02.二妻与一と田倉美琴
俺の目の前には一つのボタンがある。それは、大好きな女の子を蘇らせられる可能性。それは、同じくらい尊敬している父さんを蘇らせられる可能性。それは、『死者蘇生ボタン』と呼ばれている。
俺――双妻 与一――のこれまでの半生は、全体的に見れば幸せな物だったように思う。
俺が二歳の頃、妹の出産の時に母が死んだらしい、物心つくかつかないかって年齢で片親って時点で実に不幸だ。
しかし、そんな苦境にもめげずに、努力家の父さんは俺と妹――双妻 陽菜――を育ててくれた。会社で精力的に働き給料を稼ぎ、それでいて家事にも手を抜かず、休日には遠出をして家族サービスまでこなした。
妹が交通事故に遭った時は、身を呈して助けた。父さん腕に一生残る傷痕を見た妹はずっと泣いていたが、本人は「誰かを守った傷は男の勲章さ!」って笑ってたっけ。そんな父さんに俺の幼馴染もベッタリで、「父さんを取るな!」と嫉妬したくらいさ。
それだけ男気のある父さんは当然モテて、再婚を目論んで言い寄る女も大勢存在した。将を射んとせば先ず馬を射よ、の精神で俺や妹を篭絡しようとした奴もいたっけ。
だけど、父さんはその誘いを尽く断った。家事であったり、俺達の育児を任せるだけの『家政婦』を得るためなら、再婚した方が楽だろうに。
「まぁ、母さんを今でも愛してるのがニ番。だってのに、想いを寄せてくれる女性を便利扱いする不実をしたくない、ってのが三番。そして何より、与一と陽菜がそれを望んでないってのが一番だな。『今のままがいい』って気持ちはビンビン伝わってるぞ?」
俺達の想いは筒抜けだったらしい。そうだ、あの時あの家庭はあの状態で完結していた。『よそ者』が入り込む余地なんて無かったんだ。
俺と妹にこれでもかと愛情を向けて、いつも豪快に笑って家族を支える父さん。俺はガキの頃から今までずっと、父さんが大好きだ。母が亡くなってしまった事を差っ引いても、実に幸せな事だと思う。
ただ、そんな完結しているはずの家庭を、またしても不幸が襲う。俺が7歳の頃、父さんが致死の病に罹ったんだ。もう少し発覚が早ければ、快復の見込みもあったらしい。しかし、実際には見つかった時は既に末期であり、もう死を待つしかない。
俺は泣いたさ、大分暴れたし妹にも随分と八つ当たりしちまった。でも、そんな俺を父さんは殴ってくれた。体はやせ細って顔色も死ぬ一歩手前って感じなのに、俺を説教するために殴ってくれたんだ。
かなわない、と幼心に思った。父さんは自分が死の危機に瀕してなお、息子の躾を果たしてくれたんだ。そして父さんは亡くなった。俺にとって途方もなく大きな言葉を遺して。
「与一、お前は独立心のある男だ。だが、いつかお前にも守りたい人ができるだろう。だからどうか、ずっと強く生きてくれ。
陽菜、お前は優しい女だ。だが、万人にその想いを振りまくのは不可能だろう。だからどうか、身内には情に厚く生きてくれ。
……ああ、そろそろお迎えが来そうだな。まったく、本当に良い人生だった」
こうして父さんは、最期まで他者の事に心を砕いて、穏やかな顔で息を引き取った。
父さんの死は不幸だったが、同時に俺に多くの事を教えてくれた。父さんが俺のために作り出してくれた、父さんが居てこその幸運でもあった。
◇ ◇ ◇
父さんの死後は、妹と一緒に養子縁組として別の家に引き取られた。父さんの親友である田倉の家は、何というか……『それなり』だった。
ちゃんと衣食住は保証されてるし、虐待を受けるような事もない。俺と妹共々、今に至るまで真っ当な生活をさせてもらっている。
ただ、『本来の家族』との扱いが違うのだ。
田倉家には田倉 美琴という、俺より1つ年下の一人娘がいた。これが前述の通り父さんにベッタリしていた女の子なのだが……彼女と俺達との扱いには微妙だが明確な差があった。
端的に言えば、美琴の事は叱ってくれるのに、俺の事は褒めるだけなのだ。子供を叱るのは親の役目、幼さ故の間違いを嬌声したいからこそ、子供には愛情をもって説教をしなければいけない。
ただ、叱る事はエネルギーを使うし、ちゃんと教育をしたいなら、真っ向から矯正する相手に向き合わなきゃいけない。その労力を、実の子供でない俺達には向ける余裕がなかったのだろう。
