【2】
今宵は一段と冷え込んでいる。
寒さに耐えかねて酒を飲んで身体を温めていると、ふと下階の騒がしさに気付いた。瑠璃が切れ長のブルーアイを細め、何事だと考えていると唐突にドアが開かれる。
【黄金の暁】に於ける上下関係はないとはいえ、王族に連なる瑠璃の部屋に許可なく踏み入る無礼者はそうそうない。
「やあ、久し振り」
「久しいな、レフィ」
実に三ヶ月半ぶりの再会である。
酌を置いて、腰を上げた瑠璃は色々な感情の入り混じった複雑な表情でレナードの前に立つ。
「どうかした?」
「いや……何でもない。ご苦労だったな」
「オレのこと殴るつもりだったろ?」
そう、そのつもりで立ち上がった。だが、レナードを前にした途端に萎えてしまったのだ。
「ったり前だろ! お前の所為でアジト半壊だぞ?」
「クライ殿下からたっぷり絞られたよ。殴られる覚悟はできてる」
「殴りたいのは山々だが、そんな顔している奴を殴れんだろう」
瑠璃が制裁を諦めた理由は、レナードの様子だ。
何がそんなにも彼を窶れさせたのかは知らないが、このふてぶてしさに定評のあるレナードが臥せるとしたら余程のことだ。
キトリーで受けた老人の反応からそれを自覚していたレナードは、敢えてそれを笑い話にしてみせた。
「最新鋭のライフルが思った以上に強力で、傷塞がるのに時間掛かったんだよ」
「一、二回死んだって顔だな。図星だろう?」
「舐めないでくれる? オレを誰だと思ってんの」
「指名手配犯のアリスティド様、だろう」
瑠璃は肘で軽く突くと、大仰に溜め息をついた。そして二人は緊張が解けたというように笑い出す。
喉を鳴らして笑い合う二人は、離れていれば憎まれ口を叩き合う険悪さを持つが、顔を合わせればそれなりに息の合った主従だった。
「――それで、噂の【破壊の使徒】とやらを本当に口説いたのか?」
夜明けまではもう暫くある。空の色は微かに明らみ出し、雲の輪郭が分かるようになってきた。
酒があまり好きではないというレナードの為にハーブティーを用意させた瑠璃は、積もりに積もった話の間にふと訊ねる。
「マジマジ。宝物も拝借してきたよ」
「マジかよ……」
レナードの言う【拝借】とは強奪に等しい意味合いがあると、瑠璃は知っている。
阿修羅の宝玉を奪ってきたとなると報復を覚悟した方が良いかもしれない。
どうして後のことを考えないのだという言葉を飲み込み、フローライトのペンダントを受け取った瑠璃は溜め息をついた。嘆き、諦め、覚悟。様々な負の感情が籠もったそれに、愛想笑いを浮かべるレナード。そんな不届き者を、傍仕えのシナモンはじろりと睨む。
「まあ、借りてきたもんは仕方ないが、戦力になるんだろうな?」
「百人殺しの異名がある女だよ。充分すぎるんじゃない?」
「殺人鬼を傍に置くのか」
【破壊の使徒】には死体を漁るという他に、跡形なく百の人間を消したという物騒な噂がある。レナード曰わく、彼女は氷使いで、人体を冷凍崩壊させる魔術が使えるとのことだ。
やはり恐ろしい、と瑠璃は渋面で唸る。
「大丈夫、大丈夫。頑固で融通が利かない男勝りな女だけど、基本的に真面目だから」
「お前、厄介な奴ばっか勧誘しやがって……」
「氷使いは変人揃いだっていうし仕方ないって」
瑠璃から言わせると、レナードを含める炎使いも奇矯で油断のならない人物揃いだ。
地は温厚で誠実、水は気難しく頑固、火は苛烈かつ情熱的、風は気紛れで二面性があるなどなど、己の先天的な属性によってある程度の性格が決まっているというが、あまり信用できたものではない。
「彼女、今頃は自治州辺りにいるんじゃないかな」
「へー、そうか」
それは生返事。
自治州からこの西海国までは船で約五日。それは瑠璃に残された安息の時間でもある。
一年が始まってまだひと月しか経っていないというのにまた騒がしくなりそうだ。
身体が休息を必要としているのか欠伸がこぼれた。
「んじゃ瑠璃。そろそろ太陽が出るから、地下街に引っ込ませてもらうよ」
「夜行性め」
レナードは昼は眩しいから外に出たくないと言い、有事の時以外は延々と地下街に引きこもっている。
瑠璃とレナードのそもそもの始まりは、戦場で出会ったこと。【黄金の暁】のターゲットをレナードが横から掠め取ったのだ。その鮮やかな手並みに迂闊にも惚れ、そのままスカウトしたのが間違いだった。
