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【第一幕完結】レゾンデートル  作者: 瑠樺
二章 安らぎと悔恨の狭間で
25/53

【7】

 茜に染まる港町。太陽の色を映し、燃えるように輝く海原に向けて船がゆっくりと動き出す。

 つい先ほど出航したイルーニャ自治州行きの船ウェンディ号に、リゼットは乗船していた。


(長い休みだったな)


 船に乗り込む前に見て回ったアーレントの町には、臙脂色の制服をだらしなく着た学生たちが溢れていた。

 冬期休暇気分が抜けきらないのか、学校が始まってもやる気のなさそうな琥珀だった。町に溢れる学生たちも、もしかするとそうなのかもしれない。

 リゼットにとっても、セレン島で過ごしたこの二ヶ月は学生たちと同じ冬期休暇――人生で最初で最後の穏やかな時間――であったようなものだ。

 しかし、所詮は泡沫の夢。幻想はいつまでも続くことはなく、夢もいつかは終わるもの。

 リゼットはこれから自分の足でしっかりと現実を踏み締めていかねばならない。

 負けん気の強そうな赤い瞳で真っ直ぐと前を見つめるリゼットの腕には、翡翠に貰った結い紐が結ばれていた。

 暗がりの中でもきらきらと光るそれを見て、リゼットは僅かに眦を下げる。

 彼等との別れは辛かったが、それは誰かに強要されたことではなく自分自身で決めたことであるので後悔はない。

 前を向かねばならない。昔のように逃げて立ち止まっていては駄目だ。

 アプロディーテ姉弟との別れによって、リゼットはまた孤独に戻った。

 頼る人は何処にもいない。以前はそれが寂しくて堪らなかった。本音を言えば今も心細さは感じている。人殺しという業を生涯背負って生きていくのも怖い。


(貴方が拾ってくれた命だから……)


 スレイドを失ったことは悲しい。今でも思い返すとどうしようもない怒りと悲しみの感情が込み上げてくる。けれど、そのことで剣を振るうのは止めにする。

 憂さ晴らしの為に生きるのではなく、もっと自分を誇れるような【何か】を見付けたい。リゼットは生きていて良いという理由を見付けたい。


(それにしても、揺れが……酷い……)


 リゼットは船底近くにある格納庫に潜んでいた。

 三半規管の弱いリゼットにとって船旅は辛いものがあったが、三日も耐えれば自治州に到着するのだから我慢するしかない。

 レナードの手紙にあった西海国ブランザは西の海域にある国で、自治州から船が出ていたはずだ。そこを目指すべくウェンディ号に乗船したリゼットが何故格納庫に隠れるようにしているのか。

 理由は至ってシンプルである。そう、密航したからだ。

 例の事件で偽造パスポートを失ってしまったリゼットは、正規に交通機関を利用することができないので密航するしかない。

 そんな時だ。リゼットが隠れていた斜め向かいの積み荷の更に向こうから声が聞こえてきた。


「い、痛いな。もう少し詰めてよ……」

「仕方ないでしょう、狭いんだから」

「あああ痛い! 手がもげる! 姉さん重い、マジで重いって!」

「静かにしなさい。船員さんに見付かってしまうわ」

「でも本当に重いんだけど……」


(私の他にも密航者がいるのね)


 姉弟で、しかも荷物に紛れての密航とは中々大胆だ。恐らくは初犯。

 何やら彼等のやり取りは耳に懐かしい。口調も声色も、翡翠と琥珀にそっくりではないか。

 断ち切ったつもりでも名残惜しさから幻聴を聞いているのかもしれない。幻想を断ち切る為にも確かめなければならない。

 リゼットは積み荷をひょいと飛び越えると、がたがたと動く箱を包む布を剥ぎ、木蓋を持ち上げた。


「……な…………」


 突然開けた天井に、密航者の姉弟はぎょっと目を剥く。暗闇の中でリゼットと彼等の目が合った。

 夢見がちな少女のようなきらきらと輝くジェードグリーンの瞳と、冷静さと生意気さを同居させたアンバーの瞳が真っ直ぐとリゼットを射る。


「リゼ、やっぱりここにいたのね!」

「僕の癇が当たったでしょ。ねえ、翡翠姉さん」

「そうね。流石よ、琥珀」


 わざとらしく名前を呼び合う二人。滅多なことで動じない風を装っているリゼットであったが、これには絶叫した。


「ど、どうして貴方たちがここにいる――!?」


 積み荷の中、そこには昨日別れたはずの翡翠と琥珀がいた。

 彼等はにんまりと笑い、二人して呟く。


「リゼのこと、追ってきちゃった」

 


*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 もし人間だったら太陽の下で生きられたのだろうか。

 幼少時は今よりも酷かった。たった数分の短い時間でも陽光を浴びると発作が起き、寝込んでしまうので、ずっと家の中にいた。レナードはカーテンを閉めた暗い部屋でただ息をしているだけだった。

