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【第一幕完結】レゾンデートル  作者: 瑠樺
一章 少女と妖精
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【1】

 波の音が聞こえる。

 柔らかく心地良いものがさらさらと頬を撫でた。

 リゼットはきつく閉じていた瞼をゆっくりと開き、ぼんやりする意識の中、瞬いた。


(ここは……?)


 顔を上げると、ここが何処かの浜辺であることが分かった。白い砂浜に青い波が寄せては引いている。

 前方にはさざめきの止まない海、そして後方には夜明かりの中で青々と輝く雄大な森が広がっていた。それは機械に囲まれた聖帝国生まれのリゼットにとっては思わず息を呑むほどの大自然だ。

 砂浜に手をついて身を起こす。四肢の感覚ははっきりあるものの、どうにも言い表せない非現実的な感じがして、リゼットは砂で汚れた手で額を押さえた。

 ずきずきと頭が痛み、その頭痛から吐き気も込み上げてくる。リゼットは小さく呻く。


「人は無茶をする……」


 何処からか澄んだ流水のせせらぎのような声がする。

 リゼットがはっと振り向くと、月光の下で青白い美女が困ったような曖昧な笑みを浮かべていた。

 抜けるように白い肌に、朝の海のようなゼニスブルーの髪。マラカイトの瞳は夏の新緑のように青々と爽やかでありながら、冷たさも持ち合わせている。存在することが嘘のような美女がこちらに眼差しを送ってきていた。


「貴方は――っ」


 声を出そうとして、リゼットは咳き込んだ。

 胸の奥から奇妙な塊が込み上げてきて吐き出さずにはいられない。咄嗟に口許にあてがった掌に広がったのは、どす黒い血だった。


「……あ…………」


 理解した瞬間、息ができないほどの痛みが下腹を襲った。

 右の横腹を見ると服が黒く染まっていた。これは、かつての上官に与えられた傷だ。

 彼女は償うことはできないから眠れと言い、リゼットを海に棄てた。

 冷たい海に沈みゆく中で自分の中から血が抜けていくのを感じ、リゼットはそのまま意識を手放した。あの状態で晩秋の海を漂い、この浜辺に打ち上げられたというのだろうか。

 何かの冗談だろう。例え奇跡が起こったとしても、生きているはずがなかった。

 リゼットは存在すら怪しい謎の美女を見据えた。


「あなたが……私を助けてくれたの……か?」


 凍えるほどに寒いのに声を出すと額には嫌な汗が浮かんだ。耐え難い痛みを放つ傷口からは血が止まらない。

 目が霞んできたリゼットは懸命に意識を繋ぎ止めようとするが、体力は既に使い果たしていた。


「お前はまだ死んではいけない」


 真っ暗で何も見えない。音も聞こえない。寒さで身体が悴んで思うように動かない。


(……寒い……な……)


 身を切る寒さの中、このまま死んでしまえたらどれだけ楽だろうと思ったことは一度ではない。

 【彼】がいなくなってしまう前もその後も、冬はリゼットにとって嫌な季節でしかない。

 真っ白な雪が全てを塗り潰してしまう、悲しい季節。思い返すと、あの出会いはとても寒い日の夜だった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



「あんたたちが母様を殺したんだ!」


 少女は憎しみを閉じ込めた目をしていた。

 その顔は十五という年齢に相応しい幼さもあったが、気品があり冷たく整っている。擦れ違う者が思わず息を呑むほど、将来の美貌の片鱗を見せ付けていた。


「大人しくしろ」

「離せえっ!」


 腕を後ろで捻り上げられ、身体が悲鳴を上げる。それでも少女は抵抗を止めなかった。

 十二歳の誕生日、少女リゼットは母親を射殺された。

 母親は恨みを買うような人物ではなかったので、はっきりとした理由は分からなかった。ただ、母親の前夫が国の高い地位に就いていて、民衆に恨まれているということは噂で知っていた。

