【11】
朝になり、洞窟で岩茸を採ってくると言ってレナードが休憩所を出て行く。
今日は晴れているので昨日のように視界が悪くない。外でサンゴ谷の様子を見ていた琥珀は休息所へ戻り、リゼットを起こした。
リゼットは魘されていた。最近は良くなったのかと思っていたが、やはり彼女にとって眠りは安息の時間ではないらしい。
頬が涙で汚れ、瞼も重く腫れている。リゼットは瞼の腫れが酷くなることも厭わず、掌で乱暴に涙を拭う。
琥珀は水辺で濡らしてきたタオルを差し出す。
「リゼ姉、大丈夫?」
「ああ……」
応える声は掠れている。
琥珀が額に手を押し当てると、体温が高かった。
「具合悪いなら試験受けなきゃ良かったのに」
「売られた喧嘩だ」
「またそういうこと言ってる」
ペンダントを取り戻したいからだと分かっていてもリゼットは痛々しかった。
他人に弱味を見せたくないというのは、琥珀もそういうところがない訳ではないので理解できなくはない。だが、リゼットのそれは損得勘定が削ぎ落とされたものだ。
何処か生に後ろ向きな彼女は刃こぼれをした剣のよう。そのような生き方をしていたらいつか折れてしまう。いや、既に一度折れたものがここにいる彼女なのだろうか。
二段ベッドの下部から出てきたリゼットはタンクトップの上にレザージャケットを羽織る。背を向け、身支度をする様子を琥珀は苦い心地で見る。
手鏡を見ながら、跳ねた髪を直そうと撫で付けているのは至って普通の娘のもの。癖っ毛の姉がいつも苦労している様子を思わせて親しみを覚える。けれど、彼女は人殺しだという。
あの血の匂いがする男と同じ、人間と魔族の混血。
「あの莫迦と話したんだけど、やっぱり危ない人だよ」
「あいつがいかれているのは初めから分かっていたことだろう」
リゼットは不機嫌そうに睫毛を伏せて言う。
「僕としては、リゼ姉にはあいつに近付いて欲しくないんだけど」
琥珀はレナードが嫌いだ。
人の良さそうな笑みを浮かべて嘘ばかりを並べている。同じヒトとしてどうしようもない嫌悪を覚える不真面目な男。一緒にいてリゼットが傷付くのは目に見えている。
ウェーベルンへ帰ればペンダントは取り戻せるのだから、彼女がこのまま何処か他のところへ行くと言うのを琥珀は密かに願っていた。
「心配するな。私はあんな奴に利用されるつもりはない」
「……でも、仲間なんでしょ?」
書物で見たところ、魔族の主食は人間や魔物の血肉だという。
一般人という枠組みに属する琥珀には人を殺したことのある者の気持ちも、ヴェノムの気持ちも分からない。太陽の光は心地良いし、鳥や羊といった肉は御馳走だ。
いざという時、彼女が選ぶのは自分たち姉弟か、あの傭兵か。そのことを考えるだけで琥珀は憂鬱になる。
「同族だろうが何だろうが私は男を信じてない」
「それだと僕も信用されていないってことになるんですけど」
「今分かったのか琥珀」
「あっそう! なら……、良いけどさ」
そう話を切ったものの何だかむしゃくしゃする。釈然としないし不愉快だ。
気兼ねなく話せる友人を、あんな遊び半分でちょっかいを掛けているような男に盗られたくない。大体こちらの方がリゼットと一緒にいた時間は長いのだ。それなのに知り合って間もない男が何故ああも馴れ馴れしいのか分からない。
壁を睨んで怒りを煮詰めていると、いつの間にかに戻ってきた奴がこう言った。
「さて、お二人さん。戻ろうか」
「岩茸は?」
「これだよ」
「それ珊瑚じゃないの?」
「茸の傘みたいな形してるだろ」
「あの陰険そうな王子の考えそうなことだね」
魔物が徘徊する洞窟を回ってきたというのにレナードは傷一つ負っていなかった。
琥珀はそういうところが気に入らない。
「リゼ姉、帰ろう」
無言で頷き、小屋の外に出たリゼットは朝の日差しを遮るように手を翳す。
琥珀はリゼットの肩に掛かっていたライフルを代わりに持ち、彼女の手を取った。
「手を持たれなくても歩ける」
「倒れられて迷惑被るのはこっちなんだよ」
「何だと?」
「リゼ姉は黙っててよ」
木苺色の目を見開いて何とも言えない表情をされたが、琥珀は有無を言わさずリゼットの手を引く。
振り払われないのでレナードよりは嫌われていないらしい。けれど、そういうことで優越感に浸れるほど子供でもない。琥珀は兎に角、腹が立っている。
ざくざくと雪を踏み締めて歩いてゆく二人。その後ろに続きながらレナードは喉を鳴らして笑う。
