【2】
相手の手がすっと伸びてきて、頬を擦る髪を耳に掛ける。
ああ、殺される。
そう諦めた。しかし、死の衝撃は襲ってこなかった。代わりに柔らかなぬくもりある何かが唇を塞いだ。
思考が止まる。肩越しに赤い月が見えた。
深く重なった唇の微かに開いた隙間から滑り込んだ熱い舌が、同じそれを絡め取り、呼吸さえ奪われる。苦しいと感じる前に何をされているのかが分からなくて、次第に頭がぼんやりとしてくる。とくり、と口の中に何かが流れ込み、それを呑み込んでしまった時、リゼットの意識はやっと定まった。
「――っ離せ!」
頭に血が上り、得体の知れない液体を差し入れてきた狼藉者を殴る。
「静かに」
鳩尾目掛けて蹴りを入れ、ナイフを引き抜いて声を張り上げるリゼットに、不審者は短くそう言いながら人差し指を立てた。
「人がきて遣り辛くなるのはオレもキミも同じだと思うけど」
「貴様、私に何を飲ませた……?」
押し殺した低い声でリゼットは問うた。
「アンブレラの中和剤」
男は纏っていた外套のフードを肩へ落とした。青白い月明かりに白い顔がふっと浮かび上がる。肩に触れる長めの赤茶色の髪と、ルビーレッドの瞳を見たリゼットは愕然とした。
「貴様は昼間の!」
「また貴様って」
「レナだったか?」
「そう、オレはレフィナード」
長いからレナードで良い、と赤毛の男は緊張感の足りない表情で言った。
レナードの、のほほんとした顔を見て、先ほどの痴漢行為や理不尽に薬を飲まされた件で沸々と湧いた怒りは凍て付くように冷めてゆく。
リゼットは知っている。こういうタイプの人間は何を言っても意味がないことを。
「あれ、機嫌悪くした?」
「………………」
「薬のこと? それとも飲ませ方のこと?」
どちらもだ。リゼットは怖い顔をして、相手を睨み付ける。
「まさかファーストキスを奪っちゃったとかじゃないよね?」
「ふざけるな」
本当にうんざりだ。邪魔をされて気が立っていたこともあり、リゼットはウエストに固定した鞘から剣を引き抜いた。
剣の柄にリボルバーが付いている武器――銃剣。刃先を鼻先に向けられて、レナードは軽く目を見開く。それは恐怖を覚えた者の表情ではなく、純粋な驚きによる反応だ。
「貴様の所為で薬の効果が切れてしまった」
唇を奪われたのも腹立たしくはあるが、そんなことはさして障害にはならない。問題は、折角使用したアンブレラが中和されてしまったということだ。
中途半端に効いているのか不快な頭痛だけが残っている。これだけ腹立たしいことはない。これから何らかの心的衝撃が加われば、すぐにでもこの男の首をはねてしまいそうだ。それほどに今のリゼットは気が立っていた。
「ドラッグは身体に悪いから使わない方が良いよ。キミだって今は物騒なことをしているけど、将来家庭を持つかもしれないし」
子供が産めなくなったら大変だ。
真顔でそう言うレナードの首筋に、リゼットはガンブレードの刃を宛がう。
どうして赤の他人にそのような心配をされなければならないのだろうか。リゼットの中でレナードの印象は最低最悪だ。その感情のまま強い視線で睨み付けるリゼットの顔を、レナードは至極穏やかな眼差しで見返した。
物静かな存在感というのだろうか。穏やかながらに意思の強さを伺わせる眼差しにリゼットは僅かに怯む。だが、その様子は見せずに問うた。
「貴様の目的は何だ?」
ただの問い掛けではない。これは尋問だ。
仮にこの男がこちらの正体を知り、邪魔をしようとする者だとしたらここで殺す。リゼットはいつでもレナードの首を落とせるように剣を構えている。
「ただの乗客ってのは駄目?」
「一般人がアンブレラの中和剤を持っているのか」
レナードは観念したようで、目を閉じると溜め息をついた。
「オレは魔王討伐を狙うレジスタンスの一員なんだ」
「テロリストがこの船に何の用だ?」
「金髪の軍人さんが持っている軍事資料に興味があってね」
