03.花岳愛日とロブ・スティール
わたしの目の前には一つのボタンがある。それは、歴史に名を残す偉人に再び功績を残してもらう可能性。それは、わたしの夢と恋をそのまま具現化した可能性。それは、『死者蘇生ボタン』と呼ばれている。
「『教育』と『伝承』とは、現代を生きる人間達とは切っても切れない関係だ」
研究室でキーボードを叩きながら、わたしは持論を口にする。
「わたし達が立ってる大地は球体。そこにある物が何故『下』に落ちないかと言えば、万有引力の法則が働いているから。今日び、小学生でも知っている絶対的な真実だ。常識中の常識と言っていい」
今まで幾度となく繰り返してきた信念、それを言語化する事で確固たる物にする。
「だが、それを自分で考えついた人間はどれだけ存在するだろうか? 大抵の者は、身近な人から言い聞かされ・本を始めとしたメディアで現象の成り立ちを知って・周囲も『それ』を当然の事として受け止めている。
そういう下地があってこそ、『大地は球体』という概念は常識として広く知られているのだろう」
カタカタと指を動かしつつも、口を動かす事も忘れない。これは、自分に対する言い聞かせでもある。
「しかし、もしも他者からの前知識の伝達がなかった場合、『大地は平ら』と考える者の方が多数派なのではないだろうか。
紀元前より大地球体説を唱える賢者は存在したが、その数は途方もなく少ない。時代や地域によっては、迫害されていた歴史すらある。当たり前の真実を『自分で気づく』のが、どれだけ難しい事か」
この台詞を聞いているのは、私の他には一人だけ。それもどうでも良い事だ。
「だが、今の時代は大地球体説は当然の事として認知されている。これはひとえに、先人達の観測・計算・航海・その他諸々によって成された偉業と言える。そう、このような先人達の知恵を得る事こそが『教育』と『伝承』である」
演説に熱が乗ってきた。タイピングの速度も若干早くなる。
「これは何も、地球規模の真実に限った話ではない。この実は食べたら危ない・あの動物にはこんな風に対抗しろ・その学問はこういう理屈でこうなる……etc
口頭や書籍に関わらず、古来よりこうして知識は伝えられてきた。自分だけでは気づけない事であっても、先人達の実体験や経験則を基にして、自身の『スタートライン』を遥かに有利な位置にまで持って行けるのである」
カタカタカタ……タン! と、やや強めにエンターキーを押す。うん、並列で思考をしても全く問題は無い。
「親から子へ、子から孫へ。人が生きていく上で大切な知識は連綿と受け継がれていく。国民の三大義務の一つとして、子供に普通教育を受けさせる義務が課せられるのも当然だ」
そろそろ結論に入ろうか。
「わたしが思うに、教育と伝承がキチンと成されていなければ、今でも人間は腰ミノをまとい、石斧を持ってウホウホ言っていたのではないだろうか? わたし自身が、大いなる先人達――いや、厳密には殆ど一人の天才――の知識の恩恵を、莫大なまでに受けてきた人間だ。だからこそ、強くそう思う」
「はいはい、花岳 愛日教授の、いつものご高説でございますね。それより、今は論文作成に集中して欲しいのですが?」
折角良い気分で持論をぶち上げていたのに、人に冷や水を浴びせるのが得意な助手に邪魔された。
まぁ、発言の内容自体は彼が正しい。だから、わたしは大人しく実験結果や考察をタイピングする作業に戻る事にした。
「ただ、『知識の恩恵を受けてきた』ってのには同意ですけどね。僕も教授も、こうして研究をする事でお金をもらってるわけですし」
十数歳ほど年上の助手が言う。この男は研究者としての能力は高くないが、他人の能力を見抜いて利益を出す事にかけては優れているので、わたしの頭脳をブーストする役として置いている。
そんな彼の言う事はいちいちもっともだ。蓄えられた知識を基にして、今のわたし達が給料を得ている事は間違いない。だが、助けられてきたのはそれだけじゃない。わたしこと『花岳 愛日』は、先人(達)の積み重ねた物にずっと介助されてきた。人間として、勤め人として、そして科学者として。
わたしは今でこそ、『科学の女傑』だとか『鉄血研究者』だなんて呼ばれている。二十歳半ばの小娘なのに、自然科学分野の重鎮となっている女だ。数々の賞も貰ったし、論文が権威ある雑誌に載る事も当たり前だ。
そんなわたしだって、研究内容を自分一人で思いついたわけではない。証明済みの数式や法則は、研究を行う上で前提となる知識として教科書に書いてあった。
わたしは間違いなく功績を残したが、それはわたし個人の物ではない。古代から連綿と受け継がれてきた『学問』というリレーのバトンを、上手くつないだにすぎない。そして、わたしの成果を基にして教育と伝承が行われ、また別の誰かが新しい何かを生み出すのだろう。
だからこそ、わたしは現在の学問の大元となった先人達……いや、もう断言してしまおう。「ロブ・スティール」個人を心から敬愛している。
◇ ◇ ◇
わたしには、0歳の時からの記憶がある。生後半年で喋り始めた赤ん坊を見る、両親の驚愕の表情は未だに目に焼き付いてるし、その後の戸惑いながらの優しい対応だってちゃんと覚えてる。
ただ、その日以来わたしは『普通』の枠組みを外れてしまった。何を聞かせても見せても、一瞬で覚えてしまう記憶力。1歳の誕生日を迎える頃には、連立方程式を解いてしまうくらいの理解力。それでいて、子供特有の型に囚われない柔軟な発想力。
幾人か他の『天才児』と競った事もあるが、全てわたしが圧勝した。
普通なら小学校へ入学する年齢の頃、わたしは外国語で書かれた論文を発表し、海外の大学を卒業していた。その時のわたしは鼻持ちならないクソガキで、世界の全てを下に見ていた。
一度見聞きしただけじゃ覚えられない暗愚共。当たり前のような事実にも理解が及ばない駄目人間達。何一つ新しい事が思い浮かばない蒙昧な連中。
隠すつもりもなく、空の遥か高みから周囲をそう見下し――
――そして、ロブ・スティールの存在によって、地面に叩き落とされた。
元々、名前や功績は知っていた。
当然だ、どんな教科書を見ても、彼の名前が付いた法則や数式が記載されているのだから。
「まーねー、スティールの名前を知らない科学者はエセってレベルじゃないですからね」
助手の言う通りである。スティールの存在は、現代の科学にとってはなくててはならない者だ。
スティールは近代の研究者であり、色々な分野に出張しては論文を書き上げてた存在だ。それだけなら、単なる多趣味な男で終わりなのだが、残した結果が群を抜いて凄まじい。
「色々逸話がありますよね。曰く、世界史上最高の天才。曰く、その男の存在で人類の進歩は1000年早まっただろう。曰く、彼の名前が付いた法則や数式をどれだけ知っているかで、その者の学者としての実力が測れる。曰く、ロブ・スティールの研究成果を独占できれば、世界の覇権を握れる。曰く、曰く、曰く……」
スティールの論文は途方もない量と範囲を誇り、法律・経済・宗教・地理・心理・社会・物理・生物・工業……etc と、ありとあらゆる分野に及んだ。彼自身、非常に紳士的かつ社交や語学にも長けていて、国をまたいだ友人が数え切れないほどいたらしい。
あまりの多芸っぷりに、「ロブ・スティールとは、個人名ではなく研究機関の名前だ」なんてジョークまで流れる始末だ。
「まぁ、わたしだって、研究者の常識としてスティールの存在くらいは知っていた。
だけど、彼の本当に凄さにはまるで気付けなかった。大学在学中は、知識を詰め込むのと研究の成果を挙げる事に没頭するばかりで、偉人の功績がどれほどの物か、という点まで気が回らなかったのだ」
「言い訳ご苦労様です。だからまぁ、周囲との摩擦も結構なもんだったんで、僕が一計を案じたわけですが」
そう、卒業してやや暇になった時に、現助手から渡された一冊の回顧録がきっかけだった。
『スティールさん、ご冗談を』という名前のそれは、ロブ・スティールという男の人生を面白おかしくつづった本だった。読み物としても質の高いその本を読んだ時、わたしは脳天を電撃で貫かれたような心持ちに襲われた。