だが、過ぎたことを思い返しても仕方がない。なるようになれ、だ。
「そうだレフィ。エリカが寂しがっていたぞ」
「へえー、じゃあ構ってやらないとな」
エリカとは【黄金の暁】の同志だ。足の不自由なので戦いに加わることはないのだが、まだ幼い瑠璃の妹の面倒を看てくれている面倒見の良い娘だ。そんな彼女はレナードに惚れていた。
レナードが国を出ていたこの三ヶ月、瑠璃は何度もやめるように忠告した。けれど、彼女は聞く耳を持たなかった。
傷付けられて後で泣くことが分かりきっているのに、何故人在らざる者に焦がれるのか。そこのところがどうにも理解できなくて瑠璃はレナードの消えたドアを睨んでいた。
「女性は食糧代わり。魔族は汚らわしいですね」
魔族に両親を殺されたというシナモンは、ヴェノムのレナードを嫌っている。
【黄金の暁】の同志たちが魔族へ抱く感情も様々だ。
「ああ畜生。眠いな」
シナモンの言葉には敢えて答えず、瑠璃は窓辺に立った。
海の向こうからはもうすぐ太陽が昇ってくるだろう。太陽は毎日昇るが、世界の夜明けはまだ訪れない。自分たちがそれを齎すのだと、瑠璃は亡き同志たちの墓の前で誓っている。
(休んでおくか)
朝焼けというものは人に希望の感情と共に不安感を与えるものでもある。あまり見るものではない。それに安眠できるのもあと数日だ。
今の内に寝溜めしよう。そう決めて瑠璃はシナモンを下がらせた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
波の音が聞こえる。
海が泣いている。それを聞くリゼットも泣きたい気分だ。
「貴様ァ! どうして密航などしたのだ!? これは犯罪なんだぞ、犯罪!!」
格納庫で琥珀と翡翠の姿を見付けてしまったリゼットは思わず絶叫した。
その悲鳴は上階まで届いたらしく、すぐに船員たちが格納庫へ詰め寄せ、密航者三人組は捕まった。
「密航だと舐めていたのか! たかが密航だと思っていたのか! そうなのか!?」
リゼット、琥珀、翡翠は船長室で、船長代理だという男に責められていた。
「う……うぅ、だってお母さまが……」
「お母さまが何なのだ!」
「出稼ぎに異国へ行ったお母さまが……病に臥せっているんです……」
僕たち姉弟はどうしてもお母さまに会いたくて。
そう口から出任せの身の上話を始めたのは琥珀だ。彼は器用に嘘泣きまでして、切々と経緯を語る。少年の隣では姉がレースのハンカチーフで濡れた頬を拭っている。
とても複雑な状況だ。
琥珀は明らかに演技だと分かるのだが、翡翠は如何なものか。もしや罪悪感から涙を流しているのだろうか。そう考えるとリゼットの胸は締め付けられるようだった。
だが、それはそれ。リゼットにとっては捕まったことよりも、何故アプロディーテ姉弟がここにいるのかということが問題である。
リゼットは船長代理と琥珀の会話を右耳から左耳へ聞き流しつつ、考える。
「大体の話は分かった。だが、この娘は何なのだ。明らかに他人ではないか!」
「これは今は亡き父の連れ子で異母姉です。こんな状況でも泣きもせず、ふてぶてしく仏頂面を決め込んでいるとんでもない女で、オマケに悪人面してますけど、僕たちがお金がなくてお母さまの見舞いに行けないと知ると【密航して会いに行こう!】って提案してくれた腹黒くも優しい姉なんです……」
(いや、ちょっと待て)
右耳から左耳へ聞き流せなかった。
確かにふてぶてしいのは認めるが、とんでもないとか悪人面とは言われたくない。それに、密航しようという人物の何処が優しいのか分からない。
「だからリゼ姉さまを叱らないで下さい……! 責めなら僕があぁ……!!」
うわああぁと泣き崩れる琥珀。そんな彼の肩に腕を回したのは翡翠。
「いいえ……いいえ! 駄目よ、琥珀! あなたは大事な家の跡取り。こんな所で命を散らしてはいけないわ。責めならあたしが受けるべきよ……!」
「でも……でも翡翠姉さま……!」
「大丈夫。あたしは例えここで海の藻屑となろうとも、空の上からあなたたちを見守っているわっ」
「ね、姉さまぁぁ……!」
「琥珀ぅ……っ!」
(これは笑うべきなの……?)
