【5】
地下街はウェーベルン市の地下、三キロメートルに渡って広がる都市だ。
地上の屋敷は目くらましで、ここが【黄金の暁】の本拠地となる。
地下街の内装は聖帝国のアーケードを思わせる作りで、商店があれば水路もある。天井には空が描かれており、時間によって青や紫に色を変える。ここは第二のウェーベルン市といったところだ。
国を無惨に破壊された王子が、親の残した有り余る財を駆使し、作り上げた楽園。
聖帝国の都市開発を真似て建設されたのが皮肉だが、水路をゴンドラが行き来する第二の街は外の沈んだ空気を感じさせないほどに穏やかな時間が流れていた。
レナードは初めてここに案内された時、金の使い方を間違えているのではないかと思った。しかし、思った以上に住み心地が良かったのでこれはこれで良いと今は感じている。
レナードは鍵の掛かっていない住居へ入り、二階のドアをノックする。扉には子供部屋を思わせる可愛らしい名前の札が下がっていた。
「こんばんは、お姫様」
「レナお兄ちゃん」
レナードは駆け寄ってくる小さな身体を受け止める。
「マリン」
マリンの愛称を持つ十歳ほどの少女は瑠璃の同腹の妹で、名はアクアマリンという。
幼い頃に患った病で色が抜けてしまったという黒髪は今では純白の輝きを持ち、極薄い青色の瞳は視力障害があるということを思わせないほどに煌めいている。性格も明るく健気で皆に可愛がられている。そんな夢のように美しい姫は近頃臥せっていた。
元々身体は強くない方だったらしいが、半年前に倒れてからというもの体調が安定せず部屋から出られない日々が続いている。
今は起きていることすら毒だ。レナードはアクアマリンの身体を抱き上げて寝台に戻してやった。
「歓迎してくれるのは嬉しいけど、ちゃんと寝ていないと瑠璃が心配するよ」
「ごめんなさい」
やはり子供は素直で良い。彼等は邪な感情を持っていないから、こちらも敵意を持たずに済む。
人間関係を潤滑にする為の演技としての笑みではなく、自然と微笑んだレナードはアクアマリンと目線を合わせた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、良いかな? 眠いなら明日にするけど」
「平気だよ。マリンに訊きたいことってなあに?」
ベッドに身を横たえ、ブランケットを掛けたアクアマリンは不思議そうな顔をする。
「ここにマリンの食事を運んでくるのって誰かな?」
「シナモンさんとか、オリヴィエさんかな」
やはりそうか。
胸がすっと冷えた。レナードは穏やかな表情のまま質問を続けた。
「今日の夕食、もう食べたよね?」
「少しだけ……。どうしてそんなことを訊くの?」
「マリンがどんな美味しいものを食べているのか気になってさ、残り物あるならいただいてみたいなーと」
「食いしん坊さんだ」
「あはは、そうかもね」
零れ落ちそうなほどに大きな瞳を細めて笑うので、レナードは微笑を返した。
一頻り笑うとアクアマリンは部屋の隅にあるテーブルを示す。
「まだそこにあるよ」
固焼きのパン、コーンクリームスープ、色とりどりの野菜が盛られたサラダ、柔らかく煮付けられた肉料理、ブルーベリージャムの入ったヨーグルト。見ると、殆ど口が付けられていなかった。
レナードはアクアマリンへ確認を取るとスープに薬指を浸し、それを口内へと入れた。
(……何か混ざっているな)
少女に背を向けたレナードは渋面を作った。
思った通り、毒が混入されている。それも即効性のものではなく、じわりじわりと身体を蝕み、衰弱死させる類のものだ。
レナードはこれに似た味を知っている。苦い記憶だ。
異母兄を父の後継者へと推す者たちはレナードを殺そうと躍起になっていた。毎日のように食事に毒を盛られ、時に首を絞められ、野盗に扮した彼等に寝首を掻かれそうになったこともある。
だが、それはそれだ。過去のことよりも今は今のことを考えなければならない。
「マリン、これからその二人が持ってくるものは食べちゃ駄目だよ」
こちらを殺す理由がある人物を思い浮かべるとやはりオリヴィエとシナモン辺りだが、アクアマリンもというのが解せない。
オリヴィエはアクアマリンとそれなりに親しく、シナモンも瑠璃の腹心の部下だ。
これは別の事件なのだろうかと考えて難しい顔をするレナードに、アクアマリンは悲しい眼差しを送る。
「レナお兄ちゃん、何かあったの……?」
「何でもないよ」
レナードはアクアマリンを怖がらせないように愛想笑いを浮かべた。
アクアマリンが眠ったのを確認して部屋を出る。一階に下りると瑠璃がやってきたところだった。
漆黒の髪をうなじで束ね、軽装をしている彼は買い出しをしてきたようで、腕には果実や菓子などが入った紙袋を抱えている。
レナードは瑠璃を家の外へ連れ出し、先ほどのことを伝えた。
「マリンの食事に毒? 何の冗談だ」
「オレが確かめた」
瑠璃が外で食事をする時、レナードはヴェノムという立場を生かして毒味をすることがある。
レナードの特異な味覚を知っている瑠璃は顔を青褪めさせた。
「食事を運んでいるのはシナモンとオリヴィエらしいね。手っ取り早く傷め付けて白状させようか」
