私の可愛い旦那様
窓から差し込む朝の光に照らされた、廊下にて。
爽やかな朝には似つかわしくない険しい表情をした旦那様が、自室兼研究室の扉を背に腕を組んで立ちはだかっている。
気の弱い人や小さな子供が目撃したら、驚いて泣いちゃうかもしれない。
眉間にくっきりと刻まれた皺はいかにも気難しげで、下がった口角はとても機嫌が良い人のものには見えないから。
努めて平静を装った私は、にっこりと笑ってその、いかにも不機嫌そうな旦那様に声をかける。
「おはようございます、旦那様」
どうってことのない、朝のご挨拶。
旦那様からの返事は無く、一瞬こちらを見たかと思えば、フンと鼻を鳴らしてさっさと自室に引っ込んでしまった。
ばたんと乱暴に扉が閉まるのを確認した私は、ふうっと長い息を吐いて何事も無かったように台所へと向かう。
気を抜けば駆け出してしまいそうになるのを抑えて、ゆっくりゆっくり、いつもと同じ間隔で足音を響かせる。
けれど廊下を曲がったところでとうとう我慢が出来なくなって、駆け足で台所に走りこんですうっと大きく息を吸って、そうして。
「……ふふ、うふふふふふ、あははははっ!」
身体の中にぐるぐると渦巻いていた笑い声を、一気に吐き出すと、気が済むまで笑い転げた。
可笑しな女だと思われそうだけど、念のため主張しておくと、旦那様の冷たい態度に傷ついて自棄になった訳でもないし、勿論、皮肉でも自嘲でもない。
ただただ、楽しくて面白くて仕方がなくって、笑わずにはいられないのだ。
確かに、客観的に見れば旦那様の態度は酷いものだと思う。
旦那様は紛れもなく私の旦那様、結婚相手であり、使用人の居ないこの家には私と旦那様しか住んでいない。
同じ屋根の下に住む相手に、あんな素っ気無い態度を取られれば腹の一つも立てても許されるだろう。
あくまで、客観的に見るならば。
けれど、主観的に見るならば。
私の旦那様は、大層可愛い人なのだ。
毎朝毎朝、旦那様は私が部屋を出る頃合を見計らって、引き篭もっている自室兼研究室から廊下へと顔を出す。
私に何か私に文句を言うためでもなく、不満を言うでもない。
目的は、ただ一つ。
私が口にする、おはようございます、のたった一言を聞くために、ああしてわざわざ部屋から顔を出す。
私がなかなか部屋から出て行かないと眉間に刻まれる皺の数は増え、唇はますますむすりと不機嫌に歪んでゆく。あまりに遅いと、自室兼研究室の前を落ち着かない様子でぐるぐると回り始める。
なのにどれほど時間をかけようとけっして私の部屋には近づこうとしない。じっと部屋の前で、私が出てくるのを待ち続けている。
おそらくは、きっと。
私に会いたいがために。
そんな事情を知っていれば、素っ気無い態度は全く気にならないどころか、照れ隠しにしか見えなくって、毎朝毎朝不器用に立ちはだかる姿が面白くて可愛くって、ついつい笑いがこみ上げてしまう。
とても不器用で偏屈で可愛らしい、私の旦那様。
一瞬見えた耳がほんのり赤く染まっていたことを思い出して、くふふと笑いながら朝食作りに取り掛かる。
私と旦那様は、一緒に食事を摂らない。
魔術師である旦那様は、基本的に一日中自室兼研究室に籠もって研究をしていて、食事から睡眠まで何もかも全て部屋の中で済ませてしまう。
旦那様が食べるものも私の作ったものではなく、定期的に家に届けられる魔術師のための総合栄養食。必要な栄養がぎゅっと詰まったそれは、味はよくないものの簡単に食べられて便利だと、研究に没頭しがちな魔術師の方々に好評らしい。
だから私が作るのは、私が食べる分だけでいいんだけど。
塩で味をつけて炒めた鳥の肉は、一人分には多すぎる量。そのうち半分を皿に取り分けて、冷ましてる間に簡単にささっと朝食を食べてしまう。パンに昨日の夜の残りのスープ、炒めた肉に少量の野菜。料理と胸を張って言えるようなものではないけれど、これでも以前に比べたら随分と上達した。ぐずぐずに具が溶けたスープなんて、見た目は悪いけど味は今までで一番の出来かもしれない。鳥の肉は素材が良いおかげか、塩だけでも十分に美味しさが引き立っている。
これなら、大丈夫そう。
朝食という名の味見を終えた私は、冷ましておいた肉を野菜と一緒にパンに挟んで、皿に並べてゆく。
元々は自分の昼食用にとたまに作っていたそれが、ここ最近、気づけばいつの間にか無くなる事件が頻発している。
この家に暮らすのは、私と旦那様の二人だけで、私は食べてはいない。つまり犯人は一人しか居ない。
さてさて、今日は事件は起こるかしら。
初めのうちは、せっかく作った昼食が無くなってしまったことにがっかりして少々腹も立てていたけど、今じゃそっくりそのまま残ってる方がよほどがっかりしてしまう。