なぜなら、わたしのクローン関連の論文は、スティールの存在無しには成り立たない物だったと気づいたからだ。
大前提となる法則・証明するために使う数式・結論を導くための考え方、それら全てがスティールの偉業抜きには花を咲かせなかった物だと知ってしまった。
スティールの膨大な論文は、その殆どが革新的な物だった。広範囲の分野で数多くの論文を残したのも驚きだが、真に凄まじいのは『現在の学問の殆どが彼の論文によって成り立っている』という点である。
今から100年前に書かれた論文の骨子が、現在の生活を成り立たせている。そして、わたしの研究も例外ではない。
「この事実に気づいた時、わたしは顔から火が出るような恥ずかしさを覚えたよ」
わたしは何をおごっていたのだ。天才だの何だのもてはやされても、結局はスティールが築いた土台の上で踊っているだけじゃないか。自分一人では到底考えつけなかった論文を根拠に、どうして他者を見下せるというのか。
わたしは、わたしだけが優れていて、わたしだけが新しい事ができると思っていた。だがそれは、実際には先人達の膨大な経験と試行錯誤の果てを、知識という形で恵んで貰っていただけなのだ。
わたしは改心した。
これまでの振る舞いを改め、失礼な態度を取ってしまった人には真摯に謝ってお詫びの品を渡した。
「もっとも、これまで傲慢極まりなかった幼女の突然の奇行で、大学内は結構な混乱に陥りましたけどね。僕も責任の一旦を担ってると考えると、申し訳なくて。元妻と結婚して忙しい時期だったのに、事態を収めるために奔走したんですから」
「言うな、言わないでくれ。本当にごめんなさい。年齢一桁の頃の振る舞いは、わたしにとっては黒歴史なんだ」
とにもかくにも、それからのわたしはスティールに関連したあらゆる本を、ひたすら貪るように読んだ。当時のスティールの生活は忙しく、理論・実験・論文作成・著名人との会談……と、かなりのハードスケジュールを毎日のようにこなしていたらしい。
「素晴らしいと思わないか!? 常人なら音を上げてしまいそうな生活をしながらも、スティールは論文を発表し続けた! そうした彼の尽力があってこそ、現代の生活は成り立っているのだ! 敬意の念を抱かずにはいられない!」
激務に耐え続けたせいか、早世してしまったスティールは不憫ではあるが、その死に顔は穏やかな物だったという。亡くなる数日前まで論文を発表し続けた彼は、一体どんな心持ちだったのだろう?
そして、数多集めた本の中に、わたしがスティールに決定的に想いを寄せるきっかけになった、本人の言葉があった。
「知識というのは、より新しい物をより多くの人に教え広められなきゃ意味がないんだ。だから、ボクは友人を介して積極的に論文をバラ撒くし、社交界で顔も売る。ボクが生まれて来た理由は、まさしく『このため』なのかもしれないね」
この文章を読んだ時、わたしの傲慢は完全に打ち砕かれた。スティール……いや、スティール氏は自身の才能を、大衆や社会全体のために役立てる事を望んだ。自分一人で新しい事をした気になって、ふんぞり返っていたわたしとは大違いだ。
「こうして、わたしは教育と伝承の大切さを知ったんだ。他でもない、スティール氏の存在によって。人類史上最も多くの発見をしたであろう、教育と伝承の下地を作った男性によって」
「だからこそ、スティールの信念に則って『多くの人に分かってもらう』ために、研究の傍ら人付き合いもしたんですよね。まだ二十歳半ば程度の若さで、世間慣れなんてしていないでしょうに、割と無理をして」
「何て事はない、スティール氏の理想を体現するためなら」
「へーへー、そこまで想われてスティールも本望でしょう。実際、教授の研究そのものも、社会の底上げをするような物ばかりでしたしね」
「まぁな、後の世の人間に少しでも知識を伝承し、わたしの成した事が教育の一助になる事を願っているよ。クローン技術だってその一貫だ」
スティール氏に関するありとあらゆる情報を集め、彼への想いを理念とした研究を続け……そして今現在、生物学をはじめとした自然科学の世界で大きな権威を持つようになったのがわたしだ。
わたしの原点はスティール氏であり、これが揺らぐ事はない。
そして、ここからは助手にも明かせないわたしの赤裸々な秘密話なのだが……わたしは、スティール氏に恋をしている。
尊敬や崇拝の念ではない、一人の女が一人の男に抱く恋愛感情だ。
前述の通り、わたしの根底にはスティール氏の知識や理念が厳然として存在する。これは、研究中も人付き合いをする時も、スティール氏へと繋がっているような物だ。わたしの人生観を矯正してくれて、研究をする度にその存在を感じて、ずっとずっと想い続け……これが恋にならないはずがない。
既に亡くなり、会った事もない男性に懸想など、いわゆる『白馬の王子様』に憧れる婦女子以上に夢見がちだ。しかし、とめどなく溢れるこの想いは決して嘘ではないし、スティール氏を語らせたら世界でわたしの右に出る者はいないと自負している。
この想いは、わたしの行動……いや、奇行にも現れている。
決して他人には言えないが、彼へは毎日のようにラブレターを書いている。自宅のマンションの一室は、届くはずのないラブレターが詰まったダンボール箱で一杯だ。
近代に生まれたスティール氏の血筋を辿り、彼の子孫にそれとなく接触してみた。残念ながら、平凡極まりない男性であり、本で読んだスティール氏のような魅力は感じなかった。
いやまぁ、彼は彼で子孫達に教育と伝承を施す、かけがえのない存在なのだろうが。
机の脇には、在りし日のスティール氏の写真が飾ってある。彼に関する本は、その内容を全て暗唱できる。秘密結社のような同好会的組織である、『ロブ・スティール氏を崇める会』の現会長はわたしだ。
そんな風に、わたしは日々の潤いとしてスティール氏に関わるアレコレの奇行を大いに楽しんでいた。わたしの変態行動は、最早ルーチンワークの域に達しており、食事や睡眠と同じ感覚で行えるレベルだ。
一目でいいから、生きている彼を見たい。一言でいいから、亡くなっていない彼と言葉を交わしたい。一瞬でいいから、等身大の彼と会ってみたい。その想いは嘘じゃない。
そんなわたしだから、ロブ・スティール氏を死者蘇生ボタンで蘇らせる事ができた。
◇ ◇ ◇
最初に『死者蘇生ボタン』という物体が手元に現れ、ルールが頭に刷り込まれた瞬間、わたしは直ちに公私問わず身近な者達に連絡を取った。次いで、ボタンが確かに存在しており、例外なく全ての人類がその存在を認識している事を把握。
ルールについては以下の通り。
1.このボタンは、満15歳以上ならどんな人間でも一生につき一回だけ押せる。
2.ボタンを押す事自体は、明確な意識を持っている時に強く念じれば、いつでもどこでもすぐに可能。
3.押した瞬間、その人物が最も生き返らせたい対象を、全盛期の姿ですぐそこに蘇らせる。
4.ただし、ボタンを押す者がその瞬間【死んだ対象を誰よりも愛している】事が蘇りの条件。
5.「4」の条件を満たさないままにボタンを押すと、押した者が死ぬ。当然蘇りも行われない。
6.対象が実は死んでいなかった場合も、ボタンを押した者は死ぬ。
7.ボタンの譲渡・放棄・売買・破壊・他人の使用は一切不可能。
8.死者蘇生ボタンが配られる以前に死んでいた者には、上記一切の権利がない。
どこかしらの軍事攻撃かとも思ったが、そのボタンが全人類に配られた事で否定された。
死者蘇生ボタンにまつわる混乱は、それこそ世界中で起きていた。突然頭に入力された情報によって、交通事故を始めとした、多くの過失が生じたのも必然だろう。
後に、死者蘇生ボタンは間違いなく『本物』である事が判明するのだが、おふざけでボタンを押してあっけなく死ぬ者も多数いた。
自分の組織までパニックに巻き込んでまで、こんな事をするメリットがない。
そう、こんな事をして利点のある組織など存在しない。どうにもふざけたルールだから、個人の愉快犯という線も疑ったが……ここまで摩訶不思議な物体を創り出し、更には全人類に同時に配布した。その手管が人間による物とは思えない。
