【4】
ウィルスはリゼットと視線を合わせると、くすりと笑みをこぼした。
昼は頭の高い位置で纏めていた金髪を背に揺らしながらウィルスは微笑み、ゆっくりとした歩調で近付いてくる。
「動くな」
リゼットの双眸が血色に閃く。瞬間、両者の間に氷の柱が立ち上がった。
牽制の為に魔術を使った。ウィルスは怯むどころか唇を更に濃い笑みを浮かべてみせた。
「【氷の瞳】……そんな名前の暗殺者が国にいたわね」
身元が割れていることにリゼットは顔を歪ませる。
ウィルスと廊下で擦れ違った時、嫌な予感はしたのだ。
リゼットはいつも【仕事】の時は金色の仮面で目許を隠している。だが、船という公共の場所ではそれは却って目立つ。なので昼は素顔を晒し、仕事の時だけ装着しようと思ったのだが、レナードの出現によって【破壊の使徒】の証である仮面を着けることができなくなった。
リゼットはグラスを掛けた右目を眇め、銃に手を伸ばした。
「何が目的かなんて問うのは愚問よね。貴女は誰が憎いというの?」
そう問うてくるウィルスは、部屋に置き去りになったはずのリゼットのガンブレードを持っていた。
何を思ったか、彼女はそれをこちらに投げ付けてくる。音を立てて床に落ちる刃物を黙って見つめたリゼットは眉を顰める。
「……何故だ?」
どうしてわざわざ得物を与えるような真似をするのだろう。殺すにしろ、捕らえるにしろ、武器を持っていない相手の方が遣り易いはずだ。
「得物も持ってない子を甚振るほど私は腐っていないわ」
ウィルスは皮肉めいた笑みを赤い唇に滲ませる。その直後、グラスがウィルスの周りに熱が生じるのを感知する。リゼットはすかさず剣を拾い上げると、相手の攻撃を受け止めるように構え、小さく唇を動かした。
「氷の盾よ――!」
グラスが感知した熱――ウィルスの両脇から風の渦が襲い掛かる。
リゼットの前に生じた氷の盾が風を防ぎ、削られた氷の破片が辺りに飛び散る。
「【氷の瞳】の名は伊達ではないわね」
「黙れ」
剣についた雫を払いながらリゼットはウィルスをきつく睨み付けた。
赤い瞳と、桃色の瞳が闇の中でぶつかる。
「私の戦う理由を教えてあげる」
「…………」
最期の言葉を聞いてやらないほど冷酷ではない。
どうせ出世の為だとか金の為だとか言うのだろう。そう高を括っていたリゼットにとってウィルスの言葉は衝撃的だった。
「貴女が殺した中に私の恋人もいたの」
予期せぬ言葉にリゼットは目を見開く。
「国立研究所のランフォード博士を殺したのは貴女でしょう?」
ザァァァッと空気を切るように、風が鋭く駆けた。
ウィルスの放ったカマイタチはリゼットを薙ぐ。肩口がざっくりと切れた。破れた服の間からぼたぼたと血が零れる。
しかし、リゼットは傷口を押さえることもせずにウィルスを直視し続ける。リゼットの感覚は麻痺していた。
「……覚えていない」
「貴女が覚えていなくとも、私は彼を殺されたことをしっかり覚えているわ!」
リゼットは現実から逃避するように首を振った。
今、彼女は何と言ったのだ。恋人と言わなかっただろうか。その一言に一瞬、全身の血が引いた。
「人殺し! 貴女が憎いから私は戦うのよ」
強い語調にリゼットは僅かに怯んだが、逃げることはしなかった。
言われるまでもなくその通りだ。
これまで自分がしてきたことを思い返してみれば、何をどう責められても仕方がない。目的は手段を正当化しないというのはレナードの言う通りだ。
だが、それ以上にリゼットも苦い経験をしているのだ。
「確かに貴方の言う通りだ。……だが、私にも目的がある」
「だから貴女の目的は何なの?」
「私の目的はあの方を――スレイド・ブランディッシュ閣下を殺めた聖帝国を倒し、人間と魔族を滅ぼすこと」
地を這うような低い声だった。
死人のような恐ろしい形相をしたリゼットと向き合うウィルスは何故か微笑んだ。
「莫迦ね。聖帝国を、ましてや魔族を滅ぼすことなんてできる訳がないじゃない」
嘲りを含んだ調子でそう言い、肩に掛かった長い金髪を背に払う。
「出来る出来ないの問題じゃない。やるんだ」
「可哀想に、強迫観念に駆られているのね。でも私はそういう律儀なところは嫌いではないわ、リゼッティ」
「…………お前は誰だ?」
「自分の標的も分からないの?」
「違う。お前は偽物だ!」
声を張り上げると、傷口が熱っぽく痛む。
痛みで顔を歪めるリゼット様子を見てウィルスは唇を三日月の形に曲げると、ふっと笑った。
(こいつはマイヤーズじゃない)