本当は一緒に食べませんかと誘いたいところだけど、私の旦那様は少々偏屈で難しい、とても可愛らしい人なので、素直に受け入れてはくれない。
一度誘って断られて以来、旦那様は私の気配がある時はけして台所に近づいて来ない。まだまだ旦那様の性質をきちんと理解していない頃で、ちょっぴり先走って失敗してしまった。
だから手早く食器を洗ったあとは、速やかに台所から離脱する。
お昼にはもう一度、食事を作る手間が増えることを期待して。
旦那様は一日中研究室に引き篭もり。食事も別々で、寝室も別。
これだけ並べればわざわざ説明しなくても分かりそうなものだけど、お察しの通り。
私と旦那様は好きあって結婚した訳ではない。
かといって政略結婚とも言いがたいし。一番しっくりくるのは、契約結婚だろうか。
国に仕える優秀な魔術師である旦那様の下には、日々いろんな方面から嫁入りの打診が舞い込んでいたらしい。
だけど魔術の研究以外に興味のない旦那様はそんな申し出は綺麗さっぱり無視してて、面倒だから結婚する気なんてさっぱり無かった。
それがなぜだか私と結婚するに至ったのは、大胆にも既成事実を作るべく積極的に動いたお嬢さんが出てきたせい。
家は防犯用の魔術が仕掛けられていて、許可した人間以外は中に入れないから安全だけど、外に出るとそうもいかない。
基本的には出仕せず家でひたすら研究に没頭する事を許されている旦那様だけれど、週に一度は王立研究所に出向いて進捗状況を報告しなきゃいけないのだ。優秀な魔術師の妻の座を狙うお嬢さん方は、そこを挙って狙った模様。
結果。
研究用の試料をいくつか駄目にされて、旦那様大激怒。
そうして、よし分かった結婚してやる! と大々的に宣言してお嬢さん方を一瞬沸かせたのち、選ばれたのが旦那様との結婚なんて望んでなかったどころか、旦那様の存在すらろくに知らなかった私。
もしかして自分が選ばれるかも、と期待してたお嬢さん方は大層落胆し、選ばれた私の素性を知ると非常にお怒りになった。
だって私、貴族向けの高級娼館で働く娼婦だったから。
旦那様の主張によれば、余計な係累がくっついてなくって、貴族向けということでそれなりの教養や礼儀作法を叩き込まれてる高級娼館の娼婦は、妻に迎えるのに丁度良かったので私を選んだってことだけど、ほんとのとこは嫌がらせが主な理由だと思う。
なぜならば。
基本的に人付き合いなんてどうでもいいと思ってる旦那様が、私を同僚の方々に紹介した上、結婚を申し込んできた中で一番美しく賢く気配りの出来る女を選んだ、と豪語してみせたから。
ちなみに旦那様はうちの娼館に来たのは私を買いに来た時が始めてで、私を選んだのも旦那様ではなく娼館の主人だったし、お買い上げ後結婚の届けを出してすぐ研究所へと連れて行かれたので、私がどんな人間かなんて旦那様が知ろう筈も無い。
それなのに、滅多に人を褒めない旦那様が、わざわざそんな行動に出たのは私に一目ぼれしたからなんて可愛らしい理由ではけしてなく。
旦那様に結婚を申し込んできたお嬢さん方は、娼婦にも劣る、と。
そんな遠まわしな嫌味を投げつけるためだけに、旦那様は私を選んだのだ。
はっきりと説明された訳ではないけれど、その後のお嬢さん方の激怒っぷりからして、おそらく間違ってはないと思う。私にあまり好意的ではない研究所の一部の魔術師様からも、似たような事言われたし。
おかげさまで、旦那様と一緒に暮らし始めた当初は大変だった。
私宛に物騒な贈り物が毎日のように届けられるし、外に出ようもんなら必ず何かしら危ない目に遭うし、ひそひそとこれみよがしな噂話の的にされるし。
旦那様は全く頼れなかった。
さんざん連れまわして褒め殺してたっぷりと毒を振りまいたあとは、もう用済みとばかりに放置。一応家には置いてもらえたけれど、干渉せず研究の邪魔をしなければ好きにしていい、と言い捨てて数枚の金貨を置いて自室兼研究室に引っ込んだあとは、何の説明もしてはくれないまま。
使用人の一人くらいいるかと思ったけれどいないし、どこもかしこも埃を被っていて使われている形跡がないし、どこの部屋を使ったらいいのかとか、食事はどうすればいいのかとか、何もかも分からないまま放っておかれて、途方にくれた。
私は十にもならない頃に借金のかたに娼館に売られて以来、娼婦として生きる術だけを教えられ、十年近く娼婦として生きてきた。つまり言い換えれば、娼婦以外の生き方ってものが全く分からず、食事の作り方なんて遠い記憶の底に残ってるうすらぼんやりした頼りないものしか参考にならない。