わたしはそこまで信心深い人間ではないが、この時ばかりは神か悪魔の存在を信じざるを得なかった。
当然、この得体の知れないボタンの検証は成された。人の命が羽より軽い国では、随分と強引な手法も取られたらしい。しかし幸いにして、わたしが籍を置いている大学での検証は、かなり人道的な取り組みが成された。
ボタンを使用したいという意思を強く表明している者を公募し、契約書や遺言を書かせた上でその結末を観察する。結果の成否に関わらず、実験への見返りという形で金は支払われ、本人や遺族等へと渡される。正味な話、かなり真っ当な『実験』だったと思う。
わたしは直接的には関わらなかったが、この形式はボタンを押す本人の意思が尊重され、その見返りも確定している。実際に事に関わった助手曰く、精神的にかなり楽だったらしい。まぁ、それでも人道だの何だので文句を言う団体はいたが……これはしょうがない事だろう。
とにもかくにも、実験の結果として死者蘇生ボタンの効果は間違いなく実証された。8つのルールは全て正しく、その中では厳密な線引きが行われている事も判明。
まぁ、『誰よりも愛している』なんて数値では表せない事を、どこの誰が判定しているのかは不明なままだが。
そうして、各国政府や国連から「ボタンの存在とルールが確かな物である」と発表されるまで、かつてない規模の混乱はとめどなく続いた。いや、多少は収まったものの、それは今も続いている。
何せ『蘇り』だ。真っ当な倫理観や宗教観を持っていれば、絶対の奇跡か神への冒涜に他ならない。実際、世界三大宗教の一つにおいて『復活』は大きな意味を持っている。神の子が磔刑に処された後に生き返った事はあまりに有名だし、死者蘇生ボタンが配られた当日を『審判の日』と主張する奴もいた。
そんな『神話』が、そこかしこでお手軽に行われている。
というより、有名無名に限らず、『死んだ後の事』を考えない宗教の方が珍しいだろう。そこに殴り込みをかけた死者蘇生ボタンは、宗教関係者達にとっては厄介極まりない代物だった。
蘇った結果、「真の天国を見た」と主張してカルト宗教を立ち上げた者がいた。
しかし、死者蘇生ボタンは人類の数だけある。『真の天国』を主張する奴が複数いれば、逆に「あの世なんて無い」という真逆の事を言う者達もいた。
それぞれが掲げる教義が違うので、当然の帰結としてカルト同士での対立があった。雨後の筍のように乱立したカルトが争った結果として、『再臨教』という宗教団体が勢力を伸ばし、現在では「日本再生党」という名前で与党政治に食い込むまでだ。
「政教分離の原則はどこへ行った……!」
思わず怒りの声を漏らしてしまったが、これは仕方のない事だろう。
『押したら死ぬ可能性がある』という点に目を付けた、完全犯罪一歩手前の蛮行もあった。いや、発覚してないだけで、きっと成功してしまった完全犯罪もあるのだろう。
というか、そもそもそういった行動を犯罪として捉えるか、どんな法律を適用するかも曖昧で、法曹界も絶賛大混乱中だ。
あらゆる場で暴言混じりの激論が行われ、人心は乱れる。人心が乱れれば、よからぬ行為に走る者も出てくる。よからぬ行為を見て、それを真似しようとする奴もいる。
そんな連中が増えれば騒ぎは大きくなる。赤信号、みんなで渡れば怖くない。タガが外れた騒ぎは規模だけでなく、質の面でも悪化していく。死者蘇生ボタンの配布から数年。社会秩序は破壊され、治安は悪化の一途をたどるばかりだ。
こんな混迷とした状況では、教育も伝承も健やかに行われるはずがない。加えて、宗教的な倫理観の枷が外れたのか、世界各地で歴史的な宗教建築が壊される事件が相次いだ。
自然科学者のわたしでも分かる。歴史的な建造物は、それだけで古来よりの人間の英知が結集しているのだ。そこから学ぶ事は多いだろうし、教育と伝承にも役立つだろう。
だというのに、その偉大なる先人達の積み重ねを、半ばストレス発散のような形でブチ壊しにするとは……。
◇ ◇ ◇
わたしは頭を抱えた。
「なんだこれは。今まで人類全体で積み上げて来た物が、全部台無しにされようとしている。これが、こんな蛮行が許されて良いはずがない!」
しかし、わたしにはどうしようもなかった。それなりに著名人だという自負があるわたしが、メディアに顔を出して何度懇願しても、暴走は一向に止まる気配を見せなかった。正論を言えるが、同時に他人を煽るような言動が目に付く助手は、ため息をついた。
「そりゃそうでしょうよ。教授は『温故知新』の権化じゃないですか。古来よりの知識を守れ、その上でより新しい物を作り出せ。
そんな風に教育と研究のみに力を入れて、大衆を煽る事に特化してきた教授には、ブレーキを踏む能力が決定的に欠けているんです」
グゥの音も出なかった。結局、メディアに露出して得た物といえば、わたしの青臭さの再認識だけという無様っぷりだ。
まるで雪玉が転がるが如く、犯罪が犯罪を呼んで治安は悪化の一途を辿る。この一連の流れがどこかの誰かの陰謀で、そんな黒幕の如き存在がいなくなれば全部おしまい。という都合の良いオチがあれば、わたしは躊躇わず『犯人』を刺し殺した自信がある。
しかし、実際にはそんな奴は見つからない。
わたしも科学者として、死者蘇生ボタンの事はルール以外も徹底的に調べた。そこに打開策があるかも知れないと。しかし、結果はにべもない物だった。
ボタンを構成する材質自体は、単なるアルミニウムやプラスチックだったが、それを加工した場所や機材は一切分からず。それでいて、ルールにあるように物理的な破壊は一切不可能。特殊な波長が出ているわけでもなく、何かを受信した形跡もない。
有り体に言って、死者蘇生ボタンは定められたルール以外は『ただの玩具のようなボタン』だった。
これ以上、自然科学者であるわたしにできる事など何もない。世界でも名高い、知人の社会学者や大物政治家に相談してみたが、「お手上げ」という回答が返ってきた。わたしと並ぶ、世界的な頭脳を持つ彼らをもってしても『正解』は出ないという行き詰まり。
わたしはもう半ばヤケクソになり、ふてくされながら自分の研究室で大好きなスティール氏の本を読み返し――
――そうだ、ロブ・スティール氏だ。
前述した通り、スティール氏の研究は途方もない広範囲に渡る。その中には、社会学や政治学の論文もあった。そして、今の混乱の元凶となっている死者蘇生ボタン。
彼が生き返ればあるいは。人類史上最高の頭脳を持ったであろう彼なら、この荒れた状況を覆す『最適解』を見つけられるのでは?
単なる思いつきに過ぎなかったが、この時のわたしには天啓にも感じられた。早速、すぐ隣のデスクで作業をしている助手に提案してみるが……
「他力本願ここに極まれりですね。スティール氏からしてみれば、100年後の未来に呼び出された挙句、『今』の社会問題を解決しろという。僕だったら、怒りを抑える自信がない。実際、似たような事例はあったでしょう?」
その言葉で思い出す。死者蘇生ボタンが普及して以来、そこそこ流行った風潮を。世界的に著名な将軍や政治家を蘇らせ、大衆の陣頭指揮を摂ってもらうという計画だ。
ただ、蘇りの確率は非常に低かった。
当然だ、『世界中にその名が知られている』のであれば、その将軍や政治家を誰が一番愛しているかは見当もつかない。死者蘇生ボタンを押した者の殆どは死に、混乱の一助となるだけだった。
加えて、極々少数の事例……上手く生き返らせた場合も問題だった。
彼らの殆どは、現代の常識を知らない。古代の将軍や中世の皇帝等、その人達が生きていた時代とは、政治形態も情報の伝達方法も何もかもが違う。
そんな状況で「何とかしろ」と言われても、ただ困惑するばかりだろう。中には、世界征服に乗り出そうとして『殺し直される』者までいた始末だった。
実際、そうしたプロジェクトが今まで成功を収めた例は皆無だ。
自分でろくすっぽ検討もせず、ほとんど反射的に提案してしまった事に頭を抱えたくなるが……しかし、スティール氏なら。
「彼が生きていた時代は、比較的近代だ。価値観のすり合わせは、不可能ではないのでは?
