【2】
見渡せば見渡す限りに森の緑が広がっている。
森は静かだ。生い茂る木々を撫でる風の音と、獣の呼吸だけが空気を支配している。
人気のない村外れの森に佇む小さな家には、妖精学者の姉弟が暮らしていた。
『あたし、妖精学者なの』
普段滅多なことでは動じないリゼットもこれには絶句した。
翡翠・アプロディーテ。朗らかかつ和やかで、包容力に溢れた少女。今年で十七歳になったという彼女は、年若いにも関わらずルミエールの村外れで開業している。
妖精学者。その一言には下手に剣で斬られるよりもダメージを与えられたリゼットである。
妖精とは何の童話だ、下らない。そう言えたならどれだけ楽だっただろう。リゼットは自分を助けてくれた少女を邪険に扱うことはできなかった。
(どうしたものか……)
妖精云々より深刻なのは、ここがセレン島という偏狭の島国だということだ。
島から外への定期船はひと月に二本。これだけでも目眩がする事実だというのに、十一月下旬から一月下旬まではその定期船さえこないらしい。
セレン島は冬の寒さが厳しい土地ではないものの、海が荒れるので船が出せないとのことだ。
ただでさえパスポートを失い――貴重品は全てあの船の中だ――今後の移動手段が狭まりそうだというのに、今からふた月も島から出られないとは何の冗談か。いや、寧ろ冗談であってくれた方が良い。
「無理しないで、リゼ。まだ寝てなきゃ駄目よ」
翡翠は海岸に打ち上げられていたリゼットを見付け、目覚めぬ半月もの間、看病をしたという。
「これ以上寝ていたら身体が鈍る」
翡翠のする手当ては消毒をし、包帯を取り替える程度だ。
狭い土地柄、余所者がやってきたというだけで騒ぎなのに、それが太刀傷を負った身元不明の女となれば怪しまれない方が可笑しい。翡翠はリゼットを村の診療所へ連れて行くと言ったのだが、リゼットはそれを拒んだ。
迷惑は掛けたくなかった。
ろくな治療をしていないので傷は未だに完治していない。
水の魔術――所謂、治療術――で幾らかは塞いだのだが、内部の傷まではどうにもならなかった。今でも身体を動かすと耐え難い痛みが腹部を襲い、悶絶することになる。
「……それに、自業自得だから」
小さな呟きは翡翠の耳には届かない。
翡翠は花瓶に花を生けていた。鼻歌混じりに花を弄る姿は何とも幸せそうで、その姿は【普通】の環境で育った少女そのものだ。
リゼットが殺人者で、世界を恐怖に陥れた【破壊の使徒】だと知ったら、翡翠はどう思うだろう。
人の善意や好意を根本的に信じており、悪意や敵意というものを信じていない節がある翡翠だ。その彼女にとっても、こんな傷を負って海岸に倒れていたリゼットは【異常】な存在だろう。
翡翠はあまり多くを訊かないが、彼女の弟はあからさまというほどにリゼットを警戒していた。
「見て! 綺麗でしょう」
振り返った翡翠が持ってきたのは、ごつごつとした枝に小さな花弁がついた枝花だった。
「それは春の花じゃないのか?」
名前は知らないが、薄桃の花は異国の地に咲く春の花だ。
東海国では春になるとその木の下で酒を飲み交わして語らうのだと、博学ぶった異父兄が話していたのを思い出す。
「妖精の国に四季はないわ」
「過ごしやすそうだな」
「うーん、どうだろ。今度一緒に行く? お弁当持ってピクニックをしたらきっと楽しいわ」
リゼットは目を見張る。翡翠は構わずにっこりと微笑み、提案を続けた。その夢幻の輝きを秘めた瞳はきらきらと楽しげに輝いている。
翡翠が本気で言っているのはリゼットも分かる。だが、彼女が正気なのかは分からない。
「琥珀は嫌がるかもしれないけど、リゼの快気お祝いならきてくれるわ」
琥珀とは、翡翠の二つ年下の弟のことだ。
彼は翡翠の弟にしては真面目な性格で、妖精学者をやっている割に現実主義者だ。
「うん、絶対楽しいわ! 怪我が治ったら行きましょうね、リゼ!」
「……あ、ああ……」
そうだな、とリゼットは躊躇いがちに頷く。微笑でも添えてみようかと思ったが、無理だった。
こんなトリップするところがなかったら普通の良い子だろうに、と思わず考える。
