【5】
轟轟と渦巻く赤い炎。
巻き上げる風が火の粉を舞い散らせる。
「生きてるか?」
レナードは炎の中へいるだろう魔族へと問う。
高熱の水蒸気で茹で、太刀で斬り、氷の槍で貫き、拳で殴り、闇の刃で刻み、炎の竜巻に閉じ込めた。並の魔物ならば疾うに死んでいる。
魔族を間近で見てきたが、ここまでしぶといのは中々お目に掛かれない。そんな上位の魔族が【黄金の暁】程度を潰す為にわざわざ潜入するだろうか。
「出てこいよ」
衰えを知らない炎は解除しない限り、術者の精神力が切れるまで燃え続けるだろう。
ゆらり、と黒い影が渦の奥に見える。
「……それなりに、痛かったですよ……?」
鎌のような左腕がレナードの眼前に突き出され、それに続いて太い足がゆっくりと炎の中から出てくる。
そうして全体を現したシメオンの体は焼けてはいるものの、致命傷を受けている風ではなかった。シメオンは焼け焦げた醜い姿を隠すように両腕以外を人間の姿へと戻す。
真っ直ぐな灰色の髪や爛々と輝く赤い瞳はテオを思わせ、レナードは内心舌打ちする。
「それが本性なのに、何で子供のナリしてきた?」
「貴方は同性に厳しいでしょう」
やはり【黄金の暁】に潜入にするだけが目的ではないようだ。
「オレに用があったわけ」
「貴方の姿をここで見付けた時は本当に驚きましたよ、エカルラート様」
レフィナードという名は、父から名を与えられなかった息子に、母レフィアが自分の名を捩って付けた名前。そして、エカルラートは十二の時に父から与えられた魔族の名前だ。
「そこまで知っていてオレに喧嘩売ってんのかよ……?」
「喧嘩なんて嫌だなぁ。ただの興味です。あの方に一番近い存在が気になったんですよ」
魔族の名を知っているということは、即ちシメオンがこちらの正体を知っているということ。生まれを知る者は消さなければ。
レナードは黒い剣を構える。
じり……っと空気が震える。
「魔族の貴方が随分と物騒な剣をお持ちですね」
「物騒? オレが造らせたんだ。【錆びず斬れぬものはなく狙ったものは外さない剣を作れ。作れなければ殺す】って妖精を脅してさ」
目を半分伏せたまま、レナードは苦笑いでも浮かべたように口元を歪めた。
「汚らわしい妖精の力まで借りるとは、何故です?」
乾いた笑い声は間違いなく苦笑い。半端者が浮かべるにしてはあまりにも冷たい笑みに、シメオンもからかいの色を潜める。
例え脅して造らせたものだとしても、光に属するエルフの力を借りるなど、闇に属する魔族にとって耐え難い屈辱だ。それは、悪魔が神に頭を下げるようなもの。
「そんなの決まってる……」
毒でも吐き出すようにそう呟き、伏せていた視線を上げる。
「このオレが、ヒオウを殺す為だ!!」
レナードは上段に振りかぶった剣を、そのまま叩き付けるように振り下ろす。
ティルヴィングは人間を相手にする時はバスタードソードでしかないが、対魔族の時には圧倒的な威力を誇る剣だ。
リゼットの攻撃を受け止めた時とは違い、飛びすさってそれをかわすシメオン。
蝙蝠を思わせる邪悪な翼を広げ、上空に逃れたシメオンには魔剣から放たれた魔力が赤く不気味な光を伴って八方へと走るのが見えていた。しかし、どんなに凄まじい斬撃だろうと空中までは届かない。
大きく翼を羽ばたかせ、虚空に身を躍らせた悪魔は嗤う。
「贄を捕らえろ――!」
高らかに叫んで伸ばされた血塗れの左腕に、蛇を思わせる炎の帯が現れる。
蛇は流れる血を吸うようにレナードの腕に絡み付き、頭を擡げたかと思えば空を切って敵へ向かっていく。
「――――ッ!!」
蛇が牙を剥き、獲物を絡めとる。
「う、あァ……」
焔に縛られ、シメオンは指先一つ動かせない。獲物を見定めるようにゆっくり、ゆっくり絞め殺さんと肢体を這い、術者の血を吸い続けて燃え盛る炎。
レナードは苦痛に耐える。
身を焼く痛みは全て糧だ。痛みも苦しみも屈辱も、全て復讐の道具。傷を抉るように何度も何度も反芻する。この怒りだけが自分が自分である証なのだから。