「可愛いね、ふたりとも」
レナードはのんびりとそう言った。
莫迦男に一々反応するのが癪で振り返りはしなかったものの、からかいに満ちた笑みを浮かべているだろうことはありありと分かった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
「王子ぃ何の用だよ。俺様、今から昼寝する予定だったのによぉ」
執務室のソファにだらしなく座る黒いバトルスーツの男はだるそうに頭を掻く。
黒い髪に赤いメッシュを入れている軟派な外見の彼は【黄金の暁】組員だ。狂戦士という偽名を名乗る彼に、瑠璃は任務を告げる。
「ブレーメまで魔物退治に行ってくれ」
「めんどくせぇ。雑魚狩りならシルベスどもにやらせろよ」
「獲物とあいつらの相性が悪そうでな」
八時間しか寝ていないんだぜ、と不機嫌なベルセルク。瑠璃はこちらはその半分も眠れていないという言葉を呑み込んで説得をする。
「お前の腕を見込んでの頼みだ」
「どーせまた陸上イカとかベアとかしょーもない雑種なんだろ? やる気しねーんだよなぁー」
「レオルだ」
レオルは鬣から雷撃を飛ばす獰猛な魔物だ。猫を思わせる体躯は二メートルを超え、群れを嫌う。普段は山の高所から出てこないのだが獲物を求めて人里に下りてきたようで、ブレーメの町から救援願いが届いた。
危険な獲物の名にベルセルクは黒目をきらきらと輝せた。
「やる気になったか?」
「おう! やってやんぜ」
先ほどまで眠そうにしていたことが嘘のように、すくりと立ち上がる。
「毛皮欲しかったんだよなー。黒獅子のマントとか超カッコよくねぇ?」
「レオルの毛は水も火も通さないから実用性はあるな」
「だろだろ! 超かっけーじゃん!」
このベルセルクという男、言動からどうにも知性が感じられないがこれでも【黄金の暁】内で十本指に入る戦士だ。
強者との戦いを求め、標的を追い詰めることには貪欲。魔術よりも剣の扱いに長けた彼は今回の魔物に誂え向きだろう。
「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」
「早めに頼むぞ」
相手の腕を信じているからこそ、無事で帰ってこいなどという言葉は要らない。
瑠璃に背を向け、部屋の扉の前まで行ったところでベルセルクは立ち止まった。
「そーいやよぉ、クライ王子の姉だか妹だかってマジで生きてんの?」
「何だ急に」
「……だって人質だろ? 望み薄じゃね? もし生きてたとしても魔族のオモチャなった後じゃ娑婆帰って来られねーよ」
「ベルセルク」
「ほんとのこと言うのも優しさなんじゃないかね」
黒い双眸には何処か人をぞっとさせるものを含んでいる。
魔女信仰のある土地に生まれ、婚約者を魔族に捧げられた男は時折怖い目をする。レナードらと馬鹿騒ぎをしている時には決して見せないその目は瑠璃の若さを肯定し、同時に否定した。
黙する瑠璃にひらりと手を振ってベルセルクは部屋を出た。
遠ざかる足音が聞こえなくなった頃、瑠璃は握り締めていた拳をほどいた。
「何が共存だ」
聖帝国は魔族との共存を謳っているが、魔族に与える血肉は国外から賄っているのだ。
政策に従わぬ国は炎に包まれ、海王国も追い詰められた。そして十年前、瑠璃の父は罪を犯した。妾に産ませた子を差し出し、聖帝国へ恭順の姿勢を取ろうとした。
結果、父と兄は処刑され、海王国は西海国と名を改めることで存続を許された。魔王はこの土地の血を嫌い、捨て置かれることになった。
瑠璃が腹違いの姉弟――アデュラリアとクライオライト――がいることを知ったのは三年前だ。
民の為の犠牲となったのは父と兄ではなく、顔も知らぬ妹だったのだと知った瑠璃は今でもそのことを恥じている。
クライオライトは瑠璃に恨み言を言わず、ただ姉を探したいと言った。ならば支援をすることが兄の努めだ。必死で片割れを探す弟に、姉は生きていないとは言えない。
(ああ、くそ……。胸糞悪いことばかりだ)
ほどくことを意識しても手は拳を作ってしまう。瑠璃は堪えていた溜め息をつく。
主将であるこの身に弱音の吐露など許されない。ヒオウのような暴君は論外だが、民を不安にさせる暗君もまた同様に指導者としては相応しくない。
自分の役目は前を向き、勝利の旗を掲げること。敗戦の象徴であり偶像というならその立場を使うまでだ。