そういう意味では、俺と妹は明確に『よそ者』だった。思い出せる限り、叱られた事も説教された事もない。俺が妹と喧嘩をして、暴力を振るった時も介入しなかった。
戸籍上は親子関係にあるのに、そうした遠慮をするのは、僅かではあるが不幸と言っていいだろう。
しかし、親友の子供達と言っても、元々が別の家庭である。『この程度』で済んだのは、むしろ非常に幸せなんだろう。そもそも、血縁でもない田倉家が俺達を引き取るって事自体、かなり好意的だ。
まぁ、俺達の境遇に同情する面や父さんへの義理立てもあったろうし、生臭い話をすれば父さんの遺産や生命保険もあったろう。特に、田倉のご両親は義理や面子という物を非常に大切にする人達だったし。
そして、俺の人生における最大の幸運。先も思った『田倉 美琴』と出会えた事だ。
美琴は勝気で、正義感が強くて、夢見がちで、間違った事は容赦なく暴力で解決しようとして。でも、その根っこにあるのは溢れんばかりの優しさで。いつもアクティブでポジティブで周囲に明るさを振りまくような奴で。ついでに言えば、見目も良い。
いじめを行ってる地元の有力者の子供に、ドロップキックをかましたり。動物を虐待してた高校生に、ソバットをブチ込んだり。ああ、女子生徒にワイセツな行為をしようとした、ロリコン教師の股間を蹴りあげた事もあったっけ。
田倉のご両親には頭痛の種だったろうけど、俺はそんな美琴のバイタリティを尊敬していた。どんな理不尽にも屈しないその姿は、父さんの「強く生きろ」っていう言葉にも当てはまったしな。
そんな女の子と田倉の家で同居してるんだ。俺は徐々に美琴に想いを寄せていったよ。妹も美琴には懐いていて、誰彼かまわず美琴の事を自慢してたっけ。
まぁ、ハタから見ればトラブルメーカーである美琴は、田倉のご両親にはいつも叱られてたけど。
「お父さんもお母さんも、外面ばっかり気にして! 悪い事を悪いって言って、それでも分かんない奴を蹴っ飛ばして何が悪いのよ! 実際、アタシのキックで助かった人もいるってのに!」
美琴はその度にブチブチ文句を言って、割と本気でキレてたみたいだが。
「でも、お前は恵まれてるんだぞ? だって、愛娘に真っ当に育って欲しいからこそ、説教やお叱りがあるんだから」
そう諭しても美琴は納得できないようで、よく妹を相手にして愚痴っていたな。
「アタシはね、認められたいのよ。アタシは正しい事をしてる。それなのに、一方的に罵倒されるなんて我慢ならない。だからいつか、お父さんとお母さんに、アタシの行動を認めさせるの!」
まぁ、思春期にありがちな承認欲求をこじらせたような感じだが、これはこれで家族愛と言えるのかも知れない。誰だって、自分の能力や行動を褒めて欲しいって思うのは当然だし、それが実の両親に向いてるなな。
俺自身、今は亡き父さんに認められたいからこそ、後述するように『強く生きて』いるわけだし。
◇ ◇ ◇
そんな美琴だが、彼女の方も俺に好意を持ってくれていたように思う。父さんに「強く生きろ」と言われたその日から、俺は自分を高める努力を怠った事はない。妹にもその事ではせっつかれたし、俺に怠惰に生きる選択肢はなかった。
勉強も運動も常に学年でトップ。その実績は自信につながり社交性へと発展。小学生レベルではあるが、結果として多くの友人知人も得た。
他人からは「与一は何でもできるよな」と、まるで俺が生まれついて優れているように言われるが……しかし、これは何もせずに得た才能じゃない。「強く生きる」ために、必死で積み上げた努力なのだ。
美琴もそれを理解してくれていたのだろう。事あるごとに「無理しちゃダメよ?」と言われたし、オーバーワーク気味の時は蹴ってでも止められた。そして、蹴った後にこう告げるんだ。
「だから、無理しちゃダメって言ってんでしょ!? いい? どこの誰が何を言おうと、アタシだけは与一が努力家だって事を分かってる! アタシだって大好きな双妻のおじさんの遺言を、馬鹿みたいに守ってる与一に敬意を持ってる! 与一が『強く生きている』事を認めてる人がいるんだから、アンタだってそれを自覚しなさい!」
自分でも恥ずかしい台詞を言ってる自覚はあるのか、目を逸らしながらもこんな事を言ってくれる幼馴染がいるわけだ。そりゃあ、俺は美琴に惚れるし、美琴も俺に惚れてくれてるんじゃないか。って思うのも自然だろ?