今では誰もが当たり前のように使っている、携帯電話やインターネット等は流石に想像の埒外かも知れないが、それも問題ない。何せ、それらの理論の骨子すら彼の論文に基づいているのだ。理解と順応は早いだろう」
そこまでを助手に語ったが、返答はにべもない物だった。
「まず、蘇らせるハードルが高いですね。教授に限らず、スティールの事を尊敬している科学者なんて星の数ほどいます。それこそ、『ロブ・スティール氏を崇める会』なんて怪しげな組織ができるくらいに」
……すまん、現会長はわたしなんだ。
「そして、蘇りが失敗した場合に失うのは、死者蘇生ボタンを押した者の人命です。今までは『検証実験』っていう大義名分がありましたけど、効果が実証された現在では、人の命を使ったギャンブルに等しい。
ある意味、そのリスクは他の何にも代えられない。その上で、仮に蘇りが成功したとしても、彼が役に立ちますか?」
『役に立つ』とは、また随分な言い方だ。スティール氏を崇め称えているわたしとしては、反射的に食ってかかりそうになるが……次の言葉に、動きを止めざるを得なくなる。
「彼が生き返った後、現在の世界の状況を理解してくれるでしょうか? もしも理解したとして……さっきも言いましたが、自分達の尻を拭けず、かつての死人に頼るしかない僕達に協力してくれますか? 協力してくれたとして、それで問題が解決できる公算は? リターンは不明瞭にも程があります」
……いざ要素を羅列すれば、不安要素しかない。というより、たった一人の天才に全部丸投げで、世界全体を変えるという、この発想自体が夢物語そのものだ。
いや、かつてスティール氏は確かにその研究や発明で世界を変えた。だが、今回も上手く行くという保証は全くない。
いけない、毎日のように悪化する世界情勢に加え、憧れのスティール氏の蘇りという事で、少しどころではなく頭が冷静ではなかったらしい。わたしは助手に謝罪と感謝を述べ、今日の研究を打ち切って一旦自宅に帰る事にした。
◇ ◇ ◇
自宅のマンションに戻り、シャワーを浴び、食事をして、ルーチンワークの一つであるスティール氏へのラブレターを書いて……そこで、わたしの胸を急激に打つ物があった。
一目でいいから、生きている彼を見たい。一言でいいから、亡くなっていない彼と言葉を交わしたい。一瞬でいいから、等身大の彼と会ってみたい。その想いは嘘じゃない。
前述の通り、わたしは亡くなった男性に懸想する、恋に夢見る馬鹿な乙女だ。
だが、今ではその夢が実現する可能性がある。他でもない、死者蘇生ボタンによって。その想いが、日課となったラブレターを書いている途中で、急激に膨れ上がってきた。
「何を馬鹿な。さっき、散々突っ込まれた筈じゃないか。彼を生き返らせられるとは限らないし、仮に蘇った所で協力してくれるか? 協力してくれた所で上手く行くのか?」
そして、わたしは何ともなしに手の平に現れさせた死者蘇生ボタンを見る。わたしの手元にある『コレ』は、その善悪はどうあれ能力自体は本物だ。スティール氏がボタンを研究したならば、あるいはその原理すら解明してくれるかも……。
「いや、やめだやめだ。どう考えてもリスクが高すぎる。今日はどうにも調子が悪い。たっぷり食べて、酒でも飲んで、いつもより早くグッスリ寝よう。そしてまた、明日から教育と伝承に没頭するのだ」
そうして、机の脇に飾ってある、幼い頃から恋焦がれ続けたスティール氏の写真を一目見て――
――次の瞬間、わたしは死者蘇生ボタンを押していた。
「……わたしは今何をした? 何というかこう、長年溜め込んだ自分の切なる想いを抑えきる事ができず、割と明確な意思を持って、スティール氏の事を強く念じつつ死者蘇生ボタンを押したような気がするが」
しかし、失敗すればわたしの命を奪うはずのボタンは、その瞬間に虚空へスッと消えた。代わりに響いたのは、若々しい男性の声。
「えーっと、とりあえず状況を説明してくれるかな? ボクは病室で友人と語らっていたはずだけど、いつの間にか見ず知らずの部屋に突っ立っている。しかも、さっきまで感じていた息切れや目眩が全くない。これは一体、どういう事なのかな?」
外国語で話しかけられたその内容は、わたしが今まで死者蘇生ボタンの研究で幾度も聞いてきたものだ。『全盛期の姿で復活』とはいえ、記憶や経験はそのまま引き継いでいる。
だから、死ぬ間際のはずだった自分が、唐突に『現代』に呼び出されれば、頭が困惑と疑問に埋め尽くされるのも当然で。
だがしかし、今はそれは重要じゃない。
わたしが死者蘇生ボタンを押した後、わたしの部屋に、突如として現れた男性が立っている。栗色でくせっ毛の短髪・長身痩躯でやや頼りない印象の体格・人懐っこくも爽やかな顔は、今は難しげな色を浮かべていて。
その姿は、わたしの机脇の写真立てに飾ってある人に、非常に良く似ていた。いや、むしろ『本人』そのもので……。
「あー、この言語じゃ通じなかったかな? 君はおそらく、モンゴロイドだよね? だとしたら、可能性のある言語は……」
目の前で、困ったような表情をしながら使用する言語を選ぶ男性。そうだ、『彼』は語学にも堪能で、外国にも友人が沢山いたはずだ。だからこその今の発言。
前後の状況と、何より死者蘇生ボタンを押したわたしが死んでいないという事実により、わたしの胸は歓喜で埋め尽くされた。
「え!? どうしていきなり泣いているんだい!? 本当に意味が分からないよ……。ボクは『ロブ・スティール』っていうんだけど、君は誰で、ここはどこで、今はどんな状況なんだい?」
これは嬉し泣きだ。ずっと恋焦がれ、それでも決して会えないはずの奇跡に直面している。説明を求める彼に応対したいのに、しゃくりあげるわたしの喉が、上手く言葉を発してくれない。
それでも、自分の置かれた状況が不安で仕方ないだろうに、使用する言語を幾度も変えつつ、彼はわたしを優しくいたわってくれた。
こうして、史上最高の大天才であるロブ・スティール氏は、死者蘇生ボタンによる蘇りを果たした。
◇ ◇ ◇
ただ、翌日からの世間の反応は芳しくなかった。「またか」と言ったところだ。
前述した通り、世界に名だたる歴史上の偉人が蘇る事例は、少数だがあった。しかし、その結果が期待外れだったのもまた事実。今回スティール氏が生き返った事も、あまり成果を残せずに終わるだろう、という反応だった。
だが、それとは対照的に学術界は騒然となった。
スティール氏は、あらゆる分野で名を残した。自分達のライフワークでもあり、人生を賭した研究の骨子を論文として発表した者が、現代に生き返っている。その価値を知る者達にとって、スティール氏の蘇りは期待感を煽るのに十分だった。
彼の名前が付いた法則や数式をどれだけ知っているかで、その者の学者としての実力が測れる。
ロブ・スティールの研究成果を独占できれば、世界の覇権を握れる。
誰もがさじを投げた、現在の世界情勢の解決。それでも、人類の文明を一人で発展させたレベルの天才である、ロブ・スティールならあるいは。目端の利く者ほど迅速に動き、彼への面会や議論の依頼は殺到した。
そして、当のスティール氏はと言えば……。
「ははぁ、死者蘇生ボタンねぇ。で、それによって生じた混乱を収める論理が欲しいと。とりあえず、今までの研究結果をまとめた論文を見せてくれるかな? あと、名の知れた社会学者や政治家を呼んでくれ。何分、ボクはこの時代の常識に疎いからね」
妥当な要求だった。むしろ、突如として放り込まれた状況に順応しようと、渋く引きつった顔をしつつも、必死に動いていた。
流石だ。これだけのバイタリティがなければ、膨大な数の論文は発表できなかったのだろう。
幾度も幾度もスティール氏をもてなす研究会やパーティが行われ、彼の周囲は人で溢れていた。それでもスティール氏は華麗に話術で捌き、現代の技術に理解を示し、ジョークを言う余裕すらあった。
それはまさしく、わたしが何度も本で読んだ憧れの研究者そのもので、わたしの胸は喜びと誇りで一杯だった。
「そうだ、この人はわたしが蘇らせたのだ。わたしが! この男性を! 世界で一番愛しているからこそ! 」
スティール氏を蘇らせた日以来、わたしのテンションは常に有頂天だ。ああ、最愛が証明されるとは、こんなにも気持ちが良い事なのか!