リゼットは真面目にそう思い、視線を逸らした。しかし、翡翠があまりにもじっと見つめてくるので首を捻る。
「私に何か?」
「リゼの左肩、小人がいるの」
彼女の円らな瞳が捉えているのはリゼットではなく、左肩に乗っているらしい妖精だ。
ふにゃりと無害そうに笑んでみせながら、翡翠はリゼットの顔の横を指差した。
「乗っているのか?」
「うん、跳ねてる」
リゼットは自分の左肩と、翡翠の顔を交互に見やる。
そう言われると背後霊でも憑いているようで気味が悪いし、心なしか肩も重い気がしてくる。リゼットは基本的に非科学的なものは信じない性質だが、純真な翡翠には毒されそうになってくる。
(夢見がちと言うのかな……)
リゼットが硬い愛想笑いを張り付けつつ相槌を打っていると、ベッドの縁に腰掛けた翡翠がくすっと笑う。緑色の目を細め、何処かくすぐったそうに。
「こういう話をして引かないの、リゼが初めてよ」
「そう……」
いや、実際はそれなりに引いている。引いているというよりも、反応に困っている。
ただ趣味嗜好は人それぞれだ。だから傷付けないように話を合わせている。
翡翠は人の善というものを盲信している節がある。そんないたいけな少女をどうして傷付けられようか。リゼットは彼女を騙しているようで罪悪感を覚えた。
(貴方はどうして人を信じられるの?)
村の何やらでこの家を訪ねてきた女が、気味の悪いものでも見るような目で翡翠を見ていたのをリゼットは知っている。それでも翡翠は微笑んでいる。
午後になると、翡翠の弟が学校から帰ってくる。
「リゼットさん、ここの問題分かります?」
「宿題は自分でやるものだ」
「そんなこと言って、本当は分からない癖に」
「莫迦にするな」
リゼットは少年が持っていた問題集を奪う。
一目見た瞬間、高等数学の数式の羅列にくらりと目眩がしてリゼットは顔を顰めた。
「あーあ、早くやらないと冬休み始まっちゃうのに」
冬休みの宿題を休み前に終わらせたいらしい少年は、リゼットから問題集を取り返すとそれを閉じた。
彼は、琥珀・アプロディーテ。プディング色のショートヘアに、名前と同じアンバーの大きな双眸。ぱっと見は少女のように柔和な容貌を持った十五歳の少年は、噂の翡翠の弟だ。
琥珀はこうして宿題の答えを訊きにくるが、リゼットが答えられることは極めて少ない。それでも定期的にやってくるのは、リゼットを警戒しているからだろう。勉強というのは建前で、様子を見にきているのだ。
「取り敢えず、その音楽を止めたらどうだ」
「音楽がないと集中できません」
「それが思考の邪魔をしていると思うんだが」
琥珀が耳に掛けたヘッドフォンからはシャカシャカと耳障りな音が漏れている。
「人それぞれです。人のやり方に文句付けないでくれませんか? 不愉快です」
「だったら自分の部屋にでも籠もって真面目にやったらどうだ?」
「居候の貴女に言われる筋合いありませんよ」
助けてもらった手前、あまり強い物言いはできないのだが、リゼットは琥珀が苦手だ。ふとした会話で詮索されていることが分かるから気分が悪い。
姉があんなにおっとりとした人物なのに、弟は随分しっかりしている。それとも姉がああいう風だからこそ、弟がしっかりしているのだろうか。
何故海岸に打ち寄せられていたのか、何故そんな怪我をしているのか。
リゼットは質問をされるその度に白を切ってきたが、二週間を過ぎるとそろそろ苦しくなってくる。
そんな油断のならない相手が黙って佇んでいるので、リゼットは思っていたことを問うた。
「お前の姉は物語が好きなのか?」
しかし、問うてから気付く。琥珀も妖精学者だということに。
琥珀はおもむろにヘッドフォンを外し、音楽プレイヤーのスイッチを切った。
「姉のこと、普通じゃないと思っているんですね」
「そういう訳じゃない」
「良いですよ。事実ですから」
その顔は真面目で、その物言いは冷めたものだった。
「まともである訳ないでしょう。僕の姉なんですから」
琥珀はリゼットを冷ややかに一瞥して、はあと嘆息する。呆れ混ざりの何処か勝ち誇った表情だが、リゼットには意味が分からない。
(余計なこと訊かなきゃ良かった)