そんな状態の私を放置する旦那様って、なかなか鬼畜というか、本当に私なんてどうでも良かったんだろうなっていうか。
けれどあんまりに酷い放置っぷりのおかげで、罪悪感もなくあっさりと開き直ることが出来た。
好きにしていいって言われたとおり、好きにしてやることにしたのだ。
娼婦の時に培ったコネと伝を駆使して身の安全を図り、不幸な身の上話を餌に近所のおばさま方を味方につけて、家事を一から仕込んでもらう。研究所にも顔見知りを作って、旦那様が報告にあがる時についでにこちらからの要望を伝えてもらうようにも取り計らった。極力接触は取らないように気をつけてるけど、お金とか勝手にこちらが好きに出来ないものもあったし。
何もかも順調に、とは言えないものの、半年もすればそこそこ家事にも慣れて、街にもある程度溶け込めた、と思う。
一部のお嬢さんには目の敵にされたままだったけど、あからさまに身の危険を感じる事は無くなったし、外に出れば親しげに声をかけてくれる人も増えた。たまに娼婦だったことを揶揄するような言葉を投げつけられることはあるけれど、殆どの場合は誰かが諌めに入ってくれるので、居心地はそこまで悪く無い。
旦那様との関係には変化はなく、一日中部屋に引き篭もっている旦那様とはほとんど顔を合わせることもない状態。
元々好意を抱いてた訳でもないし、利用するだけ利用されて放置されてる感はあったものの、予想外に平穏な毎日を遅れているので悪意も抱いていない。
感謝はしてるけど、興味はない。
そんな感じだったので、まったく夫婦らしくない生活にも特に不満は無かった。
むしろこのまま、穏やかに日々が続いてゆけばいいとすら思っていた。
変化が訪れたのは、一年と少しが経過した頃。
きっかけが何だったのかは、さっぱりと分からない。
けれどある時を境に、家の中で旦那様の視線を感じる機会が増えた。
特に多いのは、庭に出て土いじりをしている時。
決まって旦那様の自室兼研究室の窓から、視線が向けられているのをひしひしと感じる。
旦那様は気づかれてないと思っているみたいだけど、視線って向けられれば案外と気づくものだ。特に私は元々の職業柄もあって、そういうものに敏感な性質だったから。
一体どうしたのかしら、なんて首をかしげるほど初心では無い。
それは十年近くの間、飽きるほどに向けられてきたものとよく似た色をしていたから。
そういえばあの人は旦那様だったのだっけ、と二人の間に横たわる事実を改めて思い出し、近々呼ばれるだろうと予想して心の準備は早々に済ませておいた。
このままずっと穏やかに暮らしていきたいと思っていたのに、そうもいかないらしいと少々落胆したものの、忌避感は特に無い。娼婦だった頃と同じだと思えば、大したことでもなかった。
大したことに思える心や可愛らしく恥らう気持ちは、十年の間に綺麗に洗い流されて消えてしまっていた。
ところが。
予想とは裏腹に、旦那様は私が想像したような行動に出ることは無かった。
私に気づかれないようにこっそりと見つめて、それで終わり。
こちらが拍子抜けするほど、何もしてこない。
何もない方が私としては都合がいいのだけれど、ただ見つめられるだけという状況になかなか慣れることが出来なくって、どうにも落ち着かなかった。
まあでも、干渉するなって言ったのはあちらだし。
向けられた視線はちくちく刺さるけれど、無視できないほどじゃない、と。
何かあるまでは気にしないことにしようと割り切った頃、再び転機が訪れる。
無関心で凪いだ私の心に一石を投じ小さな波を起こしたのは、言葉の通り、一つの小さな石ころだった。
ある日の朝、突如私の部屋の前に置かれた小さな石。
茶色でごつごつしていて、ざらついたどこにでもあるような石。
手のひらで握りこめるほどに小さいそれは、私の部屋の扉の前、ちょうど真ん中にぽつんと置かれていた。
前日、眠る前には無かったのは確実だ。
とても目立つ場所にあったし、廊下は毎日掃除しているから、いくら小さいとはいえ石があれば気がつかない訳が無い。
この家に暮らすのは、旦那様と私の二人だけ。だからつまり、その小さな石は私が寝ているうちに旦那様が置いたってことになるんだろうけれど。
その意味する事が分からなくて、私は首を捻った。
嫌がらせにしては些細すぎるし、旦那様からの視線に暗いものは感じない。それに嫌がらせのためだけに娼婦を妻にした旦那様のこと。もしも本当にそうなら、もっと心を抉るようなものが置かれるだろう。
かといって贈り物、とも思えなかった。だって庭に転がってそうな、どこにでもある変哲も無いただの小石だったから。