そして、身を焦がすほどの怒りは遂に魔族の翼を焼き切った。
血の気の失せたレナードの顔に笑みが浮かぶ。炎が霧散した。
翼を失い、戒めを解かれたシメオンは地上へと放り出された。重たい翼が体よりも先に地面へ叩き付けられ、肉の潰れる湿った音が響く。
「まだ死なないだろ?」
どす黒い血が墓場の土へ染みてゆく。
土の下の死者に血を飲ませるなんて勿体無い。レナードは臥したままのシメオンの髪を乱暴に掴んで引っ張り上げると、その喉に噛み付いた。
何が悲しくて男の血を飲まねばならないのか。
男の喉に噛み付く趣味はないのだが、リゼットに奪われた分を補給しないことにはどうにもならない。戦闘で無理ができない以前に貧血で死にそうだったのだ。
脈打つ喉に更に深く牙を突き立て、溢れる血を残さず飲み込む。酸くて苦くて辛くて、吐き出したくなる。
意識を取り戻したのか体が痙攣する気配があったが構わない。弱者は強者の餌になるのが定め。それにしても本当に不味い。胸焼けまでしてきた。
「……まず……」
これ以上吸うことは害になりそうなので止めることにする。獲物から牙を抜いたレナードは掴んだままの髪を放した。
力なく崩れる体。筋肉質の凶暴な腕は震えている。血を吸い尽くされ、体がろくに動かないシメオンは臥したまま言う。
「……人の血を散々吸った挙げ句に……なんて言い様です……」
「今まで吸った中でワーストに入るくらいにまずい。あり得ねぇ」
血に汚れた口を拭いながらレナードは冗談のように返す。
「……はは……良いですね。その身勝手さ…………」
震える腕を地面について身を起こしたシメオンは、自分を害した相手を見上げる。
「かの御方を倒すというならば、このシメオンを殿下の家臣に取り立てて下さいませんか。身命を賭してお仕え致しますよ……」
口調だけはしっかりと、思いもしないことを願い出た。
血を吸われることは魔族にとって堪え難い屈辱であり、相手への屈服を意味する。
血を吸われて尚、シメオンのように平然と口を利ける魔族は少ないだろう。利用すれば何かの役には立つかもしれないが――。
「人の女を冗談でも口説くような奴は好かない。このままくたばれ」
「兄君は魔族を従えていらっしゃいますよ……」
「……兄貴とオレを一緒にするな」
「魔族らしい弟と、人間らしい兄とはよく言ったものですね」
レナードはシメオンが嫌いだ。どんなに利用価値があろうとも、気に食わない相手は存在して欲しくない。
個人的な感情を抜きに考えてみても、【黄金の暁】の仲間を食い殺している奴がどの面を下げて降伏を願い出るのか。ここまでくると、ただただ不快だ。
リゼットを口説いたことはもっと癇に障る。
剣を振るえば良いものを、わざわざ拳で殴るほどにあの時レナードは頭に血が上っていた。
彼女は、こんな存在を信じたいなどと正気を疑うようなことを言った。
信じたいなんて初めて言われた。別に嬉しかった訳ではない、ただ驚いただけだ。同時に理解できなかった。
心を苛む存在はイユだけで十分だというのに、どうしてまた出会ってしまったのか。そんな厄介な存在を他の魔族に奪われるなんて、考えるだけでも恐ろしい。
「お前、目障りなんだよ」
「僕は貴方の居場所を伝えることもできるんですよ」
「へえ、脅すのか。つーかさ、負けそうなのに何で上から物言ってるワケ?」
「では、仕えるのは諦めます。その代わりにあの女を下さい」
つまり、彼を家来にするか、彼女を彼に与えるかということだろうか。
ヒオウに居場所は知られたくないが、何故シメオンの言うことに従わねばならないのか。
「何だよ、その最悪の二者択一」
「内容が気に入りませんか? ならば選択肢を増やしましょう」
どうしましょうねえ。
シメオンはあっけらかんと笑う。その明るい笑い声を聞いてレナードは漸く気付く。
「貴方が僕に傅くというのは如何です……?」
今まで体を震わせていたことが嘘のように、しっかりと自分の足で立ち上がったシメオンには戦闘で受けた損傷は殆ど感じられない。