魔王とは即ち魔族の王。獣の姿をした下級の魔族――魔物という――や、人の姿を取ることのできる上級の魔族たちを統べる存在で、今全世界を恐怖に陥れている。
現在世界の敵とされている存在はリゼットの他にもう一人いる。それは魔族の王、緋王だ。
――――事の始まりは、今から三十数年前に遡る。
とある丘の地下洞窟へ封じられていた魔族の王、ヒオウの封印が何者かによって解かれてしまった。
ヒオウは千二百年ほど前に勃発した魔族同士の争いの中で君臨した、魔族の王だ。
人間と魔族の血に染まりし、緋色の王。
ヒオウの圧倒的な力により争いが終わり、敗れた魔族たちは王に従った。
魔族や魔物は、人間の魂と肉を食べる存在であった。王が現れたことによって、より力を増した魔族たちは人間の里を襲い、女子供といった弱い者から殺していった。
当然、人間も黙っているはずがない。それから百年にも及ぶ長い争いが始まった。
人間と魔族の長い争いの後、ヒオウは三人の勇者によって【アッティラの丘】に封印された。
その封印塚が破壊されたのが、三十数年前。俗に言われる【朱紅い落日】だ。
封印から解き放たれたヒオウは、再び人間の生命力を求めるようになった。
豊かな世を生きる腑抜けた人間には魔族に抵抗する力はなく、ただ殺されるのを待つのみ。
立ち上がる者もいるにはいた。
今も魔王を倒そうとする者はいる。だが、どうしてもヒオウには敵わない。あろうことかヒオウを主将とする魔族軍に下る国家までも現れた。それは世界の中心とも言える聖帝国ベルリオーズ。
魔族に屈した彼等はヒオウが言うままに楯突く者を殺し、ヒオウが望むままに力を持つ者を集めた。そして集められた者は、無惨に食い殺された。
聖帝国外の人間は、ヒオウと魔族の存在に怯えながら暮らすこととなった――――。
「では、貴様等は聖帝国の技術を盗んで魔王を倒そうと言うのか?」
「んー……まあ、簡単に言えばそうなるのかな」
レナードはヒオウを討とうと集まったレジスタンスの一員だという。
つまり、ヒオウを匿う聖帝国も敵ということだ。形は違うが、聖帝国を倒そうとしているリゼットと敵という訳ではない。寧ろ、同志に等しい。
勿論「世界に必要な者はいない」と人間へ粛正を行おうとしているリゼットに、本当の意味での同志など存在しないのだが。
(……想定外だ)
アンブレラがなければリゼットはただの小娘でしかない。リゼットに流れるヴェノム――人間と魔族のハーフ――の血の力など微々たるもので、人間より幾らか魔力が高いくらいだ。
レナードの所為で計画が水の泡だ。リゼットは壁に背を預けたままずるりと腰を下ろした。
意気消沈した姿を見てレナードはリゼットの隣に座る。
「オレはキミの目的を邪魔しちゃったんだよね」
「そうだ」
分かっているなら、疾くと消えて欲しい。
こちらはどうやってあの警備を掻い潜るか思案中なのだから、軽い気持ちでレジスタンスに参加しているような者に話し掛けられたくない。
本当に世界の解放を願って戦う者はどれだけいるだろう。リゼットにはこの男が流されるまま生きているように見える。芯から抵抗地下運動に身を投じている者には思えないのだ。
リゼットは人の善意というものを信じていなかった。
レナードはリゼットの猜疑心など露知らず、空を見上げながら唇を動かした。
「キミは明らかにこれから殺りますって感じだったけど……」
「ああ、私はこの船に乗っている聖帝国関係者を殺すつもりだ」
「つまりキミは過激派なんだ」
リゼットはレジスタンスなどに所属はしていないが、【破壊の使徒】と名乗るのも憚られるので無言を貫いた。
「仲間にこう言うのもあれだけど、オレは目的が手段を正当化させるとは思えない」
「時と場合による」
穏健派を気取るつもりだろうか。それでレジスタンスを名乗るとは笑わせる。
しかし、自身が否定されたこともあり、リゼットは冷笑を浮かべることもできずに奥歯を噛み締めた。
「無闇にぶっ殺したら殺人鬼と同じだよ」
(だったら貴方は誰の犠牲のお蔭で生きているの?)