石を使った符丁や合図なんてあったかしら、と記憶を探ってみたけれど、そちらにも心当たりが無かった。娼婦と客の間では時に驚くようなものを使っての符丁や合図が流行っては廃れてが繰り返されていたものの、さすがに小石を使ったものは流行っていないと記憶している。
魔術的な何かである可能性もあったけど、そういう仕掛けには魔石を使うものだと聞いたことがある。ただの石と魔石の違いは、魔術師でなくとも見分けがつく。これは小石であって、魔石ではない。だからそれも、違う気がする。
どれだけ考えても答えは出ず、面倒になった私は一応小石を保管することにしたものの、そこに潜む思惑を探るのは諦めることにした。
理由が分かったのは、初めの小石が置かれてから一月と少し経って。
念のためと保管しておいた小石が、ちょうど五つになった時だった。
答えをくれたのは、研究所に所属する魔術師の奥様。
偏屈な人間が多い魔術師の中でも、とびっきり偏屈で気難しい旦那様は、研究所の人間から能力は認められても遠巻きにされているみたいだけど、その方と奥様は常々旦那様の事を気にかけてくれているみたいで、私の事も気にして度々家に招いてくれる。
その日もお招きに与って、奥様直々の手料理をご馳走になり、のんびりとお喋りに興じていた最中のこと。
ふと、小石の事を思い出して、奥様に尋ねてみた。直球ではなく、遠まわしに、ただの小石を使った魔術ってあるんでしょうかなんて興味を持ったふりをして。
そうしたら。
「あら、あらあらあらあら!」
きらきらと瞳を輝かせて嬉しそうに笑った奥様は、内緒よ、と前置きをして小石と旦那様にまつわる昔話をしてくれた。
優秀な魔術師である旦那様は、昔からとびきり優秀で、九つの時にはもう研究所に所属していたらしい。
けれどいくら優秀とはいえど、まだ幼い子供だった旦那様。
高すぎる自尊心と偏屈な態度は今と変わらなかったけれど、能力は今よりも磨かれていなかったため、失敗することも多々あったんだとか。
そこで素直に落ち込んでみせたり反省して周りを頼りでもすれば可愛げがあったものの、ふてぶてしく開き直り周りを省みない態度のせいで徐々に軋轢が生じていった。
旦那様本人は誰かに嫌味を言われようともフンと鼻で笑って全く気にも留めず、嫌がらせに研究の邪魔をされようものなら苛烈な仕返しをお見舞いして涼しい顔でいたみたいだけど、見かねてこっそりと手を貸したのが件の魔術師様だった。
旦那様を目の敵にする一部からそれとなく旦那様を庇い、手の届く範囲で旦那様の研究の手助けをしてくれた。
とはいえ、それはけして善意からのものでは無い。
将来有望すぎる旦那様への、先行投資。恩の一つでも売れれば幸い、なんて下心たっぷりで旦那様の味方に回っていただけ。むしろ庇っても感謝の言葉一つ口にしない旦那様に、内心では日々旦那様に投げかけられる嫌味と大差ない悪態をついていたらしい。
そんなとある日。
半ば惰性で旦那様に向けられた嫌味たっぷりの口撃の矛先を逸らし、研究に役に立ちそうな論文を幾つか見繕って渡した直後。
突然、旦那様から小さな石を渡されたという。私が貰ったのと同じ、どこにでもありそうなただの小さな石ころを。
『いつも頼んでもないのに余計な真似をしやがって。恩を売ったつもりなら大間違いだ! これで貸しは無しだからな!』
なあんて。
とても可愛げのない言葉と共に無理やり小石を押し付けられた魔術師様は、急すぎる贈り物に喜ぶことも怒ることも出来ず、ただただ呆然としてしまったという。
下心たっぷりとはいえ、力になった見返りを小石一つで清算しようとする暴挙に驚いて憤慨したからではない。
真っ赤になって怒鳴り、石ころを押し付けてきた旦那様が。
まだ声変わりもしていない子供だってことを、唐突に思い出してしまったから。
恩を売る機会を狙ってしょっちゅう旦那様の近くに居た魔術師様は、その石がどういうものか知っていた。
基本的に研究にしか興味のない旦那様が、唯一気にかける研究とは無関係なもの。
研究所の併設された中庭をふらりと散歩するついでに、いくつか拾って部屋に持ち帰るそれ。
その行動に気づいた時は新しい魔術の研究材料かと思ったけれど、どうにもそうではないらしい。
さりげなく用途を聞けば、旦那様は不機嫌な顔で言った。
『面白い形をしていると思っただけだ。使い途など無い』
事実、旦那様の研究にただの石ころが使われることはそれまでも、それからも一度も無かった。だから本当に、珍しく研究とは関係なく、興味を抱いて拾っているだけ。
石ころあつめなんてガキみたいだな、とその時の魔術師様は、胸の内で嘲笑っていたという。
けれど。
押し付けられた石ころを見つめて、魔術師様は忘れていた事実に気がついた。