「マナビ……マナビ? 済まないが、この方を紹介してもらえないか? どうやら、言語が噛み合わないようなんだ」
パーティ会場でそんな事を小声でブツブツと呟いていたら、当のスティール氏本人に絶頂の世界から呼び戻された。
どうやら、お偉いさんとコミュニケーションが取れなくて困っているらしい。いけないいけない。蘇らせたわたし自身が、責任をもって彼のマネジメントをしなければいけないのに。
わたしのちょっとした失態はともかく、その後も滞りなくパーティは進んでいった。
スティール氏も、現代の世界的な頭脳を持つ数々の人達と言葉を交わせて、満足げな表情をしていてくれた。
この時のわたしには、自信があった。
スティール氏なら、きっとどうにかしてくれる。わたし達など思いもつかない、天才的な発想力を見せてくれるのだと。わたしが蘇らせた彼ならきっと!
◇ ◇ ◇
「そうですかね? あまり彼に期待をかけすぎるのは、酷だと思いますけど」
……そこに水を差すのが、わたしの助手たる男だ。
何を言っているのやら。確かに、一人の天才におんぶにだっこで問題を解決しろ、というのは無茶ぶりかもしれない。常人ならプレッシャーで潰れてもおかしくないし、そもそも突破口すら見えないだろう。
「しかし、相手はスティール氏だ。彼から見て『未来』に蘇らせられても、パーティで卒なく振舞うほどの胆力。そして、彼が稀代の大天才である事は、数々の論文が証明している。
スティール氏なら、すぐさま解決とはいかないまでも、問題を片付ける糸口ぐらいは見つけるのでは? そう思うのが、そこまで不自然だろうか」
「いや、何というか……あのスティールさん、どうにも僕と『同じ臭い』がしまして」
……?
この助手が言っている意味が良く分からない。凡人の域を出ず、わたしの補助役しかできないこの男と、世紀の頭脳を持つスティール氏が『同じ臭い』とは?
人を煽ったり不安にさせたりする助手と、とても紳士的に振舞うスティール氏。白人であるスティール氏と、黄色人種である助手。性格にも容姿にも、まるで似通った所がない。
本来なら怒るべき場面だが、それより先に違和感が強くなった。一体何だ、この気持ち悪さは……?
「ああ、すいません、何か変な事言っちゃって。まぁ、所詮は僕の気のせいでしょう。それよりも、『国家再生党』の情報が手に入って……」
そんな風に適当に話題を流して、助手は続けて『国家再生党』の報告に入る。この男は、場の空気を冷やしたりする以外は、他人の能力を見抜いて自分の利益に誘導する事ぐらいしかできない。
しかし、自分の特徴が人心に関わる物のためか、やたらと宗教関連への顔がきく。
自然科学者として名の知れたわたしの周りに、そういった伝手は貴重だ。だからこそ、研究者としては平凡な男だが、わたしの助手に置いているという面もある。
実際、今もタカ派の与党である『国家再生党』の情報を持ってきた。スティール氏の発想を後押しするためには、情報はいくらあっても足りないくらいだ。ここは素直に感謝しよう。
早速、この情報をスティール氏に伝えに行く事にする。クラッキングによる情報漏えいを防ぐため、資料はパソコンを介したやりとりせずに、紙束でまとめられてブリーフケースに入れている。
必然、わたしがスティール氏に手渡しするわけだ。スティール氏と直接顔を合わせられる事を、役得だと思うのは仕方がないだろう。
◇ ◇ ◇
慣れない化粧をして、普段とは違うファッションに身を包み、ちょっとした欲求と劣情を込めつつスティール氏の部屋を訪れる。
しかし、わたしを招き入れたスティール氏は、問題解決の事以外には興味がないようで、さっきからずっと資料を眺めるばかりだ。
……いや、分かってはいるのだ。危機迫ったこの状況では、わたしの反応こそズレているのだと。
ただ、ずっと叶わないはずの恋をした男性が、自身の最愛が証明されて目の前にいる。『期待』をしてしまうのも、むべなるかなというものだ。
恋は人をここまで変えるものか。今までの人生で、幾度となく褒め讃えられてきた頭がまるで働いてくれない。今のわたしは、助手よりも研究者として劣るのではないだろうか。
「……うん、現状認識は大体できたよ。割と詰んでるねぇ、今の世界」
わたしが悶々としていたその時、スティール氏のその呟きが聞こえた。
「えっと、今の発言は……いかな天才と言えども、この状況は流石に厳しかったのでしょうか?」
「それでも、諦めるわけにはいかないよね。差し当たっては、この時代の知識がもっと沢山欲しいな。悪いけど、マナビの伝手を頼っていいかな? あと必要なのは、経済学と宗教学と……」
いや、それでもスティール氏はまるで諦めようとはしない。いきなり蘇らせられて難題を課されて、不安を感じてないはずがないのに、それをおくびにも出さずに次の手を講じている。どうやら、まだ『この時代』の情報が足りていないようだ。
「いいでしょう、わたしの持てるあらゆるコネクションを使って、スティール氏を援護しましょう。生き返らせた者としての責任もあれば、現在の世界情勢を変えたいという思いもあります」
そして何より、愛する男に協力するのは何よりの喜びなのだ!