ふと、ノックが三度響く。瑠璃は短く、入れと告げる。
慇懃な様子で一礼して部屋に入ったのは、かつて聖帝国の軍に身を置いていたオリヴィエだ。
「どうした、アルヴァレス」
「残念な知らせがあります」
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
先導する人物を追い、リゼットは水路に架かる橋を幾つも渡る。
昨日は天候が悪かったということもあり、ウェーベルンからサンゴ谷まで半日以上掛かってしまったが、帰り道はこの土地の地理に詳しい人物がいたので昼前には町に戻ることができた。
「あ、そうだ。オレがサンゴ谷まで行ったってのは言わない方が良いよ」
町でたまたま鉢合わせしたということにしよう、とレナードは提案する。
「何故だ?」
「試験、手伝い禁止だからさ」
「分かった」
手伝ったことが知れたらペンダントを返して貰えないかもしれないという。魔物の巣窟まで出向いたことが無意味になるのも莫迦らしいので、リゼットはレナードの言う通りにすることにした。
ウェーベルン市内を歩いていくと、先日とは打って変わって市井には人影を見付けることができ、琥珀は驚いたように言う。
「ちゃんと住んでいる人いたんだね」
「ここより地下街の方が賑わっているけどね」
「ダウンタウンって?」
「【黄金の暁】組員と市民のみが入ることができる場所だから、少年には関係ないよ」
「じゃ、リゼ姉にもカンケーないね」
(大人げない奴等だな)
大人と子供が何をいがみ合っているというのだ。共にいて居心地が悪い。
性格的に合わないのだろうが琥珀とレナードの仲は険悪だ。こちらをダシに口論されたりもするのでリゼットは堪ったものではない。
二人を止める気力もないリゼットはマフラーを頭に被り、極力陽光を避けて歩いた。
どうしてこれほど体調が悪いのかという答えは今朝方レナードから得た。
理由が分からないことほど気味が悪いものはない。理由さえ分かればリゼットも対処を考える。そう、今は毒も血も薄まるのを待つしかない。毒を盛った相手と刺客を殺すのはその後だ。
無理をして事を急いては仕損じる。何より、琥珀に心配を掛ける。
琥珀はサンゴ谷からずっとリゼットの手を握ってくれている。
倒れられると迷惑だという言葉も本心なのだろうが、歩く速度を落として手を引くそこには気遣いがある。
琥珀も翡翠もリゼットに優しくする。こちらが人殺しの魔物だと分かっているのにだ。だからこそリゼットは彼等を傷付けたくないと思い、負担になることを嫌う。
琥珀に銃を預けた時点で重荷を背負わせていることは重々承知している。それでもリゼットは彼等を守りたいし、悲しませたくはない。
(……甘ったれだ)
追ってきた彼等を振り切ることはできたはずだ。
リゼットは彼等を自治州に置いていくこともできた。今も姿を消してしまえるのにそれをしないのはリゼットの弱さだ。巻き込みたくない、傷付けたくないと願いながらも、孤独の恐怖に負けて彼等の優しさに縋っている。
手袋越しに伝わってくる手のぬくもりに胸がちりちりする。そんな感覚を噛み締めながら、リゼットは漸く【黄金の暁】の拠点へ戻った。
屋敷に入るとシンと奇妙な静寂に包まれていた。初めて訪れた時も静かだったが、それとは違う。
空気がピリピリと殺気立っている。
リゼットは武器に手を掛ける。レナードは待てと言うように一歩前に出た。
その時、物影から燕尾服の男が現れる。彼は鋭い鳶色の目でこちらを一瞥し、一瞬にして距離を詰めた。波打つ長髪を纏めた赤いリボンが目の前を横切る。リゼットは咄嗟にスティレットを突き出した。
「オリヴィエ、どういうつもりだよ?」
「動かないで下さい」
オリヴィエにナイフを向けられたレナード、オリヴィエにスティレットを向けるリゼット、ライフルに手を掛けるが構えることのできない琥珀。
レナードは首筋にナイフを突き付けられているにも関わらず、「引け」と言った。リゼットは舌打ちする。
廊下の突き当たりや二階から向けられる銃に気付かないリゼットではない。引かなければ、撃たれる。
リゼットはスティレットを下ろし、琥珀を背に庇う。
オリヴィエは無抵抗なレナードを羽交い締めにした。それを見届け、悠然とした足取りで階段を降りてくるシナモンは声高に言う。
「アリスティドさん、貴方をエリカ・ドラクロワ殺害容疑で拘束します」
**初出…2009年9月2日