ここまでは本当に幸せだった。母の死や父さんの病気っていう不幸があっても、父さんとの思い出もあったし美琴とも出会えた。そんなに長くない半生ではあるが、割と幸福だったと言える。
◇ ◇ ◇
更に、ここに追い打ちをかけたのが『死者蘇生ボタン』だ。
俺が12歳の頃、全人類の前に何の前触れもなく現れたボタン。そして、頭に強制的に刷り込まれたルール。
1.このボタンは、満15歳以上ならどんな人間でも一生につき一回だけ押せる。
2.ボタンを押す事自体は、明確な意識を持っている時に強く念じれば、いつでもどこでもすぐに可能。
3.押した瞬間、その人物が最も生き返らせたい対象の人間を、全盛期の姿ですぐそこに蘇らせる。
4.ただし、ボタンを押す者がその瞬間【死んだ対象を誰よりも愛している】事が蘇りの条件。
5.「4」の条件を満たさないままにボタンを押すと、押した者が死ぬ。当然蘇りも行われない。
6.対象が実は死んでいなかった場合も、ボタンを押した者は死ぬ。
7.ボタンの譲渡・放棄・売買・破壊・他人の使用は一切不可能。
8.死者蘇生ボタンが配られる以前に死んでいた者には、上記一切の権利がない。
最初は困惑したさ。『死人は生き返らない』なんて、今日び小学生でも理解してる。その絶対的なルールをいとも簡単にブチ壊すこのボタンは、どこからどう考えても正気の沙汰じゃなかった。
しかし、美琴や田倉のご両親や妹、他にも友人知人やニュースに出てる有名人に至るまで『同じ』だった。俺が持っているのと同様のボタンが現れ、同時にルールが頭の中に入って来たらしい。
そうして、俺は期待感と不安感を同時に抱える事になった。もしもこのボタンが『本物』なら、父さんを生き返らせられる可能性がある! しかし、仮にこのボタンが神様の盛大なオフザケだった場合、俺の期待は空回りする事になる。
妹も、何かを期待した目でこちらを見ていた。ああ大丈夫だ、ボタンは俺が率先して押そう。こう言っちゃ何だが、俺以上に父さんの事を愛してる奴なんていないだろうしな。
そして半年後……数多くの『実例』により、俺は死者蘇生ボタンの効果を確信した。普段はあまり動かない妹も、その時ばかりは躍起になって死者蘇生ボタンの情報を集めてた。あいつはあいつで、父さんを愛してたんだな。
いやまぁ、それはそこまで重要じゃない。死者蘇生ボタンの効果は確かな物。それはつまり、大好きだった父さんが蘇る事を示しており。
3.押した瞬間、その人物が最も生き返らせたい対象を、全盛期の姿ですぐそこに蘇らせる。
しかも、『全盛期の姿』で! 病気を早く発見できる段階で!
