【4】
日が落ち、魔の力を増長させる夜が訪れようとしている。
濃い血の臭いに満ちた墓地でリセットは異形の魔物と向かい合っていた。
「お前、誰だ?」
「嫌だな、お分かりになりませんか。シメオンです」
「シメオン、か」
問うたレナードは舌打ちする。
十代半ばのまだあどけなさが残るような少年だったシナモンは、巨大な黒腕を持つ魔族の青年の姿をしている。唯一の面影はその灰色の髪か。
リゼットは得物を強く握り締める。その手は震えていた。
「どちらから始末しましょうか」
発言に潜む殺意に、酷い寒気を感じる。
「何でそこまで拘るんだ?」
「雄と雌を番い合わせたままにしておけば増殖されますからね」
「この前から黙って聞いてりゃ、何だよその獣扱い。気に入らない」
レナードは益々眉間を険しくする。
そのような見方をされるのは気に入らない。だが、リゼットは反論よりも観察を優先させる。
不意打ちのヘイルストームとヴォルカニックが引き起こした高温の水蒸気に晒されても、まるで傷付いていない体。果たして、ヴェノム如きが上級魔族と渡り合って勝てるものだろうか。
シメオンから感じるプレッシャーは今までに感じたことがない類だ。純粋な殺気の方がどれだけマシかと思ってしまうほどの重圧。
飛び散った血や、バラバラに砕けた人体の一部が嫌でも視界に入る。
瑠璃たちが退却する時間を稼ぎ、可能であればシメオンを仕留めることが自分に与えられた任務。そう考えども意識と反して体は硬く強張る。こんな禍々しい気を纏う魔族と死合えば、ただでは済まないと本能が告げている。
「気に入らない? 獣に意思があるとでもいうんですか。獣の本能なんて食べることと子を残すことくらいじゃないですか」
「何処まで愚弄すれば気が済む……?」
剣の切っ先を真っ直ぐと敵へ向けたリゼットの眼差しは、ただ冷たい。
「おや、怖い。子を守る母は強いと言いますがもう孕んでいますか?」
「貴様のような魔族に下等の存在に見られたくなければ、こんな性根の腐りきった男の血など残すつもりもない。寧ろ叩き潰す方が世界にとって有益だ」
リゼットは淡々とした口調で吐き捨てる。
これはできるできないの問題ではない。魔族は潰すのだ。何があっても――例え相打ちになるとしても、ありとあらゆる手段を用いて敵は潰す。
刃に浮かんだ露を落とすように振ると、リゼットはアイスブランドの切っ先が相手の喉元に向かうように両手で持つ。その隣に立つレナードは、右手に黒々と輝く長剣を握っていた。
「リゼット、あいつ殺るよ……」
潰さないと気が済まない。
そう音もなく告げる言葉に今回ばかりはリゼットも同意だ。あの魔族は気に食わない。
「言われなくとも……魔族は殺す」
シメオンは唇を三日月の形に歪める。
漆黒の魔剣とアイスブランドが一斉に共通の敵へと向けられた。
突き出される鎌のような左腕。リゼットは攻撃をかわしながら後退してゆく。
時に墓石を飛び石のように蹴り、宙を踊りながら軽快な身のこなしで避ける。
リゼットが集中的に狙われているのは、リゼットがシメオンの前に積極的に斬り込んだこともあるが、シメオンが女嫌いということもある。曰わく、雌はどんな種族との間にも子を作るから目障りとのことだ。
彼は徹底的な女嫌いらしい。だからといってエリカを利用した挙げ句に殺し、また人の寝込みの首を絞めて良い訳ではない。
宙に現れた三本の氷の槍がシメオン目掛けて落下する。
アイスランスはアイシクルレインの下位魔術だ。こういう乱戦では高威力な魔術を使えないので抑えなければならない。
リゼットに血を奪われたレナードは人間に近い。だからリゼットは前線に出ている。
自分が囮となり、レナードが隙を突いてシメオンを一刀両断する。それがベストだとは思うのだが、この魔族は中々素早く体も頑丈だ。
「ちょこまかと逃げ回って、曲芸を仕込まれた猿みたいですね」
リゼットは身軽さを生かした戦いをする。宙を舞い、不安定な状態から魔力を込めた武器を振るう様を見てシメオンは猿のようだと言う。
「……魔族風情が……人を莫迦にするなッ!」
鳩尾を狙って突き出される腕。リゼットはシメオンの鎌のような腕をアイスブランドで受け止めた。
けれど、押し返すのは至難の業。
「負けん気の強い方だ」
「逃げるだけじゃ、何も変わらない……っ」
「正面に向かってくるなど莫迦としか言いようがありません」