ガキみたい、じゃなくって、正真正銘、旦那様はまだまだ小さな子供だってこと。
嫌になるくらい優秀で生意気で、大人とも対等に議論が出来るどころか粗をつついて言い負かす事だって珍しくないけれど、それでも。
その時の旦那様はまだ、幼さの残る子供だったのだ。
ありがとうくらい言えりゃあ可愛げがあるのに、と忌々しく思っていたけれど、よくよく考えてみれば言える訳がない。
感謝を口にすれば貸しだと恩を売られるし、謝罪を口にすればそれみたことかと嬉々として攻撃される。
幼い子供にそういうものだと教えたのは、魔術師様を含めた周りの大人たちだった。
そもそも旦那様に限らず魔術師というのは、ひどく自尊心が高い者が多い。滅多なことじゃ感謝を口にしないし、良かれと思って手を貸しても感謝どころか機嫌を損ねて罵られることだって少なくはない。貸し借りを作るのを好まず、感謝の代わりに研究の手伝いで済ませることなんて日常茶飯事だ。
無論全てがそんな殺伐としたものである訳ではなかった。冗談めいたやり取りだって少なくはなく、気心の知れた相手同士の建前の応酬だって多々あった。
けれど、小さな子供の目にはそれが如何様に映っただろうか。
真っ当に謝意を口に出来る人間も、言葉どおり受け入れられる人間も、研究所には数えるほどしかいない。
ありがとうくらい、と忌々しく思っていた魔術師様だって、もしも仮に旦那様が素直に口にしたら、すかさず貸しを押し付けただろう。それを口にしない旦那様を可愛くないと思っていたくせに、言われたところで素直に受け止める気なんてさらさら無かったのだ。
(ガキ相手に、何やってんだ俺は……)
渡された小石の表面からは、綺麗に土が取り除かれていた。きっと大事にしていたのだろうと簡単に想像がつくくらいには、丁寧に手をかけられた痕跡があった。
魔術師様の自惚れでなければ、それは感謝の言葉を取り上げられてしまった子供の、精一杯の感謝。
或いは謝罪の言葉を口にすることを許されない子供の、最大限の謝罪。
(そういやあいつ、いつも研究所にいるよなあ……)
旦那様がまだまだ子供だという事実を改めて認識すると、今まで気にしてなかったこともあれやこれやと気になってくる。
まだ出仕を免除されてはいなかった旦那様は、今とは逆に一日中研究所に入り浸りだったらしい。研究所所属の魔術師なんて大抵がそんなもので、家に帰らず研究室や仮眠所で眠る事なんてしょっちゅうだったから大して違和感を抱いてなかったけれど、よくよく考えればおかしい。そういえば保護者らしき人物を見た事は一度もないし、手続きが必要な時も旦那様が全て一人でこなしている。そういえば睡眠時間だって不規則で食事だって携帯食で済ませてしまう。
そういえば、そういえば。
大人の魔術師としては普通の行動であるけれど、旦那様が子供であることを考慮すると普通とは言えないことが山のようにあった。
今まで当然のように受け止めてきたけれど、少し記憶を探っただけでもとても子供に強いる環境ではない生活を旦那様が送っていた事実がぼろぼろと山のように見つかって、魔術師様は愕然とし、情けなくなったらしい。
自身のあまりの節穴っぷりと、恩を売ることしか考えていなかった浅ましさが。
情けなくて恥ずかしくて、泣きそうになってしまったという。
(どうしようもねえなあ……)
子供に恩を売りつけようとする大人。
言葉にすると一層情けなさが倍増する。
更に旦那様の周りには、子供に難癖をつけて揚げ足をとろうとする大人や、子供の手柄を横取りしようとする大人なんてものも存在する。本当にどうしようもないやつらしかいない。
そんな駄目な大人に囲まれて暮らす子供が、それでもどうにか謝意を示そうとして、贈ってくれた彼の大事なもの。
何の変哲もない小さな石ころだけど、野心と欲で曇った魔術師様の目を覚まさせるには十分すぎる力があった。
「それからね。あの人があの子を家に連れてくるようになったのは」
なかなか壮絶な旦那様の子供時代を語ってくれた奥様は、優しげな目をして旦那様をあの子と呼ぶ。
小石を貰った魔術師様は、本当に旦那様の力になることに決めたらしい。
旦那様を無理やり家に招いてはご飯を食べさせ、下手をすると年中無休で研究を続ける旦那様に強引に休暇をとらせて外に連れ出し、奥様と共に旦那様を可愛がった。
旦那様は始終不機嫌な顔で眉間に皺を寄せ、子供扱いをするとますます皺を深くしたけれど、差し出した手を無碍に振り払う事もしなかった。いかにも不本意だという表情のまま、魔術師様と奥様からの誘いについてくる。