そりゃあもう、田倉のご家族や妹を巻き込んで狂喜乱舞したさ。……で、感情のままに叫ぶ俺は、そこでついでに美琴への想いもぶちまけちまったらしい。
急転直下だった。告白するなら、もっとムードとかあるだろうに。真っ青になった俺とは対照的に、美琴は何とも真っ赤で複雑な表情をしながら、恥ずかしいのか目を逸らしてこう言った。
「その……双妻のおじさんの遺言を守り続けるなら、今の失態は許してあげる」
「強く生きろ」という父さんの言葉。それを守るのは、父さんにベッタリだった美琴にとっても重要な事なんだろう。だが、その時はそんな事実よりも、肯定的な返事がもらえた事が重要だった。
これはもう、実質的なOKサインだろう。今までも俺はずっと父さんの遺言を守ってきたし、これからもそれを続けるだけだ。
再び俺は有頂天になった。父さんと美琴、大好きな人を二人とも手にする可能性が出てきたんだ。しかし……。
1.このボタンは、満15歳以上ならどんな人間でも一生につき一回だけ押せる。
というルールがあるため、当時12歳だった俺はまだ死者蘇生ボタンを押せなかった。今生きている人物で、俺以上に父さんを愛している者に心当たりはなかったし、田倉のご両親も俺がボタンを押す事を推奨した。俺は悶々とした気持ちで残り3年を過ごすのかと、ため息をつきたくなった。
だが、それでも『蘇り』なのだ。本来ならありえない事。しかし、それを可能にする奇跡。
これまでの俺の半生は、概ね幸福と言える物だった。しかし、この死者蘇生ボタンと美琴への告白により、ビックリするぐらいの絶頂へと駆け上がったんだ。
そして、頂点に登ったら後は叩き落とされるだけだった。
きっかけは、美琴が殺された事だった。
丁度、俺が15歳になる前日だったかな。俺はそれまで、すぐそこに迫っていた15歳の誕生日を、一日千秋の思いで待ちわびていた。その分、美琴への対応がおそろかになっていたんだ。
死者蘇生ボタンで狂喜乱舞した騒動の後で、美琴には正式に告白して晴れて恋人同士になれた。
「与一は年々、双妻のおじさんに似てきたね」
って美琴にも褒められた。何よりも尊敬する、憧れの父さんに似ていると褒められて有頂天だった。
田倉のご両親も、渋々ながら結婚まで清い交際である事を前提に認めてくれた。歳を取るにつれて色っぽい体つきになっていく美琴に魅了された俺には厳しい条件だったが、それでも俺は非常に恵まれていた。
視線が露骨過ぎたのか、何度か美琴に蹴られたり妹から軽蔑の眼差しを向けられたのはご愛嬌だ。……美琴の風呂を覗こうとして、顔の形が変わるまでハイキックされたのもスキンシップとしておこう。
だってのに、父さんを蘇らせられるという理想に目が向き過ぎていた。妹と一緒に、父さんが蘇った後に必要な物を買い出しするのに夢中で、美琴に不審な影が近づいてたのを見逃したんだ。死者蘇生ボタンが現れて以来、あらゆる機構や人心が混乱して、治安は悪化していたというのに。
美琴を殺したのは、40代無職のバツ2独身男で……いわゆる、ストーカーってやつだった。加えて、新興宗教である『再臨教』っていう怪しげな組織にも属している、どう考えてもマトモな奴じゃなかった。
その男は、美琴を殺した後に死者蘇生ボタンで蘇らせる事で、美琴を一番愛しているのは自分だと証明しようとしたらしい。で、美琴を殺すまでの目論見は成功。しかし、その後に死者蘇生ボタンを押しても蘇りは行われず、そいつはコロッと逝っちまった。
◇ ◇ ◇
事件の概要を聞いた時、俺は自分がどう反応すれば良いのか分からなかった。
美琴を放っておいた俺自身を責めるべきか? しかし、もう少しで父さんを生き返らせられる、俺の視野が狭かった事を誰が責められる。
美琴を殺した男を憎むべきか? しかし、奴はもうこの世にいない。美琴を殺すだけして、殺した本人はテメェの想いが否定されて犬死にだ。
死者蘇生ボタンなんていう、そもそもの原因を恨むべきか? しかし、父さんを蘇らせられる『コレ』の存在を、俺は心から歓迎していたはずだ。
「クソがぁっ!」
感情のブレーキが効かなくなり、俺は妹をはじめとして田倉のご両親にも当たり散らした。美琴を失って悲しいのは、親である彼らも同じだろうに情けない……。
