【10】
すっかり日が落ち、濃紺の闇が広がる外にはまたちらちらと雪が降っている。
アジトの応接室でチェスに興じていたレナードに瑠璃はぼやく。
「基盤を引っくり返すには足りないものが多いな……」
北国での作戦を計画していた【黄金の暁】。
大きな作戦ではないので、フェイトを統監として数名の仲間たちを行かせることになっている。
その作戦会議が終わり、もう少しで日付が変わるという頃、瑠璃は苦い思いを吐き出した。
疲れているなと思いつつ、レナードは敢えてそのことには触れなかった。
テーブルに焼き菓子が残っていたので口に運ぶ。必要以上に糧を取るのは好ましくないが、この数ヶ月の不摂生で脂肪どころか筋肉まで落ちてしまったので、何かしら腹に入れなければならない。
素早く剣に振るうには、脂肪がありすぎても筋肉がありすぎても駄目なのだ。
脂肪は体力の一部のなので適度に付けなくてはならない。反対に筋肉は重く、素早い動きをするには邪魔になる。かといってなければ剣の重さを支えられない。つまりは脂肪も筋肉も必要なのだ。そのバランスを維持することがプロというものだが、レナードは傭兵を名乗っているだけなので意識が欠けている。
魔族の血を引いている割に体格に恵まれなければ、才能も魔術師寄り。金持ちの家に生まれたヴェノム。そんな育ちもあって幼少の頃は剣を持つこともなかった。
父のいる家を飛び出し、スラムの破落戸たちと暮らす中で我流の剣術は身に付けた。レナードはアリスティドの名で、聖帝国に喧嘩を仕掛けた。オリヴィエの片目を潰したのもその頃だ。
人間はあまりに弱くて手応えがなかった。だから、傲っていた。
破壊の限りを尽くしていた赤眼の悪魔を潰したのは【白い悪魔】――ロマン・フォン・テーオドリヒ。
出逢いではなく、再会だった。
完膚なきまでに叩きのめされたレナードは、テオに武術の手解きを願った。ヒオウを倒すという少年にハクオウは喜んで稽古をつけた。
聖帝国を出てからはテオと戦場を渡り歩き、そんな中で出会ったのが【黄金の暁】だ。
「オレも参加した方が良いんじゃない?」
「お前は帰還したばかりだろうが」
明日フェイトたちが向かうのは、常闇公国ミッドケイヴ。ルノアール大陸にある大都市で、名前の通り闇に閉ざされた国だ。
第二の聖帝国とも呼べるような近代的な都市は光が途絶えることがない。その摩天楼に【黄金の暁】の拠点の一つがあった。
聖帝国と同盟を結ぶ常闇公国には特殊部隊の基地があり、それを恐れて大きな活動は行ってこられなかった。
だが、【CriMe】常闇公国支部の総長であるクリスティアン・べレスフォードをレナードが殺害し、副官である【蒼昊】という者も現在、国を離れているという。
この機会を逃しはしない。幸い基地の規模は小さいのでフェイト、オリヴィエ、アルレッキーノ、ファントムといった少数精鋭で片付けることになった。
今回の作戦で西海国に残るのはレナード、瑠璃、ベルセルク、怪我人のシルベス。そして、旧都サルツブルクの守護をするヴィルジール・ローゼンミュラーだ。
「大体お前を北にやったら誰があの女の首根っこ掴んでいるんだ」
「リゼットはそんなに信用されてない?」
「そういう訳じゃない。お前もあいつもまだ本調子ではないだろう。同族とやらは近くにいた方が良いんじゃないか」
「お生憎様、オレはそこまで慕われてないよ」
心を許してくれたように見えて、しっかり壁は作られている。
間合いを図っているというのだろうか、リゼットは己の根っこの部分は厳しく守っているのだ。
レナードもまた本音は見せないし、抱え込んだとしても懐までは踏み込ませない。レナードとリゼットは他人が思うよりもずっと冷静で、冷めている。
だが、それは当たり前のことだ。
別々に育った他人が簡単に分かり合えるはずもない。信頼関係を築くのはとても難しい。焦らずに見極めていこうと、レナードは考えていた。
「結局、信じることにしたのか?」
「女は平気で嘘をつくからまだ分からない」
そういう意味では「嘘をつかない」というリゼットの誓いは幸いだったのかもしれない。
「裏切られて痛い目に遭う可能性がないとは言えないけど、危なっかしくて放って置けないんだ……」