軍に所属していた時は番号で管理され、名前も【氷の瞳】というコードネームを使っていた。例え聖帝国関係者でもリゼットの本名を知る者は極一部を除いて存在しない。
目の前で嫣然と微笑むウィルス。彼女の薄桃色の瞳は、リゼットの知るある人物に似ていた。
「ベレスフォード教官……?」
恐る恐るその名を口にすると、ウィルスは何を思ったか自ら髪を掴み、それを持ち上げるように引っ張り上げる。顔がぐにゃりと歪み、皮が剥がれるように浮かび上がる。そう、これは精巧な覆面だ。
「――漸く気付いたか」
それは先ほどまでの甘く棘のある女性の声ではない、低く芯の通った太い声だ。
特殊工作部隊【CriMe】所属、ミッドケイヴ地区総長クリスティアン・ベレスフォード。彼女は軍に所属していた時の上官であり、リゼットにとって恩師とも呼べる人物だった。
「軍を抜けたら生き残れないと忠告したが、今日まで生き延びていたようだな」
腰に吊した鞘からサーベルを引き抜いた彼女からは、先ほどまで【ウィルス】という女性を演じていた影は感じられない。
一言で表せば、冷厳。クリスティアンはかつてリゼットが憧れた雄々しい女傑だ。
「べレスフォード女史……何故、貴方がそのような変装をしているんだ」
リゼットは国を裏切った。だからもう教官と慕って呼ぶことはできない。
その呼び名にクリスティアンの眉は不愉快そうに顰められた。リゼットは苦い感情を飲み下すように真っ直ぐと相手を見据えた。
(よりにもよって、何でこの人が……!)
このような場に変装してくるほどクリスティアンは茶目っ気がある人物ではない。敵となれば、かつての仲間だろうと容赦なく処断する。彼女は自分にも他人にも厳しい人物だ。クリスティアンの行動がリゼットには空恐ろしくて堪らない。
所属していた軍を裏切り、国を抜けるということは、かつての仲間を敵に回すということ。軍を抜ければ簡単には生き残れないと、そう忠告された本当の意味を初めて知ったような気がする。
己の敵を殺すことすら割り切れないで薬に頼ってしまうようなリゼットにとって、正気の中で知人を殺めるなど沙汰の外だ。
「ウィルスは私の友だ」
友の身代わりをしたというのならば、本物は何処にいるのだろう。
その疑問に答えるようにクリスティアンはゆっくりと口を開いた。
「友は先日お前が落とした機体に乗っていた」
リゼットは【魔王の花嫁】を運ぶヘリのプロペラを折り、機体を墜落させた。
墜落した機体は炎上し、最終的に爆発した。ウィルスはそれに乗っていたという。
「師として言う。無駄な足掻きは止めて投降しろ」
それは厳しくも優しく励ましてくれた師の力強い声。リゼットはその声を振り切るように声を張り上げた。
「……ふ……ざけるな……ッ! 貴方は私に聖帝国に頭を下げろと言うのか!? 魔王を匿い、あまつさえあの人を魔王に差し出したような愚者共に!!」
激昂するリゼットに、クリスティアンは残酷な事実を告げる。
「閣下は自ら命を捧げられたのだ」
「う、嘘だッ」
嘘だ。【あの人】が、【彼】が――スレイドが自ら死を選ぶことなんてあるはずがない。
例えそうだとしても、脅されるか何らかのことがあって不可抗力で仕方なく……とそこまで考えて、リゼットは愕然とする。自分が既にスレイドの死を受け入れていたことにショックを受けた。
「大衆の命の前で一人の犠牲など安いもの。それをあの方は理解されていたのだ」
大多数の為に一人を殺すか、一人の為に大多数を殺すのか。国という大規模な組織は迷わず前者を選ぶ。
では、スレイドは自ら喜んで犠牲になったというのだろうか。
「お前は閣下が亡くなってそれを悼んだ。その心は良いことだ。そんな優しいお前だから気付いているのだろう? 自己の矛盾に」
「……何ですって?」
動揺したリゼットは気付いていない。言葉遣いが本来のものに戻っていることに。
変化に気付いたかつての上司は畳み掛けるように言葉を続けた。
「お前が殺めた者たちにも大切な者がいて、その者たちがお前と同じ苦しみを背負うことになると知っているはずだ」
友人を失ったクリスティアンの言葉だからこそ、リゼットの胸に深く突き刺さった。
「先日の件もそうだ。お前が【魔王の花嫁】を殺した所為でヒオウは怒り狂い、多くの者を弄り殺した。お前の行動によって、より多くの者が傷付いたのだ! それを理解しながらも独善によって反社会的行為を行うお前と我が国の何が違う?」
辛辣な言葉のその全てが無防備な胸を刺し抜いてゆく。
リゼットは幼子のように首を横に振った。
「……ちが、う……」
「いいや、違わない。私には分かる。お前は大義を抱えて戦っているのではない。己の空虚を充たすが為に剣を振るっているだけだ」
