原稿用紙三枚分の喜怒哀楽 ―哀:離別の末―
彼女が私に別れを切り出したのは、あまりに唐突だった。それは、彼女にもまだ内密に結婚の準備を着々と進め、彼女との将来を夢見ていた私には大きな痛手だった。私の夢は触れたと思った瞬間にするりと指の間から逃げ去ってしまったのだ。その運命に抗えなかった私は、彼女が去っていく姿を黙視しているしかなかった。
それからの私は茫然自失としていて、全く使い物にならなかった。部屋の中は乱雑し、すっかり昼夜逆転してしまった。彼女にプロポーズしようと選んでいた指輪は棚奥へとしまい、滅多なことでは取り出せないようにした。実をいうと、破棄しようと思ったのだが、私の中の何かがそれを頑として許さなかった。
数年して、私は彼女に再会する機会を得た。転勤先の会社の近くに、彼女の家があったのだ。かつて幾度か通ったこの地を見、懐旧し、哀泣し、そして何故か憤怨した。私はいつも、その家になるべく近寄らないように、わざわざ遠回りして帰宅した。誤ってその家をみると、私の中の何かが溢れ出し、爆発しそうになった。
私が仕事を続けていたのは奇跡に近い。しかし、元より熱は入らずに、今にクビを切られそうだ。この転勤先の労働状況は劣悪だった。社員は皆目の下に隈をつくり、頬が痩けていて、労働組合もない。労働組合くらい、組織してもよかったし、一般組合に加入してもよかったのだが、それもかったるくてする気になれない。クビならクビで構わない、なんなら死んでもいい、と次第に自暴自棄に陥っていった。
そんな折、私は一時の気まぐれで避けてきた彼女の家にひょいと足をのばした。そのときの私は彼女と付き合っていた頃の私とは全くの別人だった。脂ぎった髪には雲脂が沢山付着しており、タバコを吸う回数は多くなっていて歯が黄ばんでいた。酒を濫飲するようになり、二日酔いに苦しみ、泥酔して暴力を振るい、警察に補導されてもいた。
そんな汚らしい私を彼女は出会った頃と変わらずあたたかく迎えてくれた。あまりに同じで、昔みたビデオを再生しているかのようだった。まるで私のことなど忘れたかのようで、事実そうなのかもしれないと思った。
彼女はコーヒーを出してくれた。砂糖やクリームは嫌いだったのを覚えてくれているのか、出てこなかった。そのことに私は小さな喜悦に浸った。
彼女は空になったコーヒーカップをさげ、台所へと向かった。彼女はなかなか戻って来なかった。心配になった私は台所を覗き、驚愕した。俯いた彼女の頬には万斛バンコクの涙が滴り、その瞳は兎のように赤に染まっていた。
やがて慟哭し始めた彼女を流石に無視するわけにはいかず、私は彼女に近寄り慰撫した。だが、彼女は私の言葉に耳も貸さず、懸命に泣いていた。彼女の涙の玉は水垢のついたシンクに落ち、砕け散って霧散した。