だから、この時のわたしは自分の研究よりも、関係各所への顔つなぎで奔走していた。幸いにして、わたしの研究を発表する期限には余裕があったし、実験内容自体も急ぐ物ではなかった。
一もニもなく提案を承諾し、学者との面会予定や場所の予約に必死になる。彼が……スティール氏がわたしを頼ってくれている。それが途方もなく嬉しかった。
だからこそ、わたしには気づく事ができなかった。
スティール氏のマネジメントや……何よりも色恋に気を取られ、盲目的になっていたわたしには。
◇ ◇ ◇
数ヵ月後、スティール氏がいくつかの論文を発表した。それぞれの分野がまるで違うそれらは、しかしその全てが中々に質の高い物であり、『100年後』に呼び出されて数ヶ月でここまでできるのか! と、学会を震撼させた。
そのオマケとしては何だが、スティール氏を蘇らせたわたしにも賛辞が来たが……それは本当についでだろう。わたしはスティール氏が研究できる下地を整えただけで、それ以外は一切ノータッチだ。
実際、スティール氏は基本的に自分の研究室に誰も入れない。わたしですら入った事がない。そんな状況で、ほとんど一人で数本の論文を発表したのだから恐れ入る。
そしていよいよ、学問の世界に身を置く者達の期待は高まり始める。彼なら、ロブ・スティールなら、この世界情勢を変革する新理論を生み出すのではないかと。
「でも、これで結局、本来の目的である世界を無事に治める論文が発表されなかったら、結構な肩透かしですよね」
「だ・か・ら! お前は、どうしてこう人の不安を煽るのが上手いのか!」
これからスティール氏が頓挫する可能性はあると、そう考える者も少なくはない。今回発表した数本の論文も、それ自体は良い出来だが、大目標である社会秩序を取り戻す方法については掠りもしなかった。
だが、これはウォーミングアップのような物だ。科学者が情緒的な理由で物を言うなんて、人によっては滑稽に見えるかも知れない。
しかし、この時のわたしは確信していた。スティール氏ならやり遂げると。わたしが蘇らせた彼ならばと。そのように、絶対の自信があったのだ。事実、論文を発表した後のスティール氏は『次』に向けて動いていた。
「うん、今回の発表でこの時代の常識を、大枠は掴めた気がするよ。じゃあ、次は医学と法学と数学に詳しい人物を紹介してくれ。お願いするよ、マナビ」
連日の激務で顔色を悪くしつつも、彼は着々と目標に近づいて行っている。生き返っても、学問への理解を深める姿勢は微塵も衰えようとはしない。かつて擦り切れるまで読んだ、彼について書かれた本。そこに見出した印象と、いささかも違う所はない。
そんな彼を応援するのは当然で、わたしはこれまでに培ったコネクションを、惜しみなく使う事にする。彼の実力が証明された後とあって、募集は驚く程簡単だった。
そんなわたしに、スティール氏はねぎらいの言葉をかけてくれる。
「ああマナビ、本当に君には助けられているね。ボクがこの状況でやっていけるのは、ひとえに君のおかげなんだと思うよ。それに、ボクを『世界で一番愛してくれている』のは君だという保証もあるしね。君こそが何よりもボクの支えなんだ」
わたしは歓喜の奇声を上げるのを、必死の思いで我慢しなくてはいけなかった。
褒められた! スティール氏に褒められた! ずっと昔から恋をしてきた、まさしく文字通り『世界で一番愛してる人』に! 今のわたしを形成した、その根源たる偉人に!
スティール氏の言葉に嘘はないだろう。実際、彼専用の研究室に一人でこもる時以外は、殆どわたしが側にいた。著名な学者や政治家との顔つなぎもしたし、聞かれた事は隠しだてせず全て教えた。
わたしは、スティール氏の信頼を得ていたのだ。
◇ ◇ ◇
その後も、スティール氏は社交と研究と論文発表に精を出した。
研究論文のジャンルは多岐にわたり、その全てがそれなりに有益な物であり、彼の学者としての実力は疑うべくはないのだが……。
「やっぱり、現在の世界情勢はどうにもなりませんねぇ」
相も変わらず、助手が茶々を入れてくる。だが、今のわたしはそれに反論する事ができない。
確かに、スティール氏はいくつもの論文を発表した。それが斬新だったり実用的だったりしたのも確かだし、今でも彼への面会希望は後を絶たない。
「でも、本来の『社会秩序の再生』っていう大目標には欠片も近づいてません。結果は残してるけど、方向性はまるで見当違いです。
どれだけ優れた技術や理論があろうと、それを使うのは人間です。世界中の人心が乱れたままじゃ、折角の論文も宝の持ち腐れだ」
……そう、社会の混乱は未だ収まってない。正しくあるべき教育と伝承は遠のくばかりだ。
今の人間達には余裕がない。画期的な新技術や、長年検討が続けられてきた新理論よりも、死者蘇生ボタンとそれにまつわる問題の方が大事なのだ。
「学者達にとって、ロブ・スティールという存在は憧れの存在です。教授には及ばないまでも、様々な愛情を持っている人だっているでしょう。でも愛と憎しみは表裏一体。『期待』が裏切られた時はどうなるか……」
「本当に、不安になる事ばかり言うな!」
だが、それを否定するだけの根拠がない。実際、すぐ側でマネジメントをしてて感じる。スティール氏の立場は、絶頂期よりは心持ち衰退したようだ、と。
スティール氏もそれを気にかけてるようで、目に見えて心身の状態が悪くなって行っている。
だがしかし、だからこそ、今この時がわたしの出番なんだろう。わたしはアポイントも取らずに、スティール氏が住む最高級のホテルを訪れる事にした。
「え、あれ? どうしたんだい、マナビ? 今日は君との約束はあったっけ?」
スティール氏は、あまり血色の良くない表情のまま困惑している。
彼は、蘇ってからずっと研究と社交と議論に終始しており、『私生活』という物が殆ど成されていない。学問か社交かホテルで寝るか、それ以外はオマケと言った具合だ。
勝手に生き返らせておいて劣悪極まりない環境だが、そもそも彼本人からの要求があまりない。おそらくは、学問や研究そのものこそが生きがいなのだろう。
ただ、それも最近はそれほど芳しくないようだ。だから、彼の私人としての欲求を満たす事にした。そう、わたしという女を抱かせる事で。
これまでもスティール氏に色気で言い寄る女はいたが、マネジメントを統括するわたしが全て弾いてきた。これは『世界で一番スティール氏を愛している』わたしの特権であり、一番乗りを譲る気はサラサラ無い。
その一方で、わたしはこれまで恋焦がれているスティール氏に対して、あまり強引なアプローチをかけてこなかった。恋愛経験が皆無という点もあるが、それ以上に優先すべき事があったからだ。
教育と伝承を形作った、彼の研究を全力で補佐する事。
そのために尽力したし、女として見られたいという気持ちを持ちつつも、その努力は化粧やファッションに拘る程度に留めておいた。
彼を色香で惑わせるような事をして(わたしに欲情してくれるかは不明だが)、研究の邪魔をしたくなかった。
だが、事ここに至っては四の五の言ってはいられない。男であり、かつて既婚者だった助手のアドバイスでもある。「精神的にどうしようもない時は、女を抱く事で一時的にせよ悩みを忘れられる」と!
それが嘘か本当かは分からないが、他に今のわたしにできる事は思いつかなかった。スティール氏が蘇って以降、わたしの研究はほとんど停滞している。それ以前の資料は渡しているが、新しい着想を得るきっかけのデータともなると難しい。
これまでの半生、研究漬けで学問での頭脳以外に取り柄の無いわたしには、もう女としての身体を使って、スティール氏を慰める事しか思い浮かばなかった。
……いや、そこに『想い人に抱いてもらうチャンスだ!』という打算が隠れている事は否定しないが。
ともかく! 今日のわたしの装いは、そりゃあもう露骨極まりない。
露出の高い服に、官能的な匂いの香水。普段は資料を収めたブリーフケースは持っておらず、スティール氏が腰掛けたベッドに横たわり、精一杯シナを作ってみせるのだ。
「……マナビ、君は不器用だね。いかにも男慣れしてない雰囲気なのに、頑張ってボクを慰めようとしてくれている」
どうやら、場馴れしているスティール氏には、何もかもお見通しだったらしい。全てを見抜かれた事に対して、わたしの表情は随分と面白い事になっていただろう。しかし、彼は少しホッとしたような顔をして、非常に紳士的にエスコートしてくれた。
それでまぁ、その夜にわたしの十数年ぶりの恋は実ったわけだ。
◇ ◇ ◇
「マナビ、ありがとう。正直、プレッシャーだったんだ。『前世』でも修羅場は結構経験したんだけどね。世界全体の命運を握ってる、なんて期待感を現実の物にするのは、流石に気が重たかった」
一緒の布団に包まれながら、スティール氏……ロブがそんなピロートークをささやいてくる。
まぁ、いかな世紀の大天才といえど、比喩抜きに世界一つを背負うのは途方もない重圧だったのだろう。
「ああ、だけどそれも今日までだ。これからは、わたしという支えがいるんだから」
「うん、本当にありがとう。何というかな、ようやく踏ん切りがついたんだ。ああ、ボクはようやく新しい境地に行けるのかも知れない」
彼は今、非常に晴れやかな表情をしている。『これ』をわたしが引き出せたかと思うと、途方もなく嬉しい。これまでは、それなりに事務的な関係だったが、今日からは公私共に彼を助けるパートナーになるのだ!