「やめろ! 俺は身内を疑いたくない」
仲間を疑うのが辛いのは分かる。だが、それは甘さだ。
「マリンの食事に毒が盛られていたのは事実だよ」
レナードは自分のティーセットに毒が仕込まれたことは言わず、アクアマリンの件だけを伝えた。
瑠璃は疑り深く慎重だが、一度その懐へ入ってしまえば全幅の信頼を置く。オリヴィエもシナモンも側近中の側近だ。ここで余計なことまで言えば部外者のリゼットたちに疑いが向きかねない。
誰が敵なのか分からない今はこれ以上、周囲を刺激しない道を選ばなければ危険だ。
「薬は飲ませておくから安心しなよ」
「……ああ、頼む」
この手の毒に効く薬をあとであの三人組に運ばせることを約束する。
済まない、と消え入りそうな声で呟く瑠璃の隣でレナードは別の心配をする。
(あっちは大丈夫かな)
敵を潰すと息巻いていたリゼットは体調が悪そうだった。あの状態で奇襲を掛けられたら彼女といえど多少の傷は負うことになりそうだ。
彼女は自分の意思でここにきたのではない。ペンダントを返して欲しいが為に嫌々訪れたのだ。そのような理由で留まる彼女に何かあっては、こちらとしても心が痛む。
(……なんてな)
リゼットはレナードに消えろと言った。それはつまり構うなということだ。ヴェノムは滅多なことでは死なないのだから放って置けば良い。
藍色の空に浮かぶ人工的な月を視界の端に捉えながらレナードは自分の甘さを嘲笑った。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
日は落ちた。
ソファに寝転んだまま、うとうとと夢と現実の間を行き来していたリゼットはゆっくりとを身を起こす。
今は何時だろう。時間を確かめようと立ち上がろうとした瞬間、視界の端で何かが動く。
何かがリゼットの身体にぶつかり、そのまま押し倒される。
頭をぶつけた衝撃で目が覚める。反射的に突き飛ばそうとしたが重い。相手は全体重を掛けて首を絞めてきた。
赤い唇が苦しみに喘ぐ。
腹の上に馬乗りされているリゼットは動けない。相手の親指が喉をしっかり捉え、潰そうと力を込めてくる。
みしり、と首の骨の軋む音が聞こえる。
「…………な、せ……」
リゼットの苦しむ様に刺客はふっと笑う。
指が喉に食い込む痛みが意識を辛うじて繋ぐ。しかし、それも僅かのこと。酸欠と耳鳴りで思考がままならなくなる。
リゼットは吐息だけである名前を口にした。
――助けて、と。
直後、相手の力が弱まる。
リゼットの身体には暗殺者としての技術が染み込んでいる。相手の力が緩んだ拍子にリゼットは胸を殴り、袖に隠し持っていたナイフを思い切り突き刺した。
「ぐぅ――ッ!!」
思わぬ反撃に、刺客はよろけながら後方へ飛びすさる。
逃がすか、と追い討ちに放ったナイフが今度は腕に刺さった。どうやら相手は戦い慣れていない人物のようだ。
「……は…………」
荒く息を吐きながら、それでもリゼットはしっかりと瞼を持ち上げた。瞳は底光りするような血色に染まっている。
「……貴様……、何の真似だ」
中途半端に絞められた所為で喉が痛む。リゼットは片手をソファの背凭れに掛けて身体を支えた。
刺客は腕に深々と突き刺さったナイフを引き抜き、床に投げ捨てる。聞こえた呻き声は年若い男のものだ。闇の中で朧気に見える輪郭は細く、体格も女性のリゼットと大差ないくらいだった。
「何の為に私を狙う? 答えろ!」
「何故だと? お前たちが邪魔に決まっているからだ」
「私、たち……?」
「混ざりもののヴェノム! 面汚しめ!!」
恨み、妬み、恐怖、私欲。ヴェノムは人間と魔族に狩られてきた存在だ。
「次は必ず殺す……!」
黒いマントを纏った刺客はそう捨て台詞を残し、窓へ体当たりした。
耳を劈くようなガラスの砕ける音。暗い闇夜の中で砕けた破片が鈍い光を放つ。
「逃げられた」
床に落ちたナイフを拾い上げると刃先には血液が付着している。
リゼットはガラスの破片が散る窓辺へ行き、見下ろした。
寝ている間に雪は止んでいると思ったのに外は吹雪いている。地上の様子も見えない。
狂ったように降る、雪。
「ヴェノムだから……?」
人間でも魔族でもないヴェノムは弾かれ、略奪の対象となる。
もしかするとヴェノムを産んだから母は殺され、ヴェノムなどと関わったからあの人も殺されたのだろうか。
雪の降りしきる光景を眺めるリゼット。不意にその華奢な身体が傾く。リゼットは床に倒れた。
尖った破片が剥き出しの腕に突き刺さる凄まじい痛みがあったが、それを凌ぐほどの猛烈な眩暈が視界を支配している。
(……おかしい、な……)
月のない夜は魔族の力が弱まる。だが、今までこんなことはなかった。
吐き気を催す眩暈に堪えかねて瞼を閉じると、眼裏に白い破片が過ぎる。
手を握り締めてもその手からはどんどん熱が消えてゆく。氷のような冷たい感触にあの日、リゼットは逃げ出した。その記憶は精神が弱まった時に悪夢となって繰り返される。何度も、何度も。
リゼットは声にならない悲鳴を上げた。
**初出…2009年8月23日