少し落ち着いた後は、通夜も迎えずに話し合いが始まった。議題は当然、『誰が美琴を生き返らせるか』だ。
およそ俺が知る限り、美琴が死ぬ事を望んでる奴なんて、蛮行に走った40代無職のクソ野郎以外にはいなかった。そして、今の俺達の手元には死者蘇生ボタンがある。
後は簡単な帰結だよな。田倉のご両親なり15歳になったばかりの俺なりがボタンを押して、美琴を蘇らせる。美琴を殺す一因ともなった死者蘇生ボタンに頼るのはいかにも情けないが、四の五の言ってられる状況じゃなかった。
「じゃあ、まずは与一君を候補から外さないとね」
開口一番、田倉のご両親はそう宣言した。そして、俺もそれに従った。
俺が美琴に向ける愛情は、田倉のご両親に劣らない自負がある。だが、俺には『この後』があるのだ。そう、父さんを蘇らせなければならない。
1.このボタンは、満15歳以上ならどんな人間でも一生につき一回だけ押せる。
一回だけ。死者蘇生ボタンを押せるのは、一生につき一回だけなのだ。ちなみに、これは死者蘇生ボタンで何回蘇ろうと、生き返った本人自身は一回しか押せないという『実例』がある。
俺は父さんを蘇らせなければいけない。必然、俺を除き美琴に向ける愛情が強いであろう田倉のご両親が、死者蘇生ボタンを押す事となった。ご両親に迷いはなかったよ。
「理不尽に殺された愛娘を蘇らせる機会だね。これはきっと、神様がくれた僅かばかりのチャンスなんだと思うよ」
と、引きつりながらも笑っていた。自分が死ぬ可能性は当然頭をかすめたろうに、気丈に振舞って死者蘇生ボタンを押した。
結果、田倉家の死体は更に二人増えた。
……どうやら、俺が美琴に向けている愛情は実の親すら上回る物だったらしい。
死者蘇生ボタンの発動失敗による死は、ある種穏やかだ。外傷もなければ耐え切れない痛みに苛まれるわけでもない。ただ、魂が抜け落ちるように本人の心臓が止まり、徐々に意識が抜け落ちて行くだけ。だから、ボタンを押してから死ぬまでには僅かにタイムラグがある。
田倉のご両親は、どこか達観したような表情をして、そして薄れゆくであろう意識の中で言った。「娘を頼む」と、俺の死者蘇生ボタンの権利を美琴に使え、と。
◇ ◇ ◇
こうして、この日をもって田倉家はなくなった。後に遺されたのは、がらんどうの一軒家と戸籍だけ田倉の子供な俺と妹。
だが、俺にはまだ希望が残されていた。それこそが死者蘇生ボタン。死んだ者をこの世の誰よりも愛していれば、蘇りという奇跡を起こせる神か悪魔の所業。
しかし、それ故に今の俺は悩んでいた。つまりは――
――父さんと美琴のどちらを蘇らせるか、という事だ。
死者蘇生ボタンの効果を確信してから今まで、俺は父さんを蘇らせる事を第一に考えて生きてきた。それが正しいと信じていたし、俺にしか父さんを蘇らせられないという自負もある。誰にはばかる事もない、確定したような未来だった。
しかし、今はその俺の心の中に、父さんと並ぶくらい大切な存在である美琴がいる。短い半生の中でも、愛情を教えてくれた女の子。俺が『強くある』ところを見てくれた大事な人。
田倉のご両親が亡くなった以上、死者蘇生ボタンを押して美琴を蘇らせられる程の愛情を持つのは、俺だけだという事だろう。
ボタンを押せるのは、一生につき一回だけ。美琴が殺されなければ、父さんを蘇らせてハッピーエンドだったのに、40代無職バツ2なバカ野郎の勝手極まりない行動によって、全て水泡へと帰ってしまった。
今まで俺は、誰に恥じる事もない生き方をしてきたつもりだ。父さんの「強く生きろ」という言葉に従い、努力を重ねた。だからこその概ね幸福な半生だったのだと思うし、それは胸を張って誇る事ができる事だと思う。
しかし、今の俺は間違いなく不幸だ。
父さんと美琴のどちらかしか蘇らせられない。その事実は俺を打ちのめし、終わる事のない思考の迷路でさまよい続けるばかりだ。
父さんと過ごした日々・美琴と交わした言葉・年々父さんに似ていく自分の顔立ち・美琴と恋人同士になれた事・父さんの「強く生きろ」という遺言・田倉のご両親が遺した「娘を頼む」という切なる願い……。