妖精学者とは妖精から力を借りて魔術的な問題を解決する者で、彼等は人目を避けて静かな森で暮らすこと好むらしい。つまりは、琥珀にも妖精が見えるということだ。
けれど、彼はそんな素振りは微塵も見せない。寧ろ、そういう普通ではないことを否定する人物だった。
「あー、でも良かったー。リゼットさんが少しはまともな人で」
琥珀が棒読みの歓声をぼそりと上げる。
「でも、僕は甘っちょろい姉さんみたいに怪しさ満載の貴女を信用したワケじゃないから。だから怪我が治ったらとっとと出て行って下さいね、胸のない不審者さん」
それまで極力我慢していたリゼットだが今回ばかりは盛大に頬を引き攣らせた。
子供の発言とはいえ、異性にそのようなことを言われる筋合いはない。
「言われなくとも治ったら出て行く。生意気な子供の相手は疲れるからな」
「へえー」
今にも罅割れそうな偽りの笑みがぶつかる。
両者共に笑っているものの、二人の間では一触即発の緊張が漂い始めている。
その時、空気を読まずに踏み込んできた少女がいた。
「リゼ起きてる――って、琥珀!」
「あ……、翡翠姉さん……」
不意打ちを食らいぽかんとする琥珀であったが、すぐに腹黒い笑みを消して、対・姉専用の天使のような純白の微笑みを浮かべる。
どうやら彼は、姉の前では天使のように可愛い弟という設定でいたいらしい。
余計なことは言うなと無言の笑顔で訴えられ、リゼットもそれを笑みで返した。その間にも胸はどんどん冷たくなってゆく。
微笑み合うリゼットと琥珀の間で、翡翠はきょとんとする。
「どうしたの、ふたりとも? 早く夕飯にしましょう?」
無駄にぴりぴりとした空気の立ち込めた部屋で翡翠は首を傾げた。
赤い夕日が部屋にたっぷりと満ちていた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
暖炉の炎を消したことによりリビングの空気はひんやりと冷えている。
窓辺のロッキングチェアに座り、膝の上に乗った猫の背を撫でているのは翡翠だ。
階段を下りる途中から姉の鼻歌が聞こえていた。足を止めた少年の瞳に、姉の歌を聴き入るように周りを囲む妖精たちの姿が映る。
しかし、それはほんの数瞬のことで、何も見えなくなった琥珀は彼等の存在を気にせずに声を掛けた。
「リゼットさん、寝たみたいだよ」
「そう、良かった」
翡翠は猫の喉をくすぐりながら、安堵の溜め息をつく。
「あんまり眠れていないみたいだけど、今日はホットミルク飲んだから大丈夫かしら」
リゼットは毎晩のように魘されているらしい。あれでは精神的に疲れてしまって治る傷も治らないと翡翠は心配している。
(あんな人、信用できないよ)
実の弟の琥珀でさえも、翡翠は底なしのお人好しで莫迦みたいだと思っていた。
琥珀は内心溜め息をつく。姉へはまだ言っていないが、気になることが幾つかあるのだ。
「今度ね、リゼと買い物に行くの」
翡翠が夕食の後から妙に上機嫌なのはそれがあるかららしい。琥珀は呆れた。
「村の人に訊かれたらどうするわけ?」
「あたしの親戚よって答えるわ」
(妖精界からの訪問者って言った方が姉さんらしいけど)
そう説明した方が自然で疑われないかもしれないと、琥珀は真面目に考える。
「あの人、姉さんと買い物って柄じゃないと思うよ」
「リゼって男の子みたいな喋り方だけど、普通の女の子だと思うの」
そうだろうか。琥珀には彼女が何処かの部隊上がりの傭兵にしか見えない。
翡翠も気付いていると思うが、リゼットの腹部の傷は鋭利な刃物によって刻まれたものだ。本人に問うと、事故で負ったものだと返されたが、琥珀はそれを信じるほど幼くも、また愚かでもない。
「姉さん、最近あの人のことばっかりだね……」
「そうかしら」
姉にとって彼女が初めての友達なのだということは知っている。例えリゼットの方はそう思っていなくとも、姉はそう思っているだろう。誰かに依存したように懐く姉を琥珀は初めて見た。
「……もう寝るよ」
「おやすみ。あたたかくするのよ」
「うん、姉さんもね」
氷のように冴え冴えとした月が鬱蒼とした森を静かに照らす夜。初雪が降った今日は、長い冬の始まりだった。
** 初出…2009年6月25日