墓参りの夜、彼女は殺せと涙を流した。
レナードは彼女の泣いている顔を見たら、支えられるか悩んでいたことなんて吹き飛んでしまった。ただ守ってやりたいと思ったのだ。
あのような顔は見たくない。
あれは悲しみという感情すらも焼き付くしたような凄絶な悲嘆の表情だった。
彼女は不安定だ。己の闇を知ってしまったというだけではない、もっと他の【何か】に心を囚われている。そうして寄る辺なく流されているから放って置けない。
(渡さない)
子供時代に愛に飢えた影響からか、レナードは即物的かつ物欲が人より強かった。内側には【黄金の暁】という居場所を失いたくないという思いや、同族を誰にも渡したくないという欲がしっかりとある。
(あいつらにはやらない)
この居場所と同族だけは、絶対に。
父親と異母兄にだけには渡さない。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
青い暗闇。ひんやりとした闇を照らす明かりはない。
地下街へ案内され、水路沿いの一軒を与えられたリゼットは寝台に寝転がっている。
地下数キロに渡って広がると先に説明を受けたが所詮は地下。寂れた場所だろうと高を括っていたら、あまりにも凝った内装に驚嘆してしまった。
在りし日のウェーベルンを再現したという美しい街。
――小橋が架かる細い運河の周りに犇めくように建物が並び、窓からは橙色の明かりが溢れている。天井には空が描かれ時間によって色合いを変える。浅葱色の水が流れる運河にはゴンドラが渡し船として浮かんでいて、船頭が目的の場所まで連れて行ってくれたりもする。
実はウェーベルン市内に人気が疎らで閉まっている店が多いのは、市民が地下街に出入りしこちらで商いをしているかららしい。
地下街には飲食店や日用雑貨の店も充実しているので、地上に出なくてもひと月は暮らせるだろう。
【黄金の暁】組員の中には訳ありで堂々と外を歩けない者――国外の指名手配犯など――もいる為、そういう者たちを匿う意味もある地下だという。
(変な感じ)
聖帝国を出てからというもの決まった住居を持たなかったのでリゼットは違和感を感じる。
ここは自分の家で、誰に荒らされることもなく、寝首を掻かれる心配もない。これはアプロディーテ姉弟の家に厄介になっていた時とはまた違う感覚だ。
リゼットは平穏に慣れることができない。
「怒ってる……?」
月と星の淡い光。青白く照らされるばかりの景色の中、リゼットは胸元のペンダントを外して、それを人工的な月明かりに翳すようにした。
二十歳の誕生日に貰って、何度か壊したり捨てようともして、先日やっと戻ってきた。
フローライトのペンダント。
その澄んだ翠色に咎められているような気がした。
復讐を止め、こんな地下組織に組し、あまつさえ同族の男に縋ってしまったことなど許されない。
絶対に許してくれはしない。冷たい氷の中で彼はきっと――。
「……っ」
暑くもないのに冷たい汗が体を伝い、慌てて思考を止めた。
思い出したくない。考えると気分が悪くなる。肺がぎゅっと締め付けられたような感覚に襲われ、リゼットは胸元を掻き毟るようにして寝台に突っ伏した。
呼吸が浅く、吐き出す量よりも吸う量が多くなる。
このままでは過呼吸になると分かっていたので必死で呼吸を、心を落ち着けようとする。
(私が死ねば良かった……私が死にたかった)
男の生贄など血を抜くための皮袋扱いだ。そんなものよりはまだ女の方が使い道もあるはずだった。
『お前のせいだ……!』
青緑の目。どうして彼は死んだのに彼は泣いていて私のことを殴って私の首を絞めて彼は私のことを――――。
記憶が混濁する。
「……レイ……」
冷たい寝台の上で、リゼットは眠りにつけることはなかった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
――それは数日前のこと。
どれほどの間、そうしていただろうか。プラチナを思わせる長髪を頭の高い位置で括った少女は瞬きもせずに暗い空に目を向けてじっと佇んでいた。
部屋の隅でランプの炎は明々と燃えている。
「シメオンがやられた」
紅の引かれた唇が、動く。
