ホワイトデー:2.ケーキとクッキーの差
3月。春休み真っ只中の某日。
僕は柿原に呼び出されて喫茶店にいた。
「で。準備したか?」
「何が?」
出てきたコーヒーに手をつけるより先に投げられた問いを打ち返す。
柿原は「まあ、色々あるけどさ」とカップに口をつけ、「熱っ」と舌を出した。
「いやお前。今日が何の日か忘れたわけじゃねえだろ?」
「誕生日だっけ?」
春の生まれだったと聞いたことがあるような気もするな、と考えていると「違う」ときっぱり否定された。
「……主語ははっきり言おうよ」
「言わないと分からない鈍さ。さすが須藤」
「何がさすがなのか全然分からない」
褒められてないってことは分かるけど。と、紅茶をポットからカップへと注いでいると、柿原は携帯の待ち受け画面をこちらに向けた。
デフォルト画像に入ってるような幾何学模様の壁紙には、白い文字で日付と時刻が表示されている。
「はい読め」
「……14時38分」
「そこじゃない」
「3月14日」
「何の日だ?」
「何の日、って……――あ」
「やっと気付いたか」
僕の言葉に柿原がため息をついた。
ホワイトデー。
それはバレンタインの返礼をする日だ。
「やばい。忘れてた……」
思わず顔を覆う。きれいさっぱり忘れてるとか、抜けてるにもほどがある。
例年ならもらうこともほとんどないし、春休みだから返礼を送ることも滅多にない。
けれども今年は訳が違う。
僕は、返礼をしないといけない。
そんな僕を見た柿原は「だと思ったよ」と呆れたようにコーヒーをすする。
なんだか視線が痛いけど、今は甘んじて受け入れる。
「バレンタインに手作りケーキもらっといて忘れてるとか、それじゃあモテないぞ?」
「別にそれはいい……」
「まあ、年の差とか寿命の差があるもんな」
「そういう問題じゃなくて……っていうかそうじゃなくて」
脱線しかけた話を元に戻す。
ホワイトデーだ。バレンタインのお返しを渡す日だ。
よくよく考えれば街中もそんな風に飾ってあるのに、すっかり忘れていた。
言い訳はしない。忘れてたのは事実だし。
「ホワイトデーだよ」
「そう。ホワイトデーだ」
と、いうわけで。と柿原は小さな包みを僕に渡してきた。
「僕、君に何もあげてないけど」
「馬鹿。しきちゃんにだよ」
「だろうね。渡しとく」
包みを受け取ると、「ココアクッキー美味かったって伝えといて」と言伝も追加された。
わかった、と頷きながらどうしたものかと考える。
「んー。お礼。お礼……お菓子かなあ」
とはいえ、もう当日だ。プレゼントにちょうどいいお菓子なんてパッと見つかる気がしない。
ケーキとかでもいいんだろうけど。それだとなんか釣り合わないというか、僕の気が済まないというか。
何かいいものないかなあ、と考える。
「洋服。も、違うな。アクセサリー……でもないな」
しきちゃんが着飾っているところを見たことがない。まあ、外見年齢的にアクセサリーは難しい気もする。
洋服も時々買ってるけど、シンプルなものを好む傾向にあるし、そういうのは本人と選んだ方が確実だ。
「どんなのがいいと思う?」
「好きそうなものなら何でもいいと思うけど」
「うーん……」
好きそうなものかあ、と色々思い返すけど、しきちゃんはあまり好き嫌いがない。
いや、僕が気付いていないだけで実はあるのかもしれない。参考にならない己の観察眼にがっかりする。
「趣味とかないの?」
「趣味だと、料理かな」
家でのしきちゃんを考えると、真っ先に思いつくのは台所に立つ姿だ。
そういえば料理番組をよく見ているし、レシピノートも作っている。
「新しい鍋」
「そういうのは必要経費だろ」
「だよねえ……――あ」
思いついた。これならきっと彼女も喜んでくれるに違いない。
「お。決まったか」
同時にフォークを皿に置く音がした。
悩んでる間に食べていたケーキもなくなったらしい。
僕も紅茶の残りを片付けながら頷く。
「柿原。この後時間ある?」
「ん? あるけど」
「ここ奢るからもう少し付き合って」
彼からの返事は「言うと思った」だった。
□ ■ □
買い物を終えると、あたりはすっかり薄暗くなっていた。
「うちで夕飯食べてく?」
「いや、帰る。さっさと帰ってそれ渡せよ」
ため息交じりに柿原が視線で示すのは、僕がしきちゃんへのお礼として買ったものだ。