 そこに【生きる理由】なんて大層なものが見い出せるはずもない。

 今では考えられないほど人見知りをしていたように思う。そんな少年を変えたのは、病んだ母の一つの提案だった。


『おまえは聖帝国で生きなさい。お父様と異母兄様と生きてゆくのよ』


 聖帝国がドームで囲まれている理由、それは魔族たちが直接陽光に晒されることがないようにだ。

 人間による魔族の為の楽園。そこの人工的な太陽の下でならレナードも思う存分、外を駆け回ることができた。

 けれど、所詮は紛い物だ。

 船の甲板にいたレナードは何とはなしに目深に被っているフードを落としてみた。

 強い光にふっと意識が遠退き掛けて、慌ててそれを繋ぎ止める。魔族の血が濃いレナードは、太陽の下に出ると酷く体力を奪われてしまう。

 本物の空を見上げてみたい。太陽の匂いの染み込んだ空気で肺をいっぱいにしてみたい。今よりまだ純粋だった頃はそう思っていたが流石にもう諦めた。

 無理だよ、と唇だけで告げてレナードは日陰に身を寄せた。

 いつもは余裕と自信に満ち溢れている金色の瞳が、雲に隠れてしまったように陰っていた。


「……無理だよ」


 今度ははっきりと言葉にする。そこで声が嗄れていることに気付いた。喉もからからに渇いていた。

 新鮮な血とは言わない。せめて水が欲しい。

 ここで陽光を浴びている理由は何もない。カーテンを締めた客室へ帰れば氷の入った水で喉を潤せるではないか。

 自分の本質へ無意味な抵抗は止めて、いつものように適当に逃げて、軽く生きていれば良い。それが魔族の父を持つ自分に与えられた配役だ。


『我の後継者はどちらにしようか?』


 心優しい兄か、人見知りの弟か。異母兄は他人思いの朗らかな性格で、自分の後継者に向かないと父はいつも語っていた。

 【後継者】とは何だろう。

 いずれ後を継げと洗脳のように繰り返される中で、幼いレナードは考え、やっと答えに行き着いた。

 【継承】とは即ち、【父そのもの】になること。

 レナードにとってそれは耐え難い未来であった。何をしたって、誰を愛したって、最終的に魔族に行き着くのなら全てが無価値だ。絶望したレナードは無気力に怠惰に暮らしていた。そんな不安定な心を救ってくれたのが【あの人】だった。

 異母兄の母親で、レナードにとっては父親の愛人に当たる女性。

 だが、【あの人】は殺された。父の愛人を愛したレナードから、ただの容れ物に戻るしかない。

 俯きならがふらふらと歩いていたレナードは曲がり角で人とぶつかった。その衝撃で相手が倒れる。


「ごめんなさい。大丈夫ですか?」

「……大丈夫です。こちらこそ済みません」


 レナードが差し出した手を取ることなく立ち上がろうとした青年は、はっと目を見開く。


「それは貴方のものですか?」

「……いいえ」


 ぶつかった拍子に落ちたのか、床に涙型をしたペンダントが転がっていた。

 否と答えながらもそれを拾ったレナードに青年は怪訝な視線を送る。レナードはいつものようににっこりと微笑んだ。


「拾ったんですよ。持ち主にどうやって返すか悩んでいて」


 ペンダントはリゼットの物だった。

 レナードが夜に忍び込んで拝借してきたそれは、ある種の人質だ。


「持ち主へ返すとは殊勝な心掛けですね」

「嫌味ですか?」

「嫌味? そう聞こえてしまったのなら謝罪しましょう。申し訳ない」

「いや、そこまで莫迦丁寧に謝らなくても。本音を言えば、売ったら幾らになるかとか考えていたし」

「殊勝というより莫迦正直かもしれませんね」


 真顔ですらすらと失礼なことを並べ立てた青年は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。


(何だよこいつ)


 普段自分が他人にやっていることをそのまま返されたようだ。

 奇妙な感覚に困惑しつつ、それを隅にも感じさせぬ愛想笑いを張り付けるのはレナードの得意とすることである。船の通路で青年二人は微笑み合った。

 通り掛かる人々はそんな彼等を横目で見ながら去ってゆく。対照的な美貌を持つ二人は人目を引いた。

 レナードに向き合う青年は丸耳(にんげん)だが、随分と色白だ。孔雀色(ピーコックブルー)の瞳が凄まじい眼力を持っているというのに、顔全体のバランスが取れているので奇妙に映らない。女性であれば思わず羨ましくなるほどに長い睫毛は雪のような青み掛かった白銀。彼は人形や彫像を思わせる、人間とは思えないほど冷たく整った容貌であった。