刹那、潰れるような痛みに少女は慌てて目を抑えた。
両目からはボタボタと赤いものが零れ落ちる。涙のように止まることなく流れ、頬とドレスの膝を汚した。背後では明かりがゆらりと妖しく揺れる。
少女は魔物と心を繋げる能力を持っていた。弱い魔物であれば意のままに操り、強い魔物であれば体の一部を乗っ取る。そんな類い希なる能力を駆使し、とある魔族の目から遠くの景色を見ていた。
だが、その魔族が死んだ。
彼が息絶える寸前に術を解いた。あと数瞬遅ければ失明していたかもしれない。
少女は長手袋を嵌めた手で目を擦ると、何度か瞬いた。睫毛で血が弾かれ青い瞳が現れる。
「やはり身体改造をしていない魔族は使い物になりませんわ」
冷えた唇を引き結び、少女はゆっくりと振り返った。
「【黄金の暁】、寄せ集めの癖に生意気ですこと」
「まあ、良いではないですか。人間集まれば何か面白いことをしてくれるかもしれません」
「だからわたしは早めに潰せと言っているんですわぁ!」
微笑を添えてにこやかに答える声は、少女がきっぱりと跳ね返した。
少女はヒールを高らかに鳴らして前に出る。そうして声の主の前で立ち止まった。
「閣下、マロニエに御命じ下さい。不快な共産主義者どもはすぐに叩き潰して御覧に入れますわ」
「マロニエ」
彼は形の整った唇で彼女の名を呼んだ。
床に膝をついた少女の前には、優雅なカウチに腰掛け、ゆったりと足を組んだ妙齢の青年がいる。
青み掛かった銀髪に孔雀を思わせる瞳。人間味を感じさせない彫像的な美貌。彼はマロニエの上司である。
静かな言霊は静止の意味。マロニエは赤い唇を噛み締めた。
「地下組織一つにむきになる必要はないのでは? それとも個人的な恨みでも?」
「……あなたはどうしてそこまで冷静でいられるんですの……」
「過小評価しないのは良いことですが、有象無象の跋扈跳梁を許したところで無駄な足掻き。驚異足り得るとは思えません」
「裏切り者のオリヴィエ・アルヴァレスはおろか、あのアリスティドまでいるんですよ! 加えてもう一人の赤目は反逆者の【氷の瞳】じゃありませんの!? これがどうして落ち着いていられましょう!」
キャラメルブロンドに血色の目という独特の組み合わせは一度見たら忘れない。
師が――クリスティアン・べレスフォードが始末したはずの【破壊の使徒】だ。ヴェノムなので下手に始末できず海に沈めたと聞いていたが、まさか生きているとは考えもしない。
師の仇であるアリスティドと、国家の反逆者【氷の瞳】が共にいるとは思わなかった。ヴェノムが慣れ合っているなどもっとおぞましい。マロニエは怒りで唇を戦慄かせる。
自分の部下にもヴェノムのペアがいるから分かる。彼等は相方がいてこそなのだ。
互いの血を吸い合い、生き続ける化け物。相手が死のうかというぎりぎりのところまで命を食い、むさぼり尽くし、それでも決して離れない。人間と言うにはあまりにも醜く、魔族と言うには貧弱。そのどちらよりも醜悪な獣、それがヴェノムだ。
彼等にとって近親婚も当たり前。マロニエの近くにいるペアは姉弟だ。
「【氷の瞳】……、ヴァレンチナの妹ですか?」
「忘れてしまわれましたか?」
そう言ったマロニエは年齢に似つかわしくない笑みを浮かべていた。それはある種の期待。
けれど、青年は自らを慕う少女を見ようともせずに呟く。
「リゼが生きていたのか……。ヴァレンチナは知っているのかな」
「どうでしょう。ヴァレン様のことは……あの方が何を考えているのかは分かりませんわ」
独り言だと分かっていても、マロニエは彼の気を引きたくて言葉を発する。
「ヴァレン様は恐ろしいです……」
人間のように振る舞うあの魔族は恐ろしい。
その妹だって何が詰まっているのか分かったものではない。スカーレットから妻を寝取ったという魔族の男も消されてしまっているではないか。
「心配要りません。あれはすぐに戻ってきますよ」
「マロニエを……このアデュラリアのことだけを見て下さい、ユフィリア様」
生贄の王子は今日も願う。血の涙を流しながらに切々と想いを伝える。
彼が昔の女のことなど忘れて、今ここにいる自分のことだけを見てくれるように。
**初出…2009年9月16日




