【4】
暖炉に燃える炎すらない、冷たく埃っぽい部屋。
コートを脱ぎ、スリーブレスのインナーにジャケットという軽装に着替えたリゼットは窓辺のソファに座っている。
「普通の神経なら、私の前に平然と出てこられないと思うが」
「警戒している癖に油断してるキミがいけないんだろ。危なっかしいよ」
不覚にも敵前で膝を着いてしまい捕らえられたリゼットは現在、軟禁状態だ。
琥珀と翡翠は別室に運ばれ、手厚く持て成されているらしいが、【黄金の暁】の主将とその用心棒に攻撃を加えたリゼットは屋敷の二階の一室に閉じ込められていた。
瑠璃の側仕えのシナモンという少年から、この部屋を出るなと言われている。そんなリゼットにちょっかいを掛ける人物は一人しかいない。
「何でそこまで怒るかなぁ。久々の再会なのに」
ティーセットを何処からか持ってきたレナードは手際良く用意をしている。
「あんな裏切りにあって平静でいられる方が可笑しい」
「それは普通の感覚」
「普通じゃいけないのか?」
「だって人殺しの時点で普通な訳ないじゃん」
別れる前は随分と良い人ぶっていたので忘れていたがレナードは冷酷だ。人の心の傷を抉り、立ち上がれないほどにずたずたに傷付けて、その後に誑かすようにどっぷりと甘い言葉を囁く悪魔だ。
「まあまあ、怖い顔しないでさ。紅茶でも飲んで心を落ち着けてから話そう」
警戒心も露わなリゼットの前のテーブルに、レナードはティーカップを置く。
湯気と共にストロベリーの甘い香りがふわりと立ち上り、その優しい香りにリゼットは思わず手を伸ばした。
旅の間は、胡桃やナッツといった木の実を卵黄などと混ぜて固く焼き上げた携帯食料や、ビタミン剤、塩分を多く含んだブレッドなどが主食だったのでこうした嗜好品は半月ぶりだ。
悴んだ手にカップの温かさが心地良い。
だが、紅茶を口に含んだリゼットの顔が強張る。
「貴様、何を入れた?」
「――――ん?」
金色の目が一瞬だけ、鋭くなる。
「これは……亜ヒ酸かな」
レナードは自分のカップのそれを喉に通した後、極めて平静に言った。
あまりに冷静でリゼットは呑み込めない。
「愚者の毒?」
亜ヒ酸は人体に有害だ。摂取すると消化器系の器官がやられる。嘔吐や腹痛などの症状が起き、血圧低下、頭痛など症状も見られる。多量に摂取した場合は腎不全などのショックで死に至る。
ヒ素は無味無臭かつ無色な毒である為、毒殺の道具として用いられる場合も多い。口に含んだ量は致死量には足りないものの、だからといって喜べる持て成しでもない。リゼットは吐き気がした。
「何の冗談だ。さっぱり笑えない」
「は……? そっちこそ何の冗談だよ。自分で自分の飲み物に毒物仕込まないだろ? それ以前にオレたちに毒物は効かない」
ヴェノムに毒物は効かないので無意味だ。
言われてみれば道理だが、だとしたら誰が毒を仕込んだのだろう。
「お前、誰かに恨まれているんじゃないか?」
リゼットは【黄金の暁】のリーダーに攻撃を加えたのだから組員に恨まれても仕方ない。しかし、レナードもとなると、自ずと答えはそういうことになる。
「どうだろう。心当たりがない訳じゃないけど」
「だったら本格的に牙を向かれる前に……」
「ストップ。それはバイオレンス過ぎるよ」
「何が物騒だ。やられたままにするのは屈辱的だろう」
目には目を、歯には歯を。やられたら同等かそれ以上の不幸を送る。リゼットはそういう人種だ。血の気が多い魔族は一度【スイッチ】が入ってしまうと止まらなくなるのだ。
「狩られてからじゃ遅いんだ」
「うん、まあね。でも仮にも仲間だからさ……」
本当は潰したくて仕方ない癖に体裁を繕っているレナードにリゼットは苛立つ。
「ならば良い。私が潰す。もうお前に用はないから消えろ」
「だから何でそんなに冷たいのかな」
「誰の所為だ、この破滅的莫迦!」
「……じゃあ、失礼するよ」
どうして自分がここまで苛立っているのかも分からない。このままレナードといると気分が悪くなる。
ソファに備え付けられたクッションを歪むほどに強く掴むリゼットを前にして、レナードは仕方なく出て行った。
(莫迦だ)
レナードはどうしようもない莫迦だ。
先ほど見せた冷静さは慣れている証拠だ。レナードは毒を盛られることに慣れている。大体、普通の味覚ならばヒ素など感じ取れないのだ。
「どうかしてる」