偏屈な性格は生来からのものもあったか目に見えて変わることはなかったし、何を見ても何を食べても楽しい嬉しい美味しいなんて肯定的な言葉を口にすることはけしてなかったけれど。悪くない、というのが旦那様の最上級の褒め言葉だと気づいてからは、二人してますます旦那様を可愛がったという。
残念なことに旦那様が十四になると同時に、旦那様を良く思っていなかった研究所の上の一部の思惑により、魔術師様は研究所から追い出され、辺境の地へと飛ばされてしまった。
しかしその間も交流は絶えぬまま。とはいえ魔術師様と奥様が一方的に旦那様へと手紙を送り続けただけだけれど、年に一度、旦那様から二人に宛てて、小さな石が送られてきたという。二人はそれを一等楽しみにしていたんだとか。
これよ、とわざわざ奥様が取り出して見せてくれた小石は、私の部屋の前にあったものと同じ。
本当に何の変哲も無い、どこにでもあるただの小石ばかりだった。
魔術師様が再び研究所へと戻って来たのは、旦那様が着々と成果を挙げて出仕を免除されたのとほぼ同時期だったという。その少し前には、魔術師様を辺境へ飛ばした上の一部が不正を暴かれ研究所を追い出されていた。
旦那様は知らないとこれまた不機嫌な顔で言い張っているみたいけれど、魔術師様も奥様も旦那様が何かしたのだと確信している。
そんな二人だからこそ、旦那様と私の結婚についても、なんとなく裏を見透かしていて、現在進行形で頭を抱えている最中みたい。
過剰に私を気にかけてくれているのは、旦那様と私の生活がとても夫婦とは言えないものだと見抜いているからだろう。
「そりゃあね、捻くれてるし頑固だし口も悪いし、性格も良いとは言えないけどね。ええ、正直言って性格の悪さには昔より磨きがかかってる気もするわ。でも心底どうしようもない悪人ってわけじゃないのよ」
懐に入れた気安さか、褒めてるんだかけなしてるんだかよく分からない言葉で、旦那様の肩を持とうとする魔術師様の奥様。
毎回お呼ばれする度に聞かされて、半ばはいはいと聞き流していたそれは、その日に限ってはやけに大きく響いた気がした。
魔術師様の家から帰ってすぐ、自室に向かった私は保管しておいた石を取り出して、まじまじと見つめた。
奥様の話にあった通り、表面に土はついておらず、丁寧に手をかけられた跡がある。
聞いた話をそっくり信じるなら、これは旦那様からのありがとうかごめんなさいの合図ってこと。
礼を言われる心当たりは無いけれど、謝罪については幾つかある。
嫌がらせのために私を結婚相手に選んだこと、目的を終えたら何の説明もなく放置したこと、あたりが有力だろうか。
だけど私だって、旦那様とさほど変わらない。
好きにしろと言われたのを良いことに、会話もしない相手の家に住み着いて、都合のいい部分だけ旦那様の妻である立場を利用して日々暮らしている。料理も掃除も洗濯も、全部自分のためにしかしていなくって、妻らしい役目なんてちっとも果たしていないくせに、あんな扱いをされたのだから少しくらい構わないだろうと開き直って、働きに出ることもなく旦那様の稼いだお金を使って生活している。
旦那様がこちらに興味を持ったことに気づいてからも、知らぬふりで通して変わらぬ暮らしを続けようとしていた分、私の方がよっぽど悪辣かもしれない。
もう一度、貰った小石を眺める。
正直なところ、奥様の話で旦那様への認識が一変した、なんてことは全く無かった。
けれど耳の奥には奥様の言葉が残ったままで、知らなかったことにしようと思ってもどうしてか、取り出した小石をしまう気にはなれない。勿論、捨てて全部無かったことにする気にも。
しばらくぼんやりと石を見つめたあと、ふと思い立って旦那様の部屋に向かう。
扉の隙間から漏れた灯りに、中に旦那様が居ることを確認して、数度扉を叩いた。
そうして叩いてから、少しだけ後悔する。
なんとなく、来てはみたものの、いざ来てみれば旦那様に何と声をかけていいか分からない。
魔術師様の奥様は、旦那様は感謝の言葉も謝罪の言葉も、迂闊に口に出来ない環境で育ったと言っていたけれど、それは私も似たようなもの。
言葉自体は、毎日のように口にしていたけれど。
心にもない感謝で客の懐を緩ませ、薄っぺらい謝罪で面倒事を回避する、そのためだけのものでしか無かった。言質をとられて妙な約束を押し付けられないように、当たり障りのない瞬間を見計らって、相手の感情を計算に入れて、望むように動いてもらうために吐き出し続けた言葉。
そんなものに、小石一つに勝るだけの価値があるとはとても思えない。
私にとって都合が良かったのは、部屋の中でごそごそと動く気配はしたものの、どれだけ待っても扉が開く事が無かったこと。ざざざと紙の束が崩れる音がして、それだけで旦那様の慌てっぷりが伝わってきたせいで、少しだけ落ち着くことが出来たこと。