父さんを生き返らせるか、美琴を見捨てるか。美琴に再び出会うか、父さんへの恩を仇で返すか。答えが出ない、胸が苦しい。俺一人で答えが出せる気がしない。
だから、俺じゃない奴が答えをくれたんだ。
「与一兄さん、あたしは美琴お姉ちゃんを生き返らせるべきだと思う」
美琴が死んでからこっち、ずっとふさぎ込んでいた妹――陽菜――が言った。
俺は驚いた。
これまで、陽菜は自己主張を殆どしてこなかった。それが、この俺達の人生を決する場面でハッキリと意思表明するとは……いや、俺達の人生を決する場面だからこそ、か。
「はんっ、流石に事ここに至ってまで、お前も昼行灯を貫き通す気はないか。だがな、どうして美琴なんだ? 父さんはどうでもいいのか?」
気が立っていた俺は、半端な答えなら暴力を振るう事も辞さない覚悟だった。しかし、陽菜には明確な答えがあったんだ。
「兄さんは覚えてる? 父さんの遺言」
「覚えてるさ、俺には『ずっと強く生きろ』で、お前には『身内には情を忘れるな』だ」
「うん、そしてもう一つ言ってたよね。『良い人生だった』って」
「ああ、そうとも言っていたな。俺自身に課された『強く生きろ』の印象が鮮烈で、今まであまり意識してなかったが」
「『良い人生だった』って言葉、今際の際にこの台詞が言える人がどれだけいるかな? 父さんが病気に罹って死んだ事は不幸だったし、できる事なら蘇らせたいって気持ちは凄く理解できる。
でも、父さんは間違いなく父さん自身の人生を生き切ったんだよ。あたしや兄さんに絶大な影響を遺して」
……俺は沈黙する。妹が何を言いたいのか、何となく察したからだ。
「対して、美琴お姉ちゃんはどうかな? まだ中学生で、これからもっともっと綺麗になって、いくらでも楽しい事や嬉しい事が沢山あったはず。兄さんとの付き合いもそうだし、結婚や出産っていう女の幸せもあったかも知れない。でも、それらが全て台無しにされた」
あえて意地の悪い言葉の選び方をしよう。つまり、陽菜はこう言いたいのだ。生き返らせるなら『先のある方』を選べと。
「だから、あたしは美琴お姉ちゃんを蘇らせるべきだと思う。田倉のおじさんとおばさんの願いでもあるしね。……と言っても、最終的にボタンを押せるのは兄さんだけなんだろうけど」
そう言って、陽菜は自嘲気味に笑ったが……しかし、俺にとっては十分だった。
「いや……ありがとうな、陽菜。お前がその言葉をかけてくれたおかげで、俺は決断をする事ができる」
さっきまでの迷いが嘘のように振り切れて、心が固まり覚悟が決まる。今なら脳裏に描ける、俺と美琴の確かな未来を。
ああそうさ、俺は実の父親を見捨てて惚れた女の方を取るんだ。
そうと決めたら、もうグダグダと考える必要はない。俺は欠片も逡巡せずに、自分の手の平に乗った死者蘇生ボタンに手を伸ばす。願うのは最愛の人の蘇生。
ありがとうよ、このボタンをくれたどっかの誰か。お前のおかげで、俺と美琴はこれからも生きていける。
そして、俺はもう何一つ躊躇せずに死者蘇生ボタンを押した。その瞬間――
「あたしはね、兄さんが心の底から大嫌いだよ」
――陽菜が、呪詛の言葉を吐いたのが聞こえた。
こいつは今、何を言った? 当然問いただそうとするが、体が上手く動かない。そして、美琴も蘇っていない。
何だコレは? 蘇生が成功した場合、蘇る人物は全盛期の姿で、即時その場に出てくるはずだ。だというのに、これじゃまるで……。
「お察しの通りだよ、努力して頭が良くなった兄さん。兄さんが美琴お姉ちゃんに向ける想いは、世界で一番じゃなかった。というか、より厳密に言えばあたしに負けていた。知らなかった? 尊敬の念や親愛の情でも、死者蘇生ボタンの『愛情』にはカウントされるんだよ?
まぁ、性欲のみは勘定さないっていう、それこそが今回は結構重要な要素だったんだけどね」
全身が冷たくなっていく、意識が判然としない。俺から美琴への愛情が、陽菜なんかに負けている? そんな馬鹿な! いや、それはこの際どうでもいい。
さっきの発言からすると、妹は狙ってこの事態を引き起こしたらしい。『尊敬の念や親愛の情』を抱いていたであろう美琴が殺され、田倉のご両親も後を追い、そして俺まで! 何故こんな事を? どこからどこまでがコイツの策略だってんだ!?