妖精学者など辞めて、舞台俳優にでもなった方が良いのではないだろうか。麗しい姉弟愛の劇が繰り広げられる前で、部外者のリゼットは顔を強張らせるしかできない。
密航者は、両手両足を縄で縛られて海に捨てられると決まっている。リゼットはそれを身を以て知っている。
人の良い船長が「見逃してやる代わりに甲板掃除をしろ」などというヒューマンドラマが繰り広げるのはフィクションの世界だけだ。
(どう片付けようかな)
リゼット一人だけなら船員を縛り上げて脅す等の悪行も行える。この姉弟の前で手荒な真似はしたくないが、男の態度次第では気絶させる程度の攻撃は加えなくてはならない。
リゼットはグローブを嵌めた手を握り締めて、その時を待つ。
けれども。
「よし、分かった。わしはお前たちの姉弟愛に心を打たれた! 自治州まで乗っていくと良い。ただし、船内の掃除をしてもらうぞ!」
「は、はい、船長代理……!」
「琥珀、お掃除頑張りましょうね!」
「空いている船員部屋を使うと良い。あとで賄いを運ばせよう」
(大莫迦者だ)
何やら船長代理は義の船乗りを気取りたいらしい。リゼットは命拾いしたにも関わらず内心毒吐いた。
デッキブラシを使って甲板を磨いているという、何かの冗談に等しい状況にあるリゼットの気分は重い。鉛を持たなくともそのまま水底へ沈んでいきそうなほどに暗く落ち込んでいる。
同族の血液を摂取してからというもの、どうにも太陽の光を苦手に感じるようになってしまった。
じわじわと体力を奪われていくことを感じつつ、それでもリゼットが掃除の手を休めないのは苦々しい気分を洗い流してしまいたいから。
(どうしてなの)
本当にどうして、ここに琥珀と翡翠がいるのだろう。
涙を流すほどの迫真の演技を披露した二人はけろりと立ち直り、それぞれに与えられた仕事をこなしている。琥珀はリゼットと同じくブラシ掛け、そして翡翠は窓拭きだ。
吹き付ける海風の冷たさを感じていないように琥珀はてきぱきと手を動かしている。
手を止めたリゼットの横に、翡翠が寄り添うように立った。
「……翡翠、何故だ?」
リゼットは赤い目を僅かに細め、低い声で問う。翡翠は小首を傾げた。
「なぁに?」
「どうして私を追ってきた」
「どうしてって、あたしはリゼのことが大好きだから。それじゃ駄目?」
「良い訳ないだろう!? 密航は犯罪なんだ。いや、そうではなくて……」
口を空回りさせるリゼットの前で翡翠はふふ、と笑う。
「お前はともかく琥珀の学校はどうするんだ?」
琥珀は学生だ。冬休みが終わってまだ半月ほどしか経っていないというのに彼は何を考えているのだろう。
「あー、それなら休学届を出してきたから大丈夫」
田舎の学校で勉強しているよりも、外の世界を見ている方が学ぶことも多そうだし。
リゼットが責めるように睨むと、琥珀は得意気に語った。
「私に付いてくるのは普通ではなくなるということだ。お前たちは分かっているのか?」
「うん、分かってるよ」
「ええ、勿論。分かっているわ」