「何とでも言え!!」
「……喚くばかりの女は嫌いですが、莫迦は嫌いじゃないですよ」
目を真っ赤に染め上げて向かってくる相手に、シメオンはふと力を緩めてそんなことを言う。
不穏な気配を感じて、後方に飛びすさるリゼット。切る風に低い声が乗る。
「どうです、僕のものになりませんか?」
侮蔑とも慈愛ともつかぬその声を聞いた瞬間、リゼットの体は勢い良く蹴り飛ばされる。
今までそこにあった景色が一瞬にして遠くのものとなる。
暗い空には欠けた月。
ああ、やられた。そう思う間に、リゼットの体は瓦礫の積み重なる場へ呑み込まれた。
耳をつんざく破壊音が響く。
「――リゼット!!」
敵を地面に捕縛する魔術の陣を描いていたレナードが名を叫ぶ。シメオンはそのレナード目掛けて闇色の衝撃波を放った。
金色の目が大きく見開かれる。
飛び散る鮮血。砂煙が消えたそこにレナードの姿はなく、血溜まりだけが残っていた。
「ふん……、硬い雄は後で良い……」
逃がしたことをさして悔やんだ様子もなく、シメオンはリゼットが消えた瓦礫の積み重なる場所へと足を向ける。
ゆっくり、ゆっくりと近付いてくる足音。
「……は……っ……」
心が押し潰すようなプレッシャーを放つ悪魔が近付いてくる気配を感じながら、リゼットは歯を食い縛って瓦礫の中から這い出す。体を動かす度に血が落ちる。
頑丈さが取り柄のこの身。あの程度で果てたりはしない。
だが死なないとはいえ、痛みは感じる。
頭を打ったせいで目が回っている。口内に滲んだ血を飲み下すと、苦い血が胸からせり上がってきた。咳き込む度に胸が痛む。そうして古傷まで痛み出す。
目眩と痛みにリゼットは立ち上がることができなかった。
「済みません、手加減ができなくて」
剣を掴んだままそれでも動けないリゼットを見て、シメオンはふっと柔らかく笑った。
彼は何を思ったか姿を少しだけ人間に近付けて、咳き込む娘の傍らに膝を着く。そして、震える背に手を掛けた。
「――――ッ」
宥めるように背中に触れるのは、魔物の凶暴な掌。
そのごつごつとした感触にリゼットは息も止まるほどに気圧された。
「さっきの言葉、それなりに本気ですよ?」
震えることも咳くこともできず、浅く息をする娘を魔族は瓦礫に押さえ付ける。
「……何を……言ってる、の?」
「混ざりもののヴェノムや、媚び諂いしか知らない女は気に食いませんが、皆が求めるその血が気になるんですよ。魔族は強い子を残す為に人間の花嫁を取ることがあります。ならば、それがヴェノムだった場合はどうなるんでしょうね」
「結局……何が言いたい……?」
「試してみませんか? 死ぬまで大切にしますよ」
どうやら求婚されているらしい。リゼットは言葉を失う。
こんな求婚は嬉しくない。子を産む道具になるのは嫌だ。魔族に娶られた母だってそうして別の男と逃げたのだ。答えは否だと決まっている。だが断れば、その鋭い爪で腹を抉られかねない。
生きたまま内臓を引き出されるのはどれほどの苦痛があるだろうか。
リゼットが抵抗せずにいると喉に噛み付かれた。腕が痙攣する。人体を咀嚼できるほどの力を持つ顎で牙を立てられ、呼吸が殺される。支配しようとする相手の重さ。身動きが取れない。
視界が赤い。
血の匂いがする。あの時も自分は血を流していた。
暗い暗い記憶の底。蓋をされた更に奥にある暗い記憶。
『俺の血はそんなに美味しいのか?』
蔑む言葉を投げ掛けながらも【彼】は腕を差し出している。腕に入れた傷から滲み出る命の水を無心で舐めとる。
『……魔族どももお前もよく飽きないよ』
髪を引っ張り上げられて上を向かせられる。青い目はとても冷たい。
『お前は俺の言うことだけを聞けば良い。そして【あいつ】を殺すんだ。そうしたら――優しくしてあげますよ』
そうだ。魔族は殺さなければならない。彼の敵は何があっても――。
見開かれたまま凍り付く瞳に漆黒の影が映る。
「人の契約者口説くなんて良い根性だな、色呆け野郎!」
血塗れの赤い拳が魔族のこめかみを捉える。
ガッ
鈍い音を立てて、リゼットの目の前でシメオンは殴り飛ばされた。
「ち――ッ」
「失せろ!!」
体勢を立て直したシメオンは、振り下ろされる刃をぎりぎりのところでかわす。
しかし、斬撃までは避けられない。凄まじい圧力に飛ばされたシメオンは幾つもの墓石に体をぶつけ破壊しながら突き進み、漸く止まる。頑丈な魔族の身といえど、奇襲によって与えられたダメージにすぐには身を起こせない。