 母親はその男と別れ、リゼットの父親となった魔族の青年と再婚した。その父親はリゼットが物心付く前に流行り病で逝ってしまった。

 残された母子に人々は手の平を返したように冷たくなっていった。別れたとはいえ、母親は悪名高い前夫の子供を――リゼットの異父兄に当たる――産んでいた。

 本人には手が出せないから代わりに弱い存在に当たる。人の感情とはそういうものだ。


『りっちゃん、お誕生日おめでとう』


 誕生日はプレゼントを貰い、ケーキを食べて、生まれたことを祝う楽しい日。

 母親はいつもリゼットの頭を撫でてくれた。あの日もそうだと思った。それなのに、雪の降る七月二十七日はリゼットにとって忘れたくても忘れられない日になった。

 幼い少女が誕生日という日に持っていた無邪気な認識は、最悪の出来事で塗り替えられてしまった。

 物置に押し込められて、鍵穴から息を殺して見ていた。

 美しい母親が軍服を纏った男たちに辱めを受け、銃殺される姿を、はっきりとこの目で見た。

 唯一の家族を失ったリゼットは都の闇に身を染めて生きてきた。幾重の屈辱を耐え忍んで、生きていく術と力を手に入れた。

 そうして機会が訪れた。

 スラム街に軍の幹部がある事件の調査をしにくるらしい。その情報を手に入れたリゼットは賭けをした。

 思い描く通りに事は進み、リゼットは盗人として捕らえられた。そして軍人たちに引き渡されるという時、彼等に銃を向けた。

 軍人なら誰でも良かった。母親が受けた屈辱を晴らせるのならば、誰だって良い。

 母親を辱めた兵どもが憎い。それ以上に笑って見ていた佐官が許せない。


「母様を返して……!」


 隠し持っていたナイフで下っ端二人を戦闘不能にしたまでは良かったのだが、真打ちを殺る前に、別の兵に捕らえられてしまった。


「貴方の母親とは誰のことですか?」

「スカーレット・レインウォーターの前妻、ミレイユよ! 忘れたとは言わせない!」


 向かい合う銀髪の青年は皺一つない濃紺制服を隙なく着こなし、涼しげなエリート面をしているいかにも士官学校出の佐官といった風体で、その落ち着き払った態度はリゼットの神経を益々逆撫でた。

 彼は目深に被った帽子を僅かに持ち上げると、物静かな眼差しを真っ直ぐと向けてきた。


「ミレイユ……、シュトレーメル夫人のことですか」

「やっぱり心当たりがあるんじゃない!」


 殺してやる――!

 リゼットは飛び掛ろうとするが、もがけばもがくほどに腕は締め上げられ、肩が外れそうになる。


(このまま捕まって、終わりなんて……)


 悔しさとやるせなさでリゼットは赤い瞳から大粒の涙を流す。

 泣きながら真っ直ぐと己を睨み据えてくる少女の様子に、青年は孔雀色の瞳(ピーコックアイ)をじっと眇めた。


「ブランディッシュ大佐殿、この娘をどうしますか?」

「どうとは?」

「上はあの件の話題を嫌っていますし、こういう火種を持ち込むのは如何なものかと」


 暗にこの場で始末しろと言っているようなものだ。

 リゼットはせめてもの抵抗と男の爪先を踵で踏み潰したが、材質が特殊なのかびくともしなかった。

 うなだれたリゼットの前で、ブランディッシュと呼ばれた銀髪の青年は顎に手を当てて暫し思案する。


「そうですね。では、我が隊に加えましょう」

「はい?」

「な……」


 間抜けな二つの響きはリゼットを拘束する男と、リゼット自身のもの。


「名は何と言うのですか?」


 青年は我ながら妙案だというように頷き、訊いてきた。リゼットは唖然とする。

 リゼットを正面から見つめ返す青年の瞳は透き通り、表情は硬く引き締まっていた。

 冗談ではなく、本気だった。


「……リゼッティ」


 気付けば、唇は勝手に動いていた。


「私はスレイド・ブランディッシュです。リゼッティ、貴方は今日から私を殺す為に我が部隊へ入りなさい」


 彼は部下にリゼットの拘束を解くように命じ、取り上げた銃も返した。

 銃を受け取ったリゼットは数瞬、考える。涙は既に止まっていた。


(武器を返すなんてバカ?)