だから、そうした決意を込めてわたしは言った。
「ロブの実力はこんな物じゃない、あなたはもっと頑張る事ができる。
かつて数々の偉業を成したロブならば、きっとどんな理論だって確立できるはずだ。
わたしを筆頭に、あなたを応援してくれる人は沢山いる。わたし達だって協力を惜しまない、あなたが成果を出す事を全力で期待する」
そういった事を伝えたら、ロブは今まで見た事がないくらいにニッコリと笑い、こう言った。
「ありがとう、マナビ。本当に……踏ん切りがついたよ」
わたしは嬉しかった。彼のこんな表情は初めて見る。わたしが、わたしこそがこんな顔をさせる事ができたのだと。
満足感に包まれ目を閉じて、明日からの輝く未来に思いを馳せて眠りにつき……
翌日、わたしが寝起き一番に見たのは、ロブが首を吊って自殺している光景だった。
愕然とするわたしの視界の端に、ロブの筆跡で書かれたメモ帳が入り込む。わたしは震える手でそれを拾い上げて読んだ。彼が死ぬ直前に書いたであろう遺書に記されたのは、ロブ・スティールという男の欺瞞に満ちた人生だった。
◇ ◇ ◇
元々、ロブは学者の家系に生まれた。それこそ、血縁全員が学問の世界に身を置くような家柄だったらしい。彼は非常に記憶力が良く、物事に対する理解力も深く、親族からは大いに期待されたらしい。
ここまではわたしも知っている。ロブについて書かれた本にも、幼少期から高等な教育を受けられた事こそが、後の彼の偉業を補助したのだと記述してあった。
実際、わたしもそう信じて疑わなかった。あらかじめ知識や経験を豊富に持っている者達に、教育と伝承をほどこされたからこそ、彼は学問の世界に金字塔を打ち立てられたのだと。
しかし、ロブには決定的に欠けている物があった。
それこそが『発想力』、彼は既存の知識を吸収する事は抜群に得意だったが、自分で何かを生み出すという事が何一つできなかったらしい。
一応補足しておくが、発想力は学者に必須の要素というわけではない。
ひたすらに虫の種類と生息域を調べて、その膨大な資料で後の世に大きな影響を与えた者もいる。何万パターンもある試料の組み合わせを数十年かけて地道にやり遂げ、結果的に大成功を収めた者もいる。
学者にとって発想力はあるにこした事はないが、ない場合でもできる事はいくらでも存在する。
ただ、ロブにとって不運だったのは、学者の家系の中で培われたとある価値観にあった。
「知識というのは、より新しい物をより多くの人に教え広められなきゃ意味がないんだ」
発想力が極めて低い彼にとって、『より新しい物』とは、どれだけ遠く手の届かない物だったろう。自分の目標をシッカリと持っていて、しかしそれが達成できないジレンマ。
だからせめて、ロブは『より多くの人に教え広める』事に目をつけた。普通なら、マスコミか政治家でも目指す所だが……幸か不幸か、彼には学者としての記憶力や発想力は抜群にあった。更には、『未来』に呼ばれても動じない胆力や社交性、その他に多言語を操る能力も。
そうして、ロブは『自分ができる事』に熱中する事になる。すなわち――
――他者の研究論文の盗作である。
ジャンルに関わらず、学問に関わる者としては決してやってはいけない事。彼はその禁忌に手を染めた。
元々、そういう話はあった。ロブの書いた論文は、あまりに膨大で多分野に渡る。これは、誰かの研究成果を横取りしたに違いない、と。
ただしそれは、都市伝説のような物だと思われていた。実は人類は未だ月面に降り立っておらず、月の表面の映像はスタジオで撮られた物だと。そんなヨタ話と似たような戯言だ。
しかしわたしは、まぎれもない本人からの遺書によって、その戯言が真実だと知ってしまった。ロブが論文を盗んだ事を。わたしの憧れは虚像だったのだ、と。
最初は出来心だったらしい。とある革新的な論文を書いた優秀な学者がいた。しかし、その男は人付き合いがあまりに下手であり、学閥から追放された結果、折角の論文をそもそもマトモに読んでもらえない。そんな悲劇に見舞われていた。
発想力以外は優れており社交性も抜群だったロブは、目ざとくもその学者と論文を見つける事ができた。そうして、その男を言葉巧みにかどわかし、共同研究者として論文を学会にねじこんだ。
すると、学会は大絶賛。ロブとその学者は一躍有名になり、安定して研究ができるようになった。
これだけなら、互いに足りない物を補い合った良い話なのだが……ロブは、そこで味をしめてしまった。自分自身は何も研究していないのに、成果を得る蜜の味を。
それからの彼は精力的に動いた。元々が学者の家系であり、コネクションの下地は整えられていたし、先に発表した論文で、ロブ自身の信用もあった。
そして、自分の社交術を最大限に発揮。時には騙し、時には脅し、時には盗み。そうして、彼は幾多の論文を発表した。多言語を操り、研究へのアプローチの仕方が違う多くの国から同時に情報を得られたのも、それに拍車をかけた。
普通なら、それだけの無茶ができるはずがない。論文を盗んだ誰かに、確たる証拠をもって訴えられればそれで終わりだ。しかし、彼はそうはならなかった。最初の論文発表で学んだのだ、『苦境に手を差し伸べれば、付き従う者はいる』と。
実際、ロブが目をかけてやらなければ、芽吹かなかったろう研究はいくつもある。
無実の罪を着せられ母国を追われた研究者を亡命させ、長く解かれていなかった数式を証明した。
アイディアはあっても資金難に陥っている経営者のパトロンとなり、新型の商品を作り出した。
仲違いをしている科学者同士を和解させ、双方の理論の良いとこ取りをした技術を発明した。
問題は、それらが全てロブ個人の成果となっている点だ。盗んだ対象は恩で縛り、自身の名声を利用して反対意見を叩き潰し、アメとムチを上手に使い分けた。
そうして得た発言力により、彼の秘密の派閥はますます拡大。木っ端の研究者が論文の盗用を訴えても、発言力や信用によって強引に握りつぶした。
「ロブ・スティールとは、個人名ではなく研究機関の名前だ」
ある意味、それは正しかった。ロブの発表した論文は、彼を中心とした名も無い無数の研究者達が実現させた成果と言っていい。
学者よりも政治家を目指した方が良いのではないか? と思えるほど、ロブは人間関係においては辣腕だった。それだけの能力があるのであれば、本来ならいくらでも他の選択肢があった。
それでもなお、論文の盗用を行いつつも学問の世界に身を置いたのは、彼の学者としての最後の意地(誇りではない)だったらしい。
「いや、何というか……あのスティールさん、どうにも僕と『同じ臭い』がしまして」
助手が言っていた事は正鵠を得ていた。あの男もまた、他者の力を頼りにするしかできない者だ。それが悪いとは言わない。他者と協力してこそ成せる事柄もあるだろうし、互いに利益が出るならそれで良いのだ。
しかしロブは、『論文盗作』という学者として最悪の手段を選んでしまった。普通ならいずれバレる所だが……幸か不幸か、彼の人間関係を操る上手さが事実を隠蔽できた。できてしまった。
ただ、その政治的手腕をもってしても、中々に危うい綱渡りではあったらしい。修羅場は何度も経験したと、本人の口からつい昨日聞いた。しかし、過労による早世で『逃げ切り』を果たした事で、彼の名声は不動の物となった。
死人に口なし、故人に反論はできない。ましてやロブは、『研究に熱中しすぎて過労死する』という、ある意味研究者の鑑とも言える死に方をした。彼本人が死んだ状態で論文の盗作を訴えても、それは帰らぬ人への冒涜だとして相手にはされなかった。
本人もそれを予期していたのだろう。『一度目』の死に顔が安らかなのも当然だ。
こうして、ロブ・スティールという男は世紀の大天才扱いされる事となった……が、それだけでは終わらなかった。
そう、死者蘇生ボタンである。わたしが押した、わたしが行った、わたしの責任による蘇りによって、ロブは再び学問の世界に身を置く事となった。
それも、今度は「世界を救う理論を編み出せ」という無茶ぶりも添えて。それはもう動揺しただろう。