今までの生活を簡単に捨てられる精神性がリゼットには理解できない。安穏とした人生を望んでおきながら、自ら進んで外の世界に出るなど一貫性がないではないか。たった数ヶ月を過ごしただけの他人、しかも人殺しを慕って付いてくるなど正気の沙汰とは思えない。
苦虫を噛んだような苦しい顔をして唇を引き結ぶリゼットに、翡翠はそっと微笑み掛けた。
「さっきの涙、演技じゃないのよ。リゼにまた会えたって思ったら自然と出てきたの」
日溜まりの中で翠色の瞳をきらきらと輝かせ、夢のように笑む少女は汚れを知らない子供のようだ。
「あたしはあなたの邪魔をするつもりで付いてきたんじゃないわ。あなたを連れ戻す為に追ってきただけなの」
「私は戻るつもりはない」
「今は目的があるからでしょう。全部終わったら気が変わるかもしれないわ」
その時まであたしは一緒にいるわ。そう言って翡翠はいつかのようにリゼットの手を取った。
グローブ越しにも分かる、柔らかくあたたかい少女の手。自分とはあまりにも違う、優しい手の平。
「……もう、うんざりだ。勝手にしろ」
ふわふわと綿毛のように柔らかな笑みを浮かべる翡翠を直視していられず、リゼットは顔を背けてぶっきら棒に吐き捨てた。
「じゃあ、勝手に付いていくわね」
「そうだね。僕たちは勝手にすることにするよ」
顔を見合わせ、微笑み合う姉弟。
リゼットは彼等の軽率さに憤る。けれど、朗らかに笑い合う二人の傍でどうしようもなく安堵を感じてしまった自分もいた。
リゼットは眦を下げてしまいそうになる自分を慌てて叱責し、ブラシの柄を強く握った。それを見とめた琥珀はにやりと笑う。
「それにしても、知らないとはいえ【破壊の使徒】に甲板掃除させる船長も怖いもの知らずだね」
「私の名を軽々しく呼ぶな」
「いっそ清掃員とかなったら? デッキブラシ似合ってるよ」
「黙れ、猫被り小僧!」
「ぅぐ……っ!!」
リゼットはブラシの先の部分を使い、がら空きの琥珀の腹を突いた。
凄まじい突きの衝撃を物語るような音と同時に、潰れるような呻き声が上がる。リゼットは意に介さない。今までは【命の恩人】として多少遠慮して、嫌味にもじっと耐えてきたがこれからは違う。
こちらの承諾を取らずに勝手に付いてくる彼等はストーカーだ。不審者は撃退するもの。だからリゼットはもう容赦しない。
(もう優しくなんてしない)
これからは必要以上にこの姉弟に肩入れすることは止めようと、きっぱり決めた。
攻撃を食らい、床に膝を着きながらも笑う琥珀。どちらの味方に付く訳でもなく、くすくすと笑う翡翠。そして、呆れたと肩を竦めるリゼット。三人の友人関係が本当の意味で始まったのは、この時だったのかもしれない。
笑い合う姉弟背を向け、海面を見つめたリゼットの眉が不意にきゅっと歪む。
床にデッキブラシが転がる。
掴んでいた清掃具を離してしまった左手は痺れていた。
「どうかしたの、リゼ?」
「……あの莫迦の所為だ」
手首がまるで爪を立てて引っ掻かれたように鋭く痛む。
(何をしているんだ?)
あいつは何をやっているんだとリゼットは苦い気持ちで嘆息した。
それは丁度、船でレナードがある邂逅を果たした頃のことだった。
**初出…2009年8月17日




