【3】
月明かりに照らされた白いシーツの上に長い髪がしどけなく広がっている。
打ち伏す娘の顔にあるのは苦痛の色。リゼットが脇腹を押さえるタオルは赤黒く染まっていた。
(どうして治らないの……?)
水の魔術を使う翡翠が力を使い、首の傷はどうにか塞ぐことはできた。しかし、腹の方はどうにもならなかった。
治療術は人の持つ自然治癒力を高めるものだ。対象者が瀕死、もしくは限りなく弱っている場合は使っても意味がない場合が多い。
平静な呼吸をすることも困難なほどの熱っぽい痛みにリゼットは伏して耐えるしかない。鎮痛剤が効いて、痛みが治まるのを待っている。
(でも、どうだろう……)
首から流れた血の量も相当で、腹からは今も尚、血が零れている。
今回ばかりは朝まで持たないかもしれない。何せ翡翠が出ていったほどだ。
酷い寒気に、霞む視界。今まで散々人を殺した魔物の最期が失血死とは聞いて呆れる。だからこそこのような情けない終わりなのだろうか。こんな無様な死に方をするなら、無理をしてでも厄病神を仕留めれば良かった。
悔しい、憎い、痛い。
傷口からは熱が逃げていくというのに、心には焼け付くような感情があり、臓腑を焼き焦がしそうだ。
そんな時、ドア越しに声を掛けてくる人物がいた。
「起きてる? 入って良いかな……というか入ります。お邪魔します」
「よくも……のこのこと入ってこられるな……」
「ふてぶてしいって良く言われるよ」
この男の性格を殊勝と例えるのならば、世の中全ての不届き者が健気だということになりかねない。リゼットは不届き者のレナードを睨もうとしたものの、目が霞んで焦点が合わない。
「そんな顔をしないで、穏便かつ友好的に話をしよう」
「……今更……友好的に話ができるか……!」
話したくもないし、顔を合わせたくもない。欲をいえば自分の半径に十メートル以内に入れたくない。
「それ以上近付いてみろ、部屋中を氷付けにするからな……」
「えーと、それはつまり心中? 一人で死ぬのは寂しいからオレに付いてきて欲しいの?」
「どうしたらそう曲がった解釈に行き着くんだ?」
「良く言うじゃん。嫌よ嫌よも何とかのうちって」
「ふざけるな……!」
もう息をするのも苦しいくらいなのに、何故このような会話をしなければならないのだ。
リゼットは怒りと嘆きのこもった震える息をゆっくりと吐いた。それは風の前で掻き消されそうな蝋燭の炎のようにか細い息だった。
「さっきも訊いたけど、どうしてそこまで弱っているのかな」
「お前に突き飛ばされた時に……傷が開いたからだろう……」
あの船でこいつの言葉に従わなければ失態を演じることもなかった。このようなことになった原因の大部分にはレナードが絡んでいる。
憎くて憎くて堪らない。
「無様だ」
リゼットの唇から言葉がこぼれた。
「目の前に敵がいるというのに、殴れもしないなんて……」
このような歯痒い気持ちは過去に味わったことがある。骨に罅が入った程度なのに行動を禁じられた、あの時と似ている。
しかし、あの時と決定的に違うのは、リゼットが自分の意思では動けないということと、敵が手の届きそうな場所にいるということ。精神状態でいえば今の方が遥かに悪い。
目の奥が熱くなって、何かが溢れ出しそうだった。リゼットは目を閉じる。睫毛は震えていた。
涙の一滴からも命が零れてゆくようで、流したくはない。それなのに意識とは反して涙は浮かんでくる。昔から莫迦みたいに涙だけは出る。そんな繊細な性格はしていないはずなのに。
暫くの間、リゼットもレナードも喋らなかった。風が窓を揺らす音だけが重く響いていた。
「もう死んだ?」
「……まだ、生きてる……」
「月を見に行こうか?」
ふと耳元で、声が聞こえた。
重たい瞼をゆっくりと開くと、自分が部屋の窓際で抱き上げられていることに気付いた。
「ちょっと、何をしてるんです!?」
外で会話を立ち聞きしていたらしい琥珀が慌てて部屋に踏み込んできた。
「彼女のこと暫く借りるよ」
すぐ上から聞こえた声にリゼットが視線を上げると、レナードがいた。金色の瞳は間近で見ても感情が読めない。
離せともがいてみても床に足が着かない。どうせ死ぬならもう痛い思いはしたくないとリゼットは抵抗を止めた。
「借りるってリゼットは怪我人なんですよ!?」
「朝までには帰るから心配しないで」
それはこちらが言うべき台詞ではないだろうか。リゼットは文句が言いたかったが、どうにもだるくて目を閉じた。