 こちらは承諾した覚えなどはない。銃を返せば牙を向くとは考えていないのだろうか。

 この時のリゼットは知らなかったが、スレイドは二丁拳銃の遣い手で、例えリゼットが武器を向けようとしても、それよりも早く射殺できる自信があったのだ。


「あんた、何を考えているの?」

「上の不始末は私にも背負う義務がある。だから命を狙われて差し上げましょう」


 尤もなことだが事柄が事柄だけに、いかれているとしか思えない。


「いつ寝首を掻くとも知れないわ」

「それは私に運と実力がなかったからでしょう」


 とんとん拍子で話が決まっていくので、取り残された男は控えめに忠告を入れた。


「不穏当な発言は謹まれた方が良いかと。そもそもこのような小娘を傍に置くのは納得しかねます」

「命を狙う者は目の届くところに置いた方が安全ですよ」

「大佐殿……」

「責任は全て私が取る。私の指示に従って下さい」

「はい」


 困惑の返事をする男と同じように、リゼットも訳が分からない。

 だが、確実に言えることが二つある。

 それは軍内部に潜り込め、尚且つ標的(ターゲット)の近くにいられるということ。そして、標的たる人物が少々歪んだ人格の持ち主だということだ。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 音が聞こえる。風の音、獣が走る音、鳥の囀り。時計の振り子が時を刻む音だろうか。

 目覚めると、リゼットは寝台の中にいた。古めかしい木造の天井が広がる見覚えのない部屋だ。窓から射し込む白い光が辺りを柔らかく包み込んでいる。

 チチ、と窓の外から小鳥の囀りが聞こえてきた。

 リゼットは静かに身体を起こした。


「ゆめ……」


 昔の夢を見るなど、末期だ。

 彼の仇打ちなんてもう止めてやると思ったのに、心が否定しているとでもいうのだろうか。

 それにしてもここは何処だろう。船から落ちてからの記憶が途切れ途切れのリゼットは自分の置かれている状況が分からない。脇腹の傷を見ると、清潔な包帯が巻かれていた。


(誰が手当てを……)


 考えども思い出せない。そうしていると部屋に入ってくる人物がいた。


「ああ、良かった。目が覚めたのね」


 手に色とりどりの花を持ってやってきたのは十代後半くらいの少女だ。

 光の加減で黄緑にも見える金髪はほつれがなく、ジェードグリーンのきらきらとした瞳が印象的だ。

 少女は花をテーブルの花瓶へ挿すと、人懐っこい笑みを浮かべてゆっくりとリゼットの傍にやってきた。


「ここは何処だ?」


 枕元に寄る少女にリゼットは問うた。


「あなた、海岸に倒れてたの。ここはルミエールよ」


 霞んだ記憶が徐々に像を結んでいく。

 暗殺の失敗、船から落下、流れ着いた謎の場所。少女によるとここはルミエールという場所らしい。

 ルミエールとは聞いたことのない都市の名前だ。一体何処の国なのだろう。知りたいことは多々あるが、まずは訊かなければならないことがある。


「お前は?」

「あたし? あたしはこの村の妖精学者(フェアリー・ドクター)翡翠(ヒスイ)よ」


 人の良さそうな少女は胸に手を当て、舌足らずな声でそう名乗った。

 人畜無害そうな笑みに一瞬絆される。だが、【妖精】という突拍子もない言葉にリゼットは返す言葉を失った。

** 初出…2009年5月10日

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