「さっきも言った通り、あたしは昔から兄さんが大嫌いだった。兄さんって内弁慶でさ、スペックの高さから外面は良い。だけど、部外者がいない場所で癇癪を起こすと、例外なくあたしに暴力を振るうんだ。
兄さんは気にしてなかったかも知れないけど、あたしはずっと覚えてたよ? 『身内には情を忘れるな』っていう父さんの遺言もあったしね。
まぁ、腕力的に絶対適わない『年上の男に暴力を振るわれる』なんて、早々忘れられないけどさ」
目がかすむ、思考が途切れそうになる、身体はもう決して動かないだろう。だが、それでも陽菜の言葉は最期まで聞かなければいけない。まだ話は続いているようだ。
「そんな時、死者蘇生ボタンが現れた。ルールを理解して、あたしはチャンスだと思った。兄さんを後腐れなく殺す、完全犯罪の絶好の機会だって。
兄さんが美琴お姉ちゃんに横恋慕してたのは知ってたから、後は兄さんが美琴お姉ちゃんを対象にしてボタンを押すよう仕向けるだけ。
そのためにボタン関連で色々と噂話も集めまくったし、そうして得た『再臨教』の情報で、ストーカーが美琴お姉ちゃんを殺すのを待って、後は適当な用事で兄さんの行動を拘束すればいい」
もう戻らないはずの意識が、僅かに炎を燃やす。コイツは今、聞き捨てならない事を言ったぞ! 『横恋慕』だって!? 俺と美琴の両想いを何だと思ってやがる!
「兄さん、知らなかった? 美琴お姉ちゃんは、兄さん自身の事は好きじゃなかったんだよ? 好きだったのは、あたし達のお父さん。それこそ、お姉ちゃんが生きてたら死者蘇生ボタンで父さんを生き返らせられるのは、お姉ちゃんか兄さんか分からなかった。
そんな父さん大好きなお姉ちゃんだからこそ、父さんの遺言を守ってる兄さんは、異性としてではなく友人としては認めてた。それに、年々父さんに似ていく兄さんの事はずっと気にかけていたみたい。兄さんのオーバーワークを止めたのも、好きな男の忘れ形見に無理をさせないため。
まぁ、そこで後ろめたさがあったのか、所々で目は逸らしちゃったってあたしに相談してたけど」
絶望する。美琴は……俺と……両想いで……。
「ちなみに、この計画には美琴お姉ちゃんも加担してるから。自分で言うのも何だけど、あたし達は本当の姉妹みたいに仲が良くてね。兄さんや田倉のおじさんおばさんには言えない事も、二人の間だけなら喋る事ができた。お互い、『殺したい程憎い血縁』がいるからかな?
さっきも言ったけど、お父さんを世界で一番か二番に愛していたのは、恐らくお姉ちゃんだった。それだけなら、お父さんを対象に兄さんにボタンを押させれば、半々くらいの確率で殺せるけど……でも、お姉ちゃんが言ったんだ。『自分も一枚噛ませて欲しい』って」
薄れゆく意識の中……それでも、憤怒で思考を……つなぐ。『殺したい程憎い血縁』って……何だよ! 俺や……あるいは田倉のご両親が……そうだってのか!?
「知らなかった? お姉ちゃんは、田倉のおじさんとおばさんをずっとずっと、殺したい程嫌っていた。トラブルメーカーのお姉ちゃんは、義理と面子を重んじるおじさんおばさんには目の上のタンコブだったみたい。影では、結構な罵詈雑言を投げられてたみたいだよ?