彼も普通ではないが、自分も人のことは言えない。戦いは嫌だと思うのに気付けば頭はいつも相手を捻り潰すことを考えている。最近は特にだ。
どうかしているとリゼットはもう一度繰り返し、そのままソファに横になった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
「破滅的莫迦って何だよ……」
毒物入りのティーセットを銀のトレイに乗せて廊下に出たレナードはぽつりと呟く。
あれはあんまりだ。どうしてこちらが彼女に毒を盛る必要があるというのだろう。そこまで考えない彼女の方こそ愚かだ。
「貴男にぴったりな言葉じゃないですか」
レナードが悩んでいると、奥の部屋から出てきた生意気そうな雰囲気の少年が近寄ってきた。
名前は忘れた。レナードは興味のない人物の名は記憶しない。
「やあ、お久し振り」
男に愛想を振り撒く必要もないので、無表情のまま声を掛ける。少年――琥珀は挨拶を返すことなくレナードに意見する。
「リゼットにちょっかい掛けるの止めてくれませんか」
「何で?」
「貴男と話した後、そのストレスによるとばっちりを受けるのは僕と姉なんですから」
軽く聞き流す姿勢のレナードに、琥珀は飽くまでも真面目に言う。
「というよりも……僕たちの友人を泣かせたらたたじゃ置かない」
「じゃあオレが彼女を泣かせた場合、キミは剣を抜くのか?」
「嫌だなー。武力行使なんて野蛮なことする訳ないじゃないですか。頭を使って報復するんです」
仄暗い感情をたっぷりと含んだどす黒い笑みが幼い顔に浮かぶ。レナードはここで漸く琥珀が自分と似た人種なのだと気付く。
湧き上がる笑いの衝動を堪え、冷ややかな目で見下ろすと琥珀はびくりと肩を揺らした。
「小さな騎士さんは怖いなぁ。でも、オレはそんな少年のこと嫌いじゃないよ」
生白い腕をしながら不相応な剣を持ってみたり、弱い癖に吠えたり、こまっしゃくれていたり。
この少年の彼女への信頼からくる勇気は、年上の女性に憧れ、適わない想いと知りながらと足掻いていた【とある少年】の愚かさを彷彿させる。
「安心しなよ。オレなりに愛を以って接していくつもりだからさ」
レナードの言うそれは慈愛と嗜虐というものが絶妙に混ざったサディスティックな愛だ。
怖い顔をする琥珀を残して、レナードは屋敷の一階に下りた。
「瑠璃はまだ地下か?」
階段の横に微動だにせずに佇んでいる人物へ訊ねる。
片目を眼帯で覆っているこの人物は、オリヴィエ・アルヴァレス。オリヴィエは偽名を名乗っている者が多い【黄金の暁】内で本名を通している珍しい人物だ。
「自分はここで見張りを仰せつかっておりますので、外のことは分かりません」
「それもそうか」
「自分もアリスティドに訊きたいことがあります。彼女は【氷の瞳】ですか?」
「あんたも聖帝国の軍人だったっけ。もしかして顔見知り?」
「恐らくは」
「じゃあ、手が空いたら話してみたらどうだ?」
「宜しいのですか?」
「オレが【紅威】を殺したってのを言わないこと前提ならな」
リゼットが消えた船でレナードが殺害したクリスティアン・べレスフォードという軍人は、彼女の師に等しい存在だ。
リゼットは存外甘い。そんな彼女にあのことが知れたらとんでもないことになりそうだ。レナードはオリヴィエに釘を刺す。
「はい、有難う御座います。では、話した際にはしっかりお伝え致しますね」
そう言ったオリヴィエはいつも淡々と喋る癖に何故か抑揚が軽やかだ。
冷静かつ寡黙。真面目さが取り柄のこの美丈夫は会話を好まないが、レナードとは片目を隠すこととなった因縁があり、何かと食って掛かることが多い。
食えない【女】だと小突くと、凄まじい力でど突き返された。
瑠璃とレナードにも言えるように【黄金の暁】のメンバーはこういうノリだ。人の揚げ足を取ってからかうことが日常茶飯事で、ど突き合いも珍しいことではない。
「冗談のお詫びに……瑠璃ですが、見舞いに行くと仰っていたので恐らく地下街の方にいらっしゃると思います」
「分かった。んじゃ、引き続き見張り宜しく」
瑠璃が見舞いへ行くとしたらその相手は、臥せっている妹姫のアクアマリンだ。
だとしたら、丁度良い。
毒物のことで気になることがある。取り合ってもらえるかはさておき一応瑠璃に話を通しておこう。
レナードは急ぎ足で階段を下った。