 飽くまでも生々しく、時に悪魔的と称されるレナードとは正反対だ。

 歳の頃合いも背の高さも同じほどで、何処までもにこやかに、対等に。時間さえあればいつまでも笑みを交わしていそうな彼等であったが、銀髪の青年がふと咳き込む。


「大丈夫ですか?」

「……え、ええ……」


 そうは言っても随分辛そうな咳だ。

 口許に宛がわれた掌に血の塊が吐き出されたのを見て、レナードは顔を顰める。


「……うつる病ではありませんので……」

「そういう問題じゃないだろ」


 身を折って咳き込む青年の横に片膝を着きながら、手を貸してくれそうな人を探す。


「ユフィリア様! こちらにいらしたのですね!!」


 紫色のドレスの少女が駆け寄ってきた。大きなレースのリボンで結われた髪が揺れる。

 レナードは少女に問い掛けた。


「もしかしてお連れさん? この人、一人で歩かせるのはまずそうな感じですよ」

「分かっていますわ。さあ、お立ちになれますか?」


 少女は青年の腕を取って立ち上がらせる。


「起きていてはお身体に障りますわ。お部屋に戻りましょう」

「手を煩わせますね、マロニエ……」

「いいえ。では参りましょう、閣下」


 上品な女性口調だというのにその声はどうにも刺々しい。声色に性格のきつさをたっぷりと滲ませた少女はレナードに向って無愛想に一礼する。


「……それでは、失礼します」


 貴方とはまた会う気がする。そう言って弱々しく微笑んだ青年は踵を返した。

 まるで白昼夢を見たような非現実的な感覚に、レナードは暫し呆然とする。


「すごく綺麗な人だったな」


 レナードが同性を賞賛することはとても珍しい。明確な負けを感じたのは久々だ。

 ただ、過ぎたる美は危うい。佳人薄命という言葉があるように、儚いからこそ透き通った美貌を持って生まれてくるのかもしれない。

 それにしても【閣下】とは随分と大層な呼び名だ。瑠璃の弟のクライオライトも兄のことをそう呼んで盲信しているが、レナードは好ましく感じられない。

 思えば、あのマロニエとかいう少女はクライオライトに似ているかもしれない。質の良さそうなプラチナの髪も青い瞳も、双子のようにそっくりだった。


(まさかな)


 世の中には自分とそっくりな人が何人かいるのだ。レナードが【あの人】にそっくりな目をしたリゼットに出会ったように、偶然とは幾らでも存在する。

 レナードは手の中にあるペンダントに目を落とす。

 怒りっぽい彼女のことだ。レナードは次に彼女と会う時までに骨数本を差し出す程度の自己犠牲心や、寛容さを身に付けておかねばならないかもしれない。

 契約を結んだ後の右手の一撃はトラウマになりそうなほどに強烈だった。

 男を持ち上げる腕力も恐ろしいが、あれが利き腕の攻撃でなかったという事実が怖い。

 魔族の血を引いていても痛いものは痛いのだ。どんなに痛く苦しくても、ヴェノムはそう簡単に死ねない。死んだ方がいっそ楽だという傷を負っても果てられない。


(こんな安物の何が良いんだろう)


 部屋に戻り、水で喉を潤したレナードは暗闇の中でペンダントを弄ぶ。

 純度の高い大粒のフローライトは希少価値が高い。だが、所詮は蛍石だ。

 どういった経緯で手に入れたものかは知らないし、どのような曰わくがあるのかも分からない。これが誰かから贈られたものだとしたら、そいつは気の利かない奴だろうとレナードは思う。

 レナードが【イユ】と呼び慕っていた【あの人】は赤い宝石がとても似合う女だった。イユと同じ眼差しのリゼットには血のように赤いルビー、もしくはガーネットが似合う。そう思うと腹が立った。

 何故なのか分からないが気に入らない。どうしてこんなに苛立っているのかも分からない。このペンダントが目障りだ。


(今は壊さないけどな)


 所詮は全て駒。従っている振りをしながら逆に操るだけ。レナードにとってリゼットや【黄金の暁】は、ヒオウを抹殺する為の道具に過ぎない。不要になれば切り捨てるだけの存在だ。

 しかし、今は彼等が必要だ。だからリゼットのペンダントも壊さない。


「悪魔で充分だよ」


 欠けた【何か】の正体を、レナードは知っている。それが決して手に入らないことも理解していた。

 もっと残酷に、もっと無惨に。情けも痛みも感じない完璧な悪魔を演じるだけではなく、なりきらなければならない。人を慈しむ心など持っても意味はない。いずれその心は幻のように消えてしまうのだ。

 右手が疼いている。契約を交わした時に確かにあった感情に嫌気が差す。レナードはそれを否定するように爪を立てた。

**初出…2009年8月5日

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