「黒き刃、薙ぎ払え――!」
間髪入れずにレナードは魔術を唱える。
真空波がシメオンを薙ぎ、臥した体に幾つもの裂傷が走る。冷酷無比という言葉そのものといった表情をしたレナードは更に続ける。
「吼えよ熱風――!」
詠唱短縮による中級魔術。触れたものを燃やし尽くす炎の風は悪魔を飲み込む。竜巻となった風は術者の敵を捕らえ、逃がさない。
肌を焼く熱風にリゼットはぞっとする。レナードは燃え上がる竜巻を見つめながら吐き捨てる。
「あの色呆け野郎……この程度じゃ許さねえ……」
色呆けはお前じゃないか。
リゼットはそう思ったが、今は言っている場合ではない。シメオンがいつ抜け出してくるか分からないし、何よりも本格的にキレているらしいレナードにそのようなことを言えば、どうなるか分かったものではない。はっきり言えばあちらより凶暴な本性剥き出しのこちらの方が怖い。
リゼットの前に膝を着いたレナードは至極真面目な顔で訊ねる。
「何かされてない? 殴られたり血吸われたりしてないかって意味じゃなく、貞操の確認」
「こ……こんな場所で何かされて堪るか!」
「あんな奴を選ぶなら今ここで殺す。つーか、力返して貰う」
そんな場合ではないというのに剣先を向け、仲間であるリゼットを脅すレナード。
「お前の所有物のつもりはないが、あんな魔族のものにはなりたくない」
向けられた剣を退けながらリゼットは怒りを抑える為に深い溜め息をつく。視界は暗い。
そうして視線を落とした時、ズタズタに切り裂かれた左腕が目に入った。
「その手は……」
リゼットが吹き飛ばされた後、レナードもシメオンの攻撃を食らっている。それを知らなかったリゼットは暗がりでも分かる出血に驚く。
水の治療術を掛けてみるものの塞がらない。
「全身の傷を片手に移したんだよ」
だから塞がるはずがないと、レナードは冷静に言う。
闇の魔術にはそういうものがあるとは知っているが全身の傷を集めたとなると痛むはずだ。それでも平然と振る舞う彼を見て、精神性がずれているのだと思い知る。
立ち上がろうとするリゼットは苦い顔をする。
「どこか折った?」
「……肋だ」
吐く息が熱を持っている。
早く立って剣を持たなければならないというのに足は動いてくれない。頭痛にこめかみを押さえると血でぬるりと滑った。どうやら額も切れていたらしい。
「これ飲んで」
小さく咳き込みながら血を吐くリゼットに、レナードはピルケースから取り出した錠剤を押し付ける。
「何この妙な薬は」
「鎮痛薬。暫く休めば効いてくる」
敵を叩き潰すこと以外は深く考えていなそうなのに意外にも用意が良いことに感心する。
だが、今更だ。
「要らない……」
「また口移しで飲ませて欲しいわけ?」
月明かりがなければ闇に溶けてしまいそうな黒装束の彼は、リゼットを冷ややかに一瞥する。
「よくもそんな冗談が」
「マジなんだけど」
口移しで薬やら血を流し込まれるという感覚は二度と味わいたくない。不穏すぎる発言に、リゼットは大人しく鎮痛薬を飲み込んだ。
「オレが釘付けにしておくから、少し休みなよ」
剣を持って立ち上がったレナードは、膝を抱えるようにして痛みが消えるのを待つリゼットの頭に軽く触れると、今も尚渦巻き続ける炎の元へと足を向けた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
「シルベスのやつ遅えなぁ……」
地下の広間で、週末の恒例となったボードゲーム大会を開催しようと考えていた【黄金の暁】組員アドリアンは、青灰色の頭を掻きながらハアと落胆の溜め息をつく。
仲間内で殺しがあり、裏切り者の粛正をする為に何人かが出払っているのだ。アドリアンの友人であるシルベスは瑠璃に付き従った。
「フェイトさん、オールドメイドしませんか?」
「そういう気分じゃない」
【黄金の暁】が誇る腕自慢の十人に入るフェイトという男は、険のある目でアドリアンをじろりと睨んだ。槍の達人の射抜くような眼差しに、お調子者の青年は大袈裟に怯えた振りをする。
「ああ、もう何で良い! 誰か付き合えよー!」
「嫌だね」
「俺もパス」
「同じくパスです。賭けるお金ありませんし」
「ワタシもそういう気分じゃないねぇ……」
「師に同感だ。ゲームだのと言ってられる貴様の気が知れんな」