「大体、そんな場に部外者が居ても仕方ないし」
「それもそうだね。じゃあ、ご飯はまた今度で」
「うん。――あ。そうだ。須藤」
「ん?」
踵を返しかけた柿原は、ポケットに手を突っ込んで口を開いた。
「ココアクッキーとチョコレートケーキ。身近さってのもあるだろうけど。この差はでかいぞ」
「……?」
クッキーとケーキの差。
日持ちするかどうかじゃないかと思ってたんだけれど、柿原の中ではどうやら違う解釈らしい。
傾げた僕の首に、彼は少しだけ呆れたように見遣る。
「感謝の気持ちだった、って言ってたけどな。だったらお前もクッキーで良かったんだと俺は思うよ」
「まあ、そうかも」
頷くと、柿原は満足げな顔をした。
「なのに、しきちゃんはお前のためにケーキを用意した。つまりお前は、その手間をかける価値がある相手だってことだ。通常の感謝じゃ足りない、上乗せされた何かがある。それが特別な感情じゃないって言い切れるか?」
「上乗せ……」
「だから、素直に喜べ。もう少し自信持て」
「う。うん」
柿原の言葉を飲み込めないながらも頷くと、言いたいことを言い切ったのか、彼は「それじゃあな」と言い残して今度こそ帰っていった。
残された僕もとりあえず帰路につく。
道ゆく人たちの間を縫って。白い息を吐きながら、考える。
しきちゃんは感謝の気持ちだと言った。
そこに嘘はないだろう。
けど、それ以上の何かがあるのかもしれない。
それは。それはもしかしたら――。
いや、何を期待してるんだ僕は。
首を横に振る。大きく息をついて空を仰ぐ。
暗くなった空は街明かりで照らされている。白い息が消えていく。
僕は彼女にどんな気持ちを抱いているんだろう。
信頼? 親愛? 仲間意識?
手当たり次第に単語を並べたところで決められないし、問いかけてみたところで答えがそこにあるわけじゃない。
返事があったらそれは僕じゃないので無視するに限る。
まったく厄介だよなあ、と思うと溜息が出た。
まあいいや、と視線を戻す。
今の僕がやるべきことは。
きちんと家に帰ってこれをしきちゃんに渡す。
改めてお礼を言って。これからもよろしくと伝える。
それだけだ。
□ ■ □
先日、お兄さんから本をいただきました。
たくさんのお菓子の写真と、その作り方が載っている、素敵な本です。
「ただいま。しきちゃん、これ」
帰って来たお兄さんを出迎えた時に差し出されたのは、水色のリボンがかかった白い袋でした。
最初、ボクはどうしてこれを渡されたのか分かりませんでした。
開けてみて、と言われるがままに袋をあけると、分厚い表紙の綺麗な本がそこにありました。
「あ、あの。これは……?」
「うん。君に。バレンタインのお返し」
気にってもらえるといいんだけど、と微笑むお兄さんに言われて初めて、そういう日なのだと気付きました。
お返しだなんて、考えていませんでした。
ボクはあの日、ケーキという形でお兄さんに感謝の気持ちを伝えられた。
お兄さんはそれを嬉しそうに受け取ってくれた。
それだけで十分だったのです。
なのに。
お兄さんは僕に、本をくれました。
それがとても嬉しくて。言葉がうまく出てこなくて。
お礼を言わなくちゃいけないのに、どうしたらいいか分からなくなって。
なんだか気持ちがふわふわしてきて。
本を袋ごと抱きしめて「本当に、いいのですか?」なんて、お兄さんを見上げることしかできません。
そんなボクを見て、お兄さんはボクが困ってると思ったのでしょう。
「うん。もちろんだよ」
目の高さを合わせてそう言って、にこりと笑いながら頭を撫でてくれました。
「しきちゃんが僕にケーキをくれたのと同じだよ。僕からの感謝の気持ちだと思って」
「はい……ありがとう、ございます」
「うん。しきちゃん、これからもよろしくね」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします……!」
うん、と笑うお兄さんの手が頭を離れ、一瞬だけ頬に触れました。
いつもよりひんやりしているように感じたのは、ボクの頬が熱くなっていたからか、寒い外から帰ってきたばかりだったからか。
どちらかはわかりませんでした。
ホワイトデーを忘れるとか迂闊にもほどがある。カレンダー見ようカレンダー。