「面白い作品は、誰にとっても面白い」という考えは、選民思想を生む
「面白い作品は評価される」という言葉は、決して間違ってはいないが、誤解を招きやすい言葉だと思う。
何故か。
世の中の多くの人が、「面白い作品は、誰が読んでも面白い」という幻想を抱いているからだ。
これが間違いであることは、小学生が教科書に載っている純文学作品を面白いと感じるかどうか、男の子が少女漫画を面白いと感じるかどうか、老人が若者向けのライトノベルを面白いと感じるかどうか、などを想像してみればわかるだろう。
(純文学作品を面白いと思う子供や、少女漫画を面白いと思う男の子が存在しない、という話をしたいわけでないことは、分かってもらえると思う)
もちろん、老若男女あらゆる層をターゲットとした作品が、存在しないわけではない。
ただそれは、「そういう作品も存在する」というだけの話で、世の中のあらゆる作品がそうしたものであるわけではないということは、念頭に置いておかなければならない。
そして、そういった「何を面白いと感じるか」は、同じ年齢、同じ性別であっても、人それぞれで当然に差が出てくる。
誰かにとって面白い作品が、別の誰かにとっても常に面白いとは、限らないのである。
「面白い作品は誰にとっても面白い」という認識をこじらせると、自分が面白いと思う作品を「つまらない」と言う人を見ると、「こいつには作品を見る目がない」などと考えてしまう。
また、自分がつまらないと思う作品を「面白い」と言う人を見ても、同様の反応になる。
こうした考えは、選民主義を招く。
純文学や芸術作品を賛美する批評家が、ライトノベルや漫画を「低俗だ」と罵り、そうした作品を楽しむ読者を「人として程度が低い」などと蔑むのと同種の、選民主義である。
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