アドリアンの呼び掛けに、地下に溜まった組員たちからは口々に遠慮の声が上がる。
レナードやシルベスといった遊びに積極的な者が出払っているというのもある。だが何よりも仲間が殺され、犯人が仲間内にいて、今処刑が行われているという事実に皆は沈んでいた。
その空気をどうにか解そうと明るく振る舞っていたアドリアンの笑顔にも隠し切れない陰りがあった。
「……皆帰ってきませんよね」
アドリアンの近くで、テーブルに散らばったトランプを見つめていた琥珀は口を挟む。
翡翠は死体を見たショックもあり、与えられた部屋に籠もってしまったが、琥珀は持ち前の図太さと処世術で【黄金の暁】組員の輪に混ざっている。
(もう一時間は経つんじゃないかな)
幾ら気の乗らない処刑だからといってここまで時間が掛かるだろうか。時を同じくしてレナードの所へ向かったリゼットも帰らない。
墓場で起きている事態を知らない彼等はただ瑠璃たちが戻ってくることを待っていた。
ふと、閉じられていた地下街への扉が軋んだ音を立てて開かれる。現れたのは白髪の少女だ。
「姫さん!」
アドリアンはぎょっとして駆け寄る。
長らく臥せっていた第三王女の出現に、他の組員たちの間にもどよめきが広がる。
琥珀は、そこはかとなく気品が感じられる面差しから少女が瑠璃の妹だろうと察する。
「連れていって」
アドリアンの腕を掴んだアクアマリンは淡い水色の瞳に涙をいっぱいに溜めて言う。
「お兄さまとシナモンさんのところに、マリンを連れていって」
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
「たゆたうもの命癒せしものたちよ、我が招きに応じて生命の息吹きを降らせん――」
空からぽつりと雨水が落ちてくる。
真冬に振る雨は冷たくも温かくもなく肌にじんわりと染みて傷を癒やしてゆく。
水の上級治療術は広範囲に恵みの雨を降らせるものだ。術者のオリヴィエは祈るように手を組み、目を閉じている。
「これは塞がりませんかね……」
幾分か血色の戻った顔色をしたシルベスは腕を押さえながら言う。
瑠璃を含め、処刑に立ち会った者は十人。その内の六人が死んだ。オリヴィエの治療の甲斐なく逝ってしまった者が二名いる。また、助かった同志も重傷を負っている者が殆どだ。
見せてみろ、とシルベスの腕を取った瑠璃は傷口に布をきつく巻き付けて縛る。
「あとで療術師を呼ぶから我慢しろ」
「殿下は大丈夫なのですか……?」
「問題ねえよ」
そう問うてくるのは瑠璃の近くで戦い、足の骨を砕かれたディートヘルム。
仲間たちに気を配る瑠璃であるが、自身も肩を痛めていた。
「おれたちはもう良いよ……それよりもレナが……!」
うっと呻き体を折るのは、命を落とした同志イワンの弟のリアだ。
彼は命を取り留めたディートヘルムと同じように数ヶ所を骨折していて動けない状況にある。墓場から退却し、生きている者の中で動けるのは瑠璃とシルベスだけだった。
「僕はレナードさんより、あのお姉さんが心配ですよ……」
レナードの実力は瑠璃もシルベスも知っているが、リゼットの能力までは知らない。
祈りの手を崩したオリヴィエは一度咳払いをすると低い声で告げた。
「ああ見えてヴェノムです。魔族に遅れを取ることなどはないと思います……」
「おい、歯切れが悪いぞ」
「少し気になる話がありまして」
「何だ?」
「彼女の生命に関わることなので、自分からは言うことができません」
オリヴィエは、リゼットの後見人とも言えるスレイドやヴァレンの旧知だ。【氷の瞳】の名を持つ暗殺者や【片翼】と呼ばれる司令官の、他の人が知り得ない話を知っている。けれど、飽くまでも他人を尊重する彼女は口を閉ざした。
(くそ、心配だな……)
シナモンの強さは常軌を逸していた。あれよりも高位の存在がヒオウだと考えると震えが止まらなくなる。
自分たちがいつか向かうべき敵は更に強い。犠牲もこれだけでは済まないだろう。
「俺はあいつ等の補助に回る」
居ても立ってもいられなくなった瑠璃は刀の収まった鞘を持つと立ち上がる。
「シルベス、お前はアジトから仲間を連れてこい。アルヴァレスは引き続きここで手当てを頼む」
「畏まりました」
「了解です、瑠璃」
外套を夜闇に靡かせ、瑠璃は暗い墓地へと再び足を踏み入れた。
**初出…2009年9月7日