彼から見れば未来の技術に触れられる上に、そうした様々な物には自分が発表したとされている理論が使われている。科学者の性根をこじらせたロブにとっては、この上ない喜びだったはずだ。
しかし、同時に追い詰められもした。自分は『理想の学者』として後世に名前を残し、それを裏切る事など許されないと。
そうすると、後はもう何とかしてわたし達の望む『正解』を導くしかない。しかし、ロブは知ってしまった。わたしのコネクションを使い、持ち前の社交性で必死に現代の情報を集め、彼は理解してしまったのだ。
世界でも名高い社会学者や大物政治家でも、『お手上げ』という事実を。
こうなると、他者の力をアテにするしかないロブにできる事はない。既存の知識や技術を吸収する事はできても、自分で新しい物を発想する事はとうの昔に見限った事で。
彼が渋く引きつった顔をするのも当然だ、期待に応える手段が見当たらないのだから。
それでもなお、短い期間でこの時代の学者達と友誼を結び、その上で彼らの論文を盗んで、しかも表立った問題を起こさなかった人心掌握術には舌を巻く。
いや、本当に驚いた。発想力にこそ恵まれなかったかもしれないが、局所的な人間関係を操作する術においては、彼は誇張抜きに人類史上に残る物を持っていたのだろう。
誰よりもロブの側にいるわたしが気づけなかったのは……ロブが蘇って以降、わたしが新しい研究にほぼノータッチな上、事前の論文は既に発表してしまっていたからだ。盗まれる成果そのものが無かった事に加えて、新しい研究もほぼ行わない。
想い人の『得意分野』に踏み込まなかったからこそ、彼を盲信する事ができたのだ。
ここまでくれば、ロブの研究室に立ち入る事ができない理由も明白。論文を盗んだ証拠である、機密情報が山と積まれていたからだ。周囲からプレッシャーをかけられつつも、多分野からの論文をかき集めれば『正解』が見えると思ったらしい。
しかし、見つからない。わたし達が求める解は見つからない。求められる内容とは関わりなくても、斬新で注目度も高い論文を盗む事で、お茶を濁している内は良かったが……それもとうとう限界に来ていた。
『社会に秩序を取り戻す』という理論の確立ができなければ、彼の名声や発言力は下がるだろう。そうなれば、現代で盗んだ論文を書いた者達も声を上げやすい。
自分の過去の栄光が否定される恐怖や、生き返ってまで罰ゲームのような扱いを受ける事に対して、ロブは相当に悩んでいたらしい。
そんな時に登場したのが、色気で迫るわたしだ。
死者蘇生ボタンを押したロブをこの状況に追い込んだ本人。彼からしてみれば、必要のない圧力をかけられる事になった原因。論文を盗む事すらできず、自分の現状を打破できないであろう相手。世界で一番愛してるくせに、ロブの実態を見抜けない、恋に恋する滑稽なオボコ。
わたしは、その場で彼に首を絞められてもおかしくはなかった。
しかし、助手曰く「愛と憎しみは表裏一体」だそうで。
ロブのずっと側で、非常に献身的にマネジメントをしていたわたしは、彼から一定の信頼を得ていた。それに、疲れ果てたロブにとっては、人肌の温もりは救いにも思えたらしい。
結果、彼はわたしを抱いて、一応は心の落ち着きを取り戻した。
事ここに至ってはもう隠しだてはできないと、ロブは自身の罪を全て懺悔するように心を固めたらしい。ピロートークで、非常に晴れやかな表情をしていたのもそういう理由だったようだ。
彼はわたしに生き返らせられ、わたしの期待に振り回され、わたしに憎しみを抱き……だが、わたしの献身にある意味救われた。
そして、直後に彼を奈落の底に突き落としたのもわたしだ。
「ロブの実力はこんな物じゃない、あなたはもっと頑張る事ができる。
かつて数々の偉業を成したロブならば、きっとどんな理論だって確立できるはずだ。
わたしを筆頭に、あなたを応援してくれる人は沢山いる。わたし達だって協力を惜しまない、あなたが成果を出す事を全力で期待する」
それは、もう『自分の論文』を発表する気がないロブにとっては、死刑宣告とも言えた。
逃げられない。過去の彼は、途方もない偉業を成し遂げた事になってしまっている。今更、全てを懺悔して楽になれる道などない。わたしの重たい期待の言葉は、彼の退路を断つに十分だった。
彼は考えた。
いや、一つだけ逃げ道はあるかも知れない。本来なら、自分はここに存在しているべきではなかった。しかし、何故かここにいる。そう、他でもない死者蘇生ボタンによって。
死んだままでいれば、こんな苦行に付き合わされる必要はなかった。ならば、もう一度あの世へ行こう。
大丈夫、死者蘇生ボタンが押せるのは一人が一生につき一度だけ。目の前で寝てる、『世界で一番ロブ・スティールを愛している』全ての元凶は、もうボタンの権利を行使したから。再度蘇らせられる可能性は低いはずだ。
そうして、ロブは自ら命を絶った。いや、わたしが絶たせてしまった。
◇ ◇ ◇
遺書を全て読んだ後、わたしはどう反応すれば良いのか分からなかった。
彼を蘇らせて追い込んだ責任を感じて、一人の人間としてひたすら悲しみと後悔に明け暮れるべきか?
史上最高の大天才と呼ばれたロブ・スティールの真実に向き合い、学者としてこの遺書を広めるべきか?
想いが結実した翌朝に絶望に突き落とされたという展開に酔い、女として想い人の後を追うべきか?
「何も分からない……」
他者から数え切れないくらい賛辞を受けたはずの頭脳は、ロブと実際に出会ってからは、何一つ解答を導き出してくれない。
……いや、一つだけ分かっている事がある。
それは、わたしが今でもロブ・スティールを大好きだという事だ。恋は盲目、惚れたほうが負け。助手の言っていた事は正しかった。
彼は学者として決して許されない事をしたのだろう。それでも、『教育と伝承が何より大事』という、わたしの原点を作ったのはロブの言葉だ。
「知識というのは、より新しい物をより多くの人に教え広められなきゃ意味がない」
この言葉があったから、わたしは研究者として立脚できた。そのわたしのクローン研究により、救われた人も間違いなくいる。彼の取った手段は最悪で、非難されてしかるべき事だ。しかし同時に、彼がいなければ埋もれていた才能もあっただろう。
功罪併せ持つロブ・スティール、彼の成したその全ては……。
そこまで思った瞬間、わたしは訳の分からない感情の奔流に襲われた。トイレで昨晩食べた物を全て吐き出し、胃液すら出なくなってもまだえづく。
ついで、ロブが首を吊ったままのホテルの部屋を破壊。泣きじゃくりながら、悲鳴を上げながら、腕をやたらに振り回しながら、目に付く死体以外の全てをひたすらに壊した。
流石に超がつく高級ホテルだけあって、あれだけ暴れても外に音は漏れなかったらしい。当然、壊した部屋については後で弁償が必要だろうが……今はその事は問題ではない。
体力が尽きて頭も少しは冷めた頃、生きている者は自分以外誰もいない部屋の中で、わたしは一つの決意をしていた。
「ロブ・スティールの全てをつまびらかにする。その上で、彼の成果と悪事を伝えていく。
教育するのだ、彼のようになってはいけないと! 伝承するのだ、それでも今の学問は彼の尽力によって成り立っていると!」
その上で、ロブの被害者達の尊厳を取り戻す。彼直筆の遺書があれば、現代で論文を盗まれた人達も名乗り出やすいだろう。彼ら一人一人に謝罪と補償を行わなければいけない。わたしはロブの贖罪を肩代わりしよう。
なにせ、『公私共に彼を助けるパートナーになる』と誓ったのだから。
そして、彼はもう生き返らせない。死者蘇生ボタンによる蘇りなんて許さない。これから訪れるであろう苦境には立たせない。少なくとも、未だに彼を世界で一番愛しているわたしが生存している内は。
かつて、わたしの目の前には一つのボタンがあった。それは、歴史に名を残す偉人を否定した証。それは、わたしの夢を捨て去りつつも恋を貫き通した証。それは、『死者蘇生ボタン』と呼ばれていた。