深呼吸をしてから、ゆっくりと口を開く。
何を言えば旦那様の印象が良くなるかは、分かっている。
偏屈な客も、性格の悪い客も、素直でない客も、数え切れないほど相手にしてきた。相手によってどういう言葉が喜ばれるかなんて経験則から判断がつくし、魔術師様の奥様から聞いた話も併せればどう振舞えば旦那様の心を揺らせるのかも、うっすらと想像がつく。
だから私は、何か思いついてしまう前に、口が動くのに任せることにした。
計算の混じらない、正直な気持ちが出てくれることを期待して。
「旦那様」
ごとん、と何かが落ちる音がして、続いて人が動く気配がする。
「正直に言いまして、連れてきて頂いた当初は困りました。私、家事出来ないので、どうやって暮らしていけば分からなかったから」
再び、何かが落ちる音。
大丈夫ですか、と口にしそうになったのを寸前で留めて、すっと大きく息を吸って吐き出して、余計な思惑を頭の中から追い出した。
「それに旦那様のせいで、周りの女性の視線が痛いし、変に褒められまくったせいで絶世の美女だなんて迷惑な噂が流れて、外も歩きにくかったですし」
口が動くに任せて飛び出た言葉は、何よりもまず私自身を納得させた。
今となってはどうにか暮らしてゆく事が出来るようになったし、好意を向けてくれる知り合いだって出来たけれど。
最初のうちは、本当に。本当に、大変だったのだ。
たまたま娼婦時代に懇意にしていた客に貴族や商人に顔の広い人が居たから、旦那様がたっぷりと振りまいた毒が凶器に形を変えて私に届く前に止めることが出来たけれど。そうじゃなかったら、下手をしたら早々に死んでたっておかしくは無かった。
旦那様に悪意は無かったのだろう。
ただ、興味が無かっただけだ。
興味が無いから死のうが生きようがどうでもよくって、だから一年近くの間放っておくことが出来たのだ。
「面倒な状況に放り込んだのは旦那様なのに。尻拭いは全部私に回ってきて、腹も立ちました」
おかげで好き勝手出来たのは本当。
娼館から連れ出してもらえた事について感謝してるのも本当だし、このままの生活を続けていければと願っていたのも本当。
だけど、旦那様からの視線を感じるようになってからも、気づかないふりをして、我関せずの態度を貫いたのは。
今までどおりを続けたかったのも本当だけど、きっと。
あまりにも無関心で過ぎた一年のことが、どこかで引っかかっていたから。
「でも、私。今、毎日が楽しいです。娼館に居た頃より、ずっと」
魔術師様の奥様から話を聞いて、やっと小石の意味が分かったけれど、それではいそうですかと流せるほどに私は出来た人間では無かったらしい。
改めて言葉にしてようやく、腹が立ってくることもある。
けれど悔しいことに、今が充実していることは本当で、旦那様がこちらに興味を持ち出したのも本当で、贈られた小石を捨てる事が出来ないのも本当で。
「私をあそこから連れ出してくれて、ありがとうございます、旦那様」
妻にしてくれてありがとう、と言えるほど、まだ私は旦那様に気を許してはいないらしい。けれどすうっと、自然に出た言葉はきっと、嘘じゃない。旦那様のご機嫌を窺うためじゃない、限りなく真実に近い私の正直な気持ち。
言いたいことを全て言い終えてすっきりとした私は、またがたんごとんと騒がしくなった部屋の中の様相に、くすくすと思わず笑い声を漏らしてしまった。
努めて無関心を貫いていたけれど、つかえていたものを吐き出してしまえば、旦那様の反応もなんだか大げさで可愛らしくて不器用で、面白く感じるから不思議だ。
とは言っても、すぐに気を許すほど簡単じゃありませんけどね。
なんて扉の向こうの旦那様に、胸の内で宣言をしてぺろりと舌を出して。
そんな自分の反応がまた馬鹿みたいで面白くって、ひとしきり笑ったあと、悠々と自室に戻った。
それから。
突然何もかも劇的に変化した、という訳ではなかった。
旦那様は相変わらず部屋に引き篭もっているので滅多に顔をあわせないし、じっと見つめるばかりでそれ以上の行動に出ては来ない。一緒に食事を摂ることもないし、会話らしい会話なんて成立した試しがない。私から旦那様に積極的に接触を図る事も無かった。
だけど、変わったものもある。
たとえばあれ以来。
扉の前に小さな石を見つけるたびに、きゅんと跳ねる私の心とか。
特別に用意した宝石箱の中、小石の数が増えるたび、旦那様が可愛く見えてきちゃう私の視界とか。
庭に出るたび感じる視線を意識して、ちょっぴり着飾るようになった私の服だとか。
主に私の胸の内が、大きな変化を遂げていた。