意識はすぐにとろりと溶け、何処とも知れない闇の中へ引き摺り込まれていった。
冷たい風に頬を撫でられて目を覚ますと、広い場所にいた。
目の高さに障害物がないことからすると、何処かの建造物の上なのかもしれない。ただでさえ利かない夜目が失血によって更に霞み、冷静な判断力すら失っていたリゼットにはここが何処か検討を付けることができなかった。
「ここは何処だ?」
「山頂の物見台の上。ほら、月が映った海が見える」
「海……?」
レナードの言うように、遠くに灯台の明かりが見えた。細く強い光は暗い海原を静かに照らして、船の行く道を示しているのだろう。
『いつか海を見に行きましょう』
『閣下は休みなんて取れないじゃないですか』
『そんなことはありません。私の代わりなど幾らでもいるのですから』
いつだかスレイドは冗談のように海を見に行こうと提案した。地平線の向こうから昇ってくる朝日はそれは美しいものだから見る価値があると――君はもっと沢山のものを見た方が良い、と言われた。
空の真上にある月が沈めば、太陽が昇ってくる。このまま待っていれば朝日を見られるだろうか。
そう考えて、朝まで身体が持ちそうにないことをリゼットは思い出す。
もう自力で身体を支えるのも辛い。リゼットは身体の力を抜いて同族の男に身を委ねた。
「酔ってる……わけないか」
レナードは突然のことに驚いたようだが、特に気にした様子もなく胸を貸す。
「人なら誰だって同じだ」
スレイドを失ったあの日から、リゼットはずっと独りだった。
心が休まる時など、ましては安らかな眠りにつけることなど一度もなかった。
この島に不本意とはいえ漂着し、翡翠や琥珀と出会った。お節介な姉と屁理屈ばかりの弟、彼等は時に鬱陶しいが優しかった。彼等はこんな自分を好きだと抱き締めてくれた。島へ残って共に暮らそうと言ってくれた。
ありがとう、嬉しいわ。そう素直に返せない自分が恨めしくもあった。二人の優しさにリゼットは牙を全て抜かれてしまったのだ。
けれど、どんなに願おうと過去は変わらない。
レナードの言う通り、人殺しは人殺しでしかない。足を洗ったとしても消散できない過去によって周りを傷付けるのだ。
だからもうあの姉弟のぬくもりには縋れない。傷付けたくないから離れるしかない。
「もしかして【レイ】って人にオレは似ている?」
「似てない」
「そっか。でもキミはオレの知人に似ているよ」
「誰にだ?」
「オレの憧れだった人に」
だから無理を言ってきたのだろうか。だとしたら迷惑極まりない。その人とこちらは違うというのに。
だが、これで相子だ。リゼットは内心嘆息した後、ゆっくりと口を開いた。
「言っておくが、氷使いは寝ても覚めても……つまり四六時中、忍耐力を問われる。少しでも気を弛めると、手足が凍り付くからな……」
瞬時に爆発的な力を使う炎使いにとって、水の魔術はコントロールが難しいはずだ。リゼットも慣れるまではずぶ濡れになったり、凍傷になったりと苦労した。
リゼットは既に受け入れている。死ぬことも、そして力を奪われることも。
けれど当のレナードはというと複雑な顔をし、何かを考え込むような仕草を見せた。
「あのさ、死ぬみたいな顔してるけど、オレはキミを生かすこともできるよ。キミは出血多量というよりも、魔族として弱っているようだし」
「それは……」
「この島にきてから血を飲んでいなかったんだろ」
そう、リゼットの傷がいつまで経っても治らなかったのは力を失っていたからだ。
身体の頑丈さと再生能力に秀でたヴェノムが、心臓や頭を破壊されること以外で死ぬのは珍しい。あるとすれば、それは自己管理不足。つまり怠慢な自死だ。
「望むなら、分けてあげようか?」
「……条件はお前に従うことだろう」
「いや、違う」
「なら何だ」
「絶対に自分から命を絶たないこと」
「私が死なないこと……?」
交わした眼差しを逸らすことなく、レナードは頷く。
「命を助けてあげても自害されちゃ堪らない」
これは生きるか死ぬかの選択だ。リゼットは考える。
復讐を諦めた今、生きる意味は特にない。レナードに一矢報いることを生きる意味にするのも癪だ。考えると死ぬ意味もなかった。
「どうする?」
生きるべきか、死ぬべきか。どちらにしても無様であることには変わりない。
「……もう少しだけ、生きる」
「分かった」
リゼットの答えを聞いたレナードは、自分の手首の薄皮を噛み千切り、血の滲んだそれをリゼットの前に突き出した。何をやっているのだとリゼットは慌てたがレナードは真顔で言った。