その悪辣な罵りに、『教育』とか『娘の未来のため』っていう愛情は込められてなかった。ただひたすらに、おじさんおばさんの面子を汚した事への怒りだけ。
分かるかな? 分からないよねぇ? 田倉のおじさんおばさんに溺愛されてて、近視状態だった兄さんには。自動車からあたしを助けてくれたお父さんと違って、美琴お姉ちゃんを守れなかった兄さんには」
……沈黙するしかない。もう口すら動かせないし、仕組まれた事とはいえ、俺が美琴を守れなかったのはまぎれもない事実だ。
「まぁ、問題はやっぱり罪悪感だったね。兄さんばかりが注目されて、あたしは田倉家では空気扱いだったけど、積極的に虐待を受けてたわけじゃない。お姉ちゃんはお姉ちゃんで、さっき言った通り、お父さんの遺言を律儀に守ってる兄さんには、友人としては好意的だったし。
互いの血縁は殺したいけど、『他人』に対してはそこまで殺意を沸かせる事はできなかった。それに、美琴お姉ちゃんは正義感が強いから、『人殺しが悪い事だ』っていう常識にも縛られてた。でもね……」
なんだよ、早く言えよ……自分でも分かるよ、俺はもうすぐにでも意識が途切れる…………。
「最後のスイッチを押したのはね、兄さん自身だよ。田倉家の面々の前で公開告白なんてしちゃうんだもん。おじさんとおばさんも、表面上は渋りつつも内心はガッツポーズを取ってただろうね。あらゆる面でトップの兄さんを、厄介事の種だったはずの娘が射止めたんだから」
違った、俺の告白に……何より喜んでたのは、田倉のご両親で……美琴自身は……。
「実の両親からのプレッシャーと、好きな人の忘れ形見からの鬼気迫る空気。断れる空気の告白じゃなかったよね、微妙に言葉は濁してたけどさ。あたし達のお父さんが好きなお姉ちゃんは、屈辱やら何やらで顔を真っ赤にしてたよ。
でも、そこでお姉ちゃんはもっと嫌な事実に気づいちゃった。『それ』が、おじさんとおばさんに初めて認められた事だったって」
ま、まさか…………。
「お姉ちゃんは、自分が田倉家の『アクセサリー』でしかないと知っちゃったんだ。ずっと気づかないままでいたかったのに、って泣いてた。その上で、異性としては見ていない兄さんと付き合わざるを得ない。
お姉ちゃんは兄さんを憎んだよ。同時にあたしも、大好きなお姉ちゃんをそこまで追い詰めた、田倉のおじさんとおばさんに殺意を抱けた。
それでまぁ、あたしが15歳になった時に死者蘇生ボタンでお姉ちゃんを蘇らせる。っていう空手形が前提な上に、一度はお姉ちゃんがストーカーに殺されるっていう今回の計画を、それでも最後には決断してくれたよ。
ずさんで穴も多い計画だけど、それでも邪魔な奴らを一気に排除できる機会だから、って」
俺の告白が……美琴や田倉家を崩壊させた…………原因?
「そして、義理と面子を非常に重んじるからこそ、田倉のおじさんとおばさんに選択肢はなかった。体面上愛している娘が死んだら、死者蘇生ボタンを押さざるを得ないもんね。そうして、田倉のおじさんおばさんの排除も完了。
それでもなお、あたしの愛情が兄さんに負けてる可能性はあった。そこが最後のハードルだったけど……今の兄さんは男子中学生だからね」
俺の……愛情……性欲…………。
「兄さんが、父さんと美琴お姉ちゃんのどちらを対象としてボタンを押すか悩むのは想定内だったから、煽るための台詞は事前に考えておいたよ。面白いように吹っ切れてくれたね? 『女の幸せ』とか言って、お姉ちゃんのヤリまくる事を連想させるのも忘れなかった。
多分、お姉ちゃんの正義感な行動に、純粋に惚れていた頃の兄さんなら、お姉ちゃんを蘇らせられたと思う。でも、あたし達は気づいた。年々、美琴お姉ちゃんが育つに従って、兄さんの視線に性的な物が混じって行く様子を。『清い交際』を約束させられたのに、お姉ちゃんのお風呂を覗きたがるほどの性欲を。
だから、『15歳未満は押せない』っていう死者蘇生ボタンのルールには感謝だね。結果的には、あたしがお姉ちゃんに向ける想いの方が兄さんを上回った」
……美琴……父さん…………俺は………………強く……………………。
「大丈夫、後の事は任せておいて。これから2年後に、15歳になったあたしが美琴お姉ちゃんを蘇らせて、更にその後にお姉ちゃんがあたし達の父さんを生き返らせる。そうして、ストーカー事件から始まった悲しい死の連鎖は断ち切られるの。
その結果、父さんとお姉ちゃんとあたしとで、とってもとっても幸せに過ごせる! 死んじゃった田倉のおじさんおばさんや、ついでに兄さんの分まで、そりゃあもう幸福に!」
…………俺は………………どこで…………………………。
「さてと、それじゃあちゃっちゃと後始末に取り掛からないとね! 一斉に4人も死んだから、葬儀も大変だよ。でも、いずれ来る幸せのための、必要な手間だと思えばね!」
暗くなる俺の視界の前では、妹が一つのボタンを弄んでいる。それは、大好きな女の子に裏切られた象徴。それは、尊敬していた父さんを裏切った象徴。それは、『死者蘇生ボタン』と呼ばれている。