そんなに簡単な女じゃないわ、なんて格好をつけて一方的に宣言したくせに、私は殊の外簡単な女だったらしい。
娼婦だったころには高価な宝石やきらびやかな装飾品、花束に果ては下着の類まで、様々なものを贈られることに慣れていた筈なのに、今更石ころ一つ贈られたくらいで頬を染めるなんて、馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいそうになる。だけど今までもらった何より嬉しく感じてしまうのだから、始末が悪い。
一応これでも、元は高級娼館で働く娼婦だったのだ。
一番の売れっ子ではなかったけれどそれも十年近く、下の娼館に払い下げられることなく勤めてられたのだから、駆け引きはそれなりに得意な筈だった。
なのに旦那様には手管一つ通じやしない。使うまでに至らない、と言った方が正解かもしれない。
こちらから一歩踏み込むと、旦那様は二歩も三歩も下がってしまう。まるで人馴れしてない小動物みたいに、ぴゃっと逃げて隠れてしまう。
どうにかする手段が無い訳ではない。
強引に距離を縮めて、旦那様が慌ててる間にひん剥いて、文句を言われる前にあらん限りの手管を駆使すれば、いかにも色事に疎そうな旦那様のこと。簡単に堕とせそうな気がしないでもない。
だけど。
肝心の私に、それを実行する気がさっぱり無いからこの方法は使えない。
だってここは、娼館ではないし、旦那様は客ではなく、私の旦那様なのだ。
だから限られた時間で堕とす必要もないし、全て色事に結びつけなくったっていい。
そんな当たり前の事に気づく前は、少し焦って先走って失敗してしまったけれど、気づいてからはのんびりといくことにした。
旦那様は恋だの愛だのなんてものに非常に疎くって、私相手に初めてそういった興味を抱いている。個人的な希望も勿論入っているけれど、おそらく私の見立ては間違っていない。
そうして、実は、私も。
誰かの行動にこんなに気を向けたり、贈り物できゅんと胸を跳ねさせたり、眉間の皺が可愛くて仕方なく見えたりするのなんて。
何もかも全部、初めてのことだったりする。
だから本当は、そんなに余裕なんて無い。
旦那様にきゅんとときめく一方で、どきどきと煩いくらいに心臓が早くなって、かあっと頬が熱くなる。
毎朝旦那様のお顔が見れるようになってからは、その可愛らしさにじわりと胸が温かくなって、自分にそんな感情があったことが嬉しくって恥ずかしくって、何もかもが楽しくて面白くて、笑わずにはいられない。
娼婦だった頃には、考えられなかった。
特に幼い頃に売られて借金を背負って店に縛られた娼婦にとって、恋は害にしかならないもので。
恋をしたせいで心を壊してゆく女も、死を選ぶ女もあまりにも身近に多くあったから、自然と私は誰かを恋しく想うことを避けてきた。
恋をしたら終わり。客は全て金づるで、甘い言葉も優しい態度も高価な贈り物も、全ては身体を求めてのこと。勘違いして心を移したら、すぐに破滅がやってくる。
だから正真正銘、これが私の初恋ってことになる。なってしまう。
そんな可愛らしい言葉が似合う女ではないけれど。
じわりじわり、亀よりも遅い速さで歩み寄ってくる旦那様に付き合ってどきどきと胸をときめかせていると、まるで自分がまだ何も知らなかった少女の頃に戻ったような気になって。そんな心持ちにさせてくれる旦那様に、ますますときめいたりなんかしちゃって。
きっと、いつかの未来には。
私が娼婦だった過去が、暗い影を落とすかもしれない。
何事もなく全てがうまくいくなんて、楽観的に考えることは出来ないし、もしも旦那様が気にしなくても、私が気にしてしまう予感がある。
だけど、しばらくは。
このじれったいほどの、甘酸っぱい幸せに身を浸すことを許してほしい。
今日も庭に出れば、旦那様の部屋から視線を感じる。
気づかれないよう、こっそりと視線を向ければ、窓に手をかける旦那様の姿。
わくわくと膨れる期待を押さえつけて、素知らぬ顔でさあさあと花壇に水をやる。
全ての花壇に水をやり終えたあと、きい、と窓の開く音がして。
「……悪くは無かった。う、美味くもなかったが!」
早口でそれだけを言い捨てて、ぱたんと窓を閉めてしまった旦那様。
主語が無かったけれど、何の事かは分かる。私が作っておいた、昼食のこと。
悪くない、は旦那様にとっての最上級の褒め言葉。
緩んでしまった顔を見られないようにそっと俯いて、ふるふると肩を震わせる。
こんこんと湧き出そうになる笑いを噛み殺し、きゅんと跳ねた心臓を落ち着かせるべくすうはあと大きく深呼吸する。
ああ、本当に、まったくもう。
私の旦那様ったら、今日もとっても可愛らしくて困ります!