「契約だ」
「契約……?」
「魔族同士は敵だけどヴェノムは同胞を大切にする。だからキミがオレを必要だと思えば、呼ぶと良い。オレは快く現れて、キミの助けになろう」
「同胞、か」
耳に残った一言をリゼットは繰り返す。響きには不思議な余韻があった。
同族をも食らう魔族の残酷さに染まることもできず、人間のように馴れ合うこともできず。中途半端さだけの残るヴェノムは血と血で誓い合う。
千切りの契りとは痛々しいことこの上ない。けれど、リゼットはレナードと同じように手首を傷付け、手を伸ばした。
躊躇いがちに伸ばした手に、手が重なる。血で汚れた指先は握り返された。
血と血が混ざり、ひとつに溶ける温度は酷く熱い。
「最初の約束、オレはキミを一人にしない」
「ならば私はお前に嘘をつかない」
「契約成立だ。さて……」
リゼットが瞼を閉じる前に見たのは赤い瞳だった。
首に触れる冷たい指先に顎を持ち上げられる。口内に苦い味がさっと広がった。
傷口が熱い。悪化したのではないかと思って触れると脇腹からの出血は止まっていた。
そうしてほんの少しの微睡みの後、レナードは不穏な言葉と共に口の端を愉しげに歪めた。
「これでオレはキミの奴隷です。何なりと御命令を」
「は……? 嘘だろう……?」
「いや、本当。晴れてキミはオレの主」
リゼットは忘れていた。血を与えた方でなく、飲んだ方が主なのだ。
この男に仕えるのは死んでも嫌だが、甲斐甲斐しく仕えられるのはもっと寒気がする。眩暈がするような事実に、ふらりと立ち上がったリゼットはよろけながらもレナードの胸倉を掴む。
「あの、なに?」
「私の下僕と言うなら、顔を貸せ」
「え――」
「殴らせろ!」
失せろ不届き者とばかりに、リゼットは拳を叩き込んだ。
屋根瓦が破壊されるほどの衝撃で吹っ飛ばされたレナードは伏したまま動こうとしない。リゼットは崩れ落ちた彼の真横に立ち、引っ張り上げた。
レナードは小さく呻いて首を左右に動かした後、こめかみを押さえた。
「痛いです、凄く痛い。てか、苦しい」
「殴って良いか?」
「……もう殴られてます……」
完全に棒読みでそう言うので、リゼットはもう無駄だとレナードを解放した。
頭を押さえて無言で打ち震えるレナードを見ている間にリゼットの胸は冷たくなってゆく。
「最悪だ」
その場の雰囲気に流されて契約してしまったが、これから無条件で助け合うことを承諾したようなものだ。
そういえば、兄が軽はずみな契約は自らの首を絞めることになるからするなと言っていたような気がする。
これは命が掛かっていたのだから軽はずみではないはず。そう思わないとやっていられない。
「……最悪……だ……」
言いたい文句が山ほどあったが、一声出した途端に力が抜けてしまった。リゼットは糸が切れるようにぷつりと気を失った。
リゼットが他人に縋ってまで生きることを選んだ理由は、翡翠と琥珀に別れを告げる為だった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
女性から同日中に二度も殴られるのは人生初めてだ。
一人目は平手打ちだったからまだ可愛げがあるが、二人目は拳で粉骨とばかりに力を込めて殴ってくれた。流石に元軍人が放つ一撃は痛い。力の限り殴って気が済んだのか、はたまた気力を使い果たしたのか、リゼットは安らかに眠っている。
血を飲ませたので数日の内に傷は塞がるだろう。あとは輸血でもして精神面のケアをすれば元通りだ。
(その、元が分からないんだけどな)
レナードは口の中に滲んだ血を吐き、何処か苛立ちのこもった溜め息をついた。
(どちらからも恨まれるな)
あの姉弟を説き伏せるのに酷いことを言った。姉弟は彼女を軽蔑しただろうし、本性を知られた彼女も姉弟の元へ戻れない。精神的に細い部分のあるリゼットだから戻るほどの勇気もないはずだ。
(さて、どう口説こうか)
半ば無理矢理に契約を結んでしまったのだからそこに信頼関係はない。今回の件で徹底的に嫌われたのだから一からやり直すしかない。それはそれで単純で良い。
リゼットは誠意を見せろと言っていた。では、その誠意とやらを示せば快く協力してくれるのか。
誠意とは即ち誠。誠を尽くして接すれば良い。つまりは私利私欲を持たず、嘘をつかず、手を上げなければ良いのだろうか。一見簡単そうだがレナードにとっては難しいことだ。
(どうしようか)
瞼を開いた時、木苺色の瞳はまた真っ直ぐとