……ってことでいいんだよな?」
「……うん」
一瞬、晴臣くんの顔がよぎった。ごめんねと心の中で頭を下げる。
「晴臣のことは、もういいのか」
「……うん」
「断って、きたんだな」
自分の顔が、ふにゃっと歪むのがわかった。
断っちゃったんだ、私。
晴臣くんを傷付けて傷付けて、拓真くんのところへ行くって。
あんなにいい子を大泣きさせて。
あんなに素敵な人を。あんなに優しい人を。
拓真くんが眉を八の字に下げて、私を見てる。
「好きだったんだろ。晴臣のこと」
「……〜〜うんっ」
拓真くんに指摘されて、涙の堰が決壊した。
誰かに、この気持ちを聞いてほしかった。知っていてほしかった。
晴臣くんには決して伝えられなかった、この気持ちを。
アパートの前で大泣きを始めた私を、拓真くんは優しく包んでくれる。
「……ごめんな」
拓真くんのその言葉は、誰に向けられたものだったのか……。
私の涙が落ち着くまで、拓真くんは背中をさすってくれた。