それは、図星だった。
ずっと【理由】が欲しかった。
たった一人で聖帝国や人類を滅ぼせるはずがない。そんなことは初めから分かっていた。
彼を失って悲しかった。誰を討ちたいのか、償わせたいのかが漠然としていて分からなかった。だからリゼットは、自分の中に存在する空虚を埋める為に【復讐】という名の元で剣を振るった。その身勝手な振る舞いは魔王の行う虐殺と何ら違いはない。
リゼットが本当に怖かったのは戦うことではない。戦い抗うことを止めて、彼が死んだことを受け入れしまうことだ。
「悲しみを憎しみへ転換し、空の心を激情で充たす。怒りで心を染める間は失った悲しさから逃れられるのだろう?」
「……やめて…………」
「矛盾と欺瞞を抱えるお前はそこで何をしている?」
「黙れえぇッ!!」
リゼットはガンブレードを振りかぶり、クリスティアンに斬り掛かった。
狙うのはサーベルを持つ右手。しかし、左手のマンゴーシュに攻撃はいとも簡単に受け流されてしまう。研がれた刃と刃が擦れて火花が散る。
「お前は昔から逃げてばかりだ」
自ら望んで停滞というぬるま湯に浸かっていた。そんなことを信じたくはない。
けれど、クリスティアンの言うことは事実だ。だからこそ、これほどまでに心が痛いのだ。
(くそ……、見えない)
グラスのバッテリーが切れ掛かっている。強制的に省電力モードに切り替わり、暗視スコープの機能が著しく低下する。それは今のリゼットにとって致命的な喪失だ。
クリスティアンは齢二十一の小娘とは比べ物にならないほどの場数を踏んでいる。リゼットが双剣使いとの戦闘に慣れていないこともあるが、何よりも決定的だったのは、相手がリゼットの弱点を知っているということだった。
(近接戦闘では適わない……だけど……!)
飛び道具を使うのは簡単だったが、銃は使いたくなかった。
リゼットはクリスティアンの言うように、変なところで真っ直ぐで律儀なところがあった。その性格が自分の首を絞め続けていることにリゼットは気付かない。
あの事件さえなければ今も彼の隣でたおやか微笑んでいたはずの娘。
娘は笑みを捨て、自ら望んで非日常に身を投じた。
リゼットは纏わりつく幻影を払うように剣を振るう。
「……っ!」
これはフェイントだ。冷静な思考能力を失っていたリゼットは罠だと分かりながらも踏み込んでしまう。着地と同時にバックステップを踏む。その開いた間を数瞬で詰められ、息を呑んだ。
「これは弱さと欺瞞という罪を贖う代価の一部にもなりはしない」
「ぐ……ッ!!」
生肉に刃物を突き立てる音が闇の中に響いた。
尖った刃が脇腹から肋骨の内側へと向けて差し込まれた。冷たい衝撃にリゼットは息が止まる。
感じたのは熱さと、冷たさ。
腹腔には、皮膚を突き破り、肉を切り裂いて深く潜り込んだひんやりと冷たい感触があった。
「贖うことはできん。だからもう眠れ」
言いながら、刃はすうっと引き抜かれる。
「……それ、でも……私……は」
先を紡ぐ前に喉の奥から血の塊がせり上がってきた。腹から逆流してきた大量の血が口の中に溢れ出し、堪えることができずに吐き出した。
どす黒い血が床にぶちまけられる。
軸を抜かれたリゼットはもう立っていられなかった。
船の甲板に物々しい雰囲気を纏った軍人たちが集まっている。
彼等を指揮する女は命じた。
「反逆者を投げ捨てろ」
「はっ!」
男の肩に担ぎ上げられた娘はぐったりとしており、その頬は死人のように白かったが唇だけは紅を引いたように赤い。
「恨むなら我を恨め。閣下をお止めできなかったのも、お前を殺すのも私なのだから」
クリスティアンの瞳は暗い海に落ちた月光よりも冴々とした光を湛えていた。
波の音が妙に荒々しく聞こえる。
不意にリゼットと身体が宙に浮かぶ。直後、重量に従って落下する。
『君の為に例え世界を失うことがあろうとも、世界の為に君を失いたくはない』
(うそつき)
私も考えを同じくするとは思わなかったのだろうか。だとしたら莫迦だ。大莫迦者の朴念仁。
もう彼の為に戦うものか。いや、自分の為に戦うのもいい加減うんざりだ。
もう、疲れた。
「レイ……」
口を開くと途端に大量の海水が流れ込んできて、すぐに息ができなくなった。
冷たい水底に沈みゆく中で最後に月を見る。
水越しに見る満月は何故か赤く、不安定に揺らめいている。きっと海水に含まれる塩分に目がやられてしまったのだろう。そうこう考えている間に酸欠で意識が遠退き、リゼットは静かに目を閉じた。
腹に空いた傷からは血液が抜け落ち、水に溶けていった。