そう、あれはただの時間稼ぎ。体力を回復させる為の芝居だ。
魔族というものは人の心を惑わせる存在なのだ。心にもないことを口に出し、相手を惑わせる。それはレナードの得意とすることだ。自分にあまりにも近過ぎて気付けなかった。
しまった、と思うが後の祭りでしかない。
「化け物……」
「どうするか決めてくれませんか。男同士で心中したくないでしょう……?」
シメオンは片眉だけを器用に吊り上げ、手を空に翳す。完全な魔族の体へ変体する彼の手には暗黒球体が現れる。この距離であれを放たれれば確実に落ちる。
自分の甘さを呪いたくなった。あの時、体中の血を抜き取れば良かったのだ。
「心中なんてとても素敵な案ね」
雪がひらりと舞い降りるように、すっと心に染みてゆく声。けれど、それは耳に馴染んだ声音とは異なる。
ピシリ、と空気が止まったような不可思議な感覚が辺りを包む。
何処からともなく霧が立ち込め、吸い込む空気は肺腑を凍り付かせるように冷え切り、呼吸器官が痛むほど。
レナードはさほど驚きはしなかったが、己が戦闘不能に追い込んだと思っていた者の声にシメオンは動揺を見せる。
辺りの気圧が一気に下がり、耳を痛みにシメオンは頭を押さえた。
彼が身を翻すのは一瞬だけ遅かった。
凍て付いた風が吹き抜けるのが宴の始まりだった。
渦巻く水柱が至るところから立ち上がり、退路を塞ぎながら宴の客を内部へと招待する。猛烈な寒冷化によって空気中の水分が急速に凍り、真っ白になった視界。幻惑の霧は益々濃くなり、生きとし生ける者全てを優しく抱くように腕を広げる。
真っ白な微睡み。
静寂を切り裂くように地面から突き出したのは氷の棘。茨は幾重にも分かれ、蔦を伸ばして獲物を帰さぬように絡め捕る。飛び散る鮮血は白に塗り潰された。
あまりに美しい光景に、耳の痛さも忘れて見入った。月の光を浴びてきらきらと輝いて見えるのは凍結した空気中の水分だろうか。
鋭い氷の飛礫が飛び散り、頬や腕を掠めた。
「……リゼット……それ反則……」
痛みに我に返ったレナードは肝を冷やす。
雪の葬送というところだろうか。冷凍崩壊させる魔術とは違うようだが、空気は今まで感じたこともないほどに張り詰めていた。
巨大な氷塊の前に立つ彼女はゆっくりと首を擡げる。
「こうでもしなきゃ勝てない」
赤い瞳には人体改造の証である陣が浮かんでいる。
何処までも凍える空気の中、そう告げたリゼットは正気のように見える。
けれど、下手をすればこちらも巻き込まれていた。
冷気を吸い込んだ所為で胸が苦しい。肺をやられ、上手く息ができないレナードは咳き込む。
気圧の変化で耳や頭をやられ、四肢が悴んで動かなくなったところを四方から串刺し。これを人間が受けたら一溜まりもない。
役に立たないかもしれないと思ったが撤回だ。寧ろ、その力をこちらに向けられたらと考えると恐怖以外の何ものでもない。彼女は野放しにするにはあまりにも惜しく、また危険な存在だ。
息を吐いてどうにか呼吸を整えたものの、まだ胸に違和感を感じる。
「あのさ……」
真面目な顔をするレナードに彼女は首を僅かに捻る。その拍子に長い髪が肩を滑り、風に戦ぐ。
亜麻色の髪は月の下では銀糸のよう。血とは違う甘い香りがふわりと鼻孔をくすぐり、心が落ち着くのを感じる。しかし、それはほんの一時だった。
「……痛い……ですねえ」
二人の耳に信じられない声が入る。
氷塊に背を向けたリゼットはあまりのことに硬直し、振り返れない。レナードの目には、氷の檻を破壊して出てくる黒い魔族の様子がはっきりと映っている。
「莫迦な……心臓は貫いた……!」
もうそれは悲鳴に等しい。
「生憎、私の核は腕なんですよ」
怒りを含む静かな声は、しかし鋭く鼓膜に突き刺さる。
二人の見開かれた目が黒い月を捉えて揺れる。
「――――――――…………!」
シメオンの掌に現れた毛細血管を思わせる赤い筋が走った球体は大きく膨らみ、景色を飲み込んだ。
ダァン……ッ
それを聴いた瞬間、目の前が真っ暗になった。
**初出…2009年9月8日