そう叫びたくなる自分を抑えるように拳を握り締めた。
悴んだ指の先が白くなり、爪が掌に食い込む。硬い表情をしたリゼットを黙って見つめていたレナードは、ふと真面目な表情を崩した。
「なーんてね」
「…………?」
「それはうちの雇い主が言っているだけで、オレは別に誰が死のうが生きようが関係ない。興味ないよ」
赤い瞳を細め、唇を笑みの形に歪めながらレナードはリゼットの手を取った。
血が滲むほどに握り締めていた手に労るように優しく触れ、唇を寄せる行動にリゼットはまたしても度肝を抜かれる。
不快感という生易しい感情は既に通り越した。ただただ呆気に取られるしかない。
「キミが船を沈めるというなら協力しても良いよ……?」
良い余興になりそうだから。
軽薄な台詞に添えられる凄絶な微笑に背筋にぞくりと悪寒が走る。それは見ているだけで震えがくるような、凄まじいくらいに色気漂う微笑だった。
これは本当に人間の男が持ち得るものだろうか。
(こいつは何者?)
仲間ではなく、雇い主と呼ぶということはレナードの身の上は傭兵が何かだ。彼は正式なレジスタンス組員ではない。どうりで真剣味が感じられないはずだ。
リゼットは彼の血のように赤い瞳を見返してふと気付く。長めの髪に隠されるようにされていたレナードの耳が僅かに尖っていることに。
(こいつは……ヴェノム……?)
リゼットと同じ、人間でも魔族でもない半端者のヴェノム。
整いすぎた容貌や真紅の瞳は魔族を思わせると感じたが、レナードは半分のようだった。
「ターゲットはウィルス・マイヤーズだろ? それなら詫びも兼ねてお手伝いさせてもらうよ」
レナードは立ち上がると、にっこりと人好きする笑みを頬に刻んだ。
頭上では星の刺々しく輝いている。
「毒を食らう覚悟があるならこい」
こうなれば詫びだろうが、余興だろうが、協力者が変態だろうが何だって良い。利用して適当に捨て置けば良いのだ。
「そうこなくちゃ! それで、今更なんだけどキミの名前は?」
名乗らなければならないことに気付いたリゼットは低く唸った。
「……リゼットで構わない」
「じゃあ、リゼって呼ばせてもらおうかな」
リゼットが無愛想にそう告げるとレナードは嬉しそうに【リゼ】と呼んだ。
名前を呼ばれるなど、いつ以来だろう。
痛みと喜びが同じくらい込められた懐かしい愛称を聞き、リゼットは過去に引き摺り込まれそうになったが、目の前に腕が伸びてきた。仰ぎ見ると、レナードが穏やかな顔をして手を差し伸べていた。
(……莫迦なやつ)
リゼットは人類の敵だ。知らないとはいえ、いずれ自分を殺す存在に手を貸そうとは愚かでしかない。
「宜しく、リゼ」
「馴れ馴れしく呼ぶな」
差し伸べられた手を取ることなく毅然として立ち上がったリゼットは、ふいと顔を背ける。そのような非友好的な態度を見せ付けられてもレナードは微笑んでいる。
** 初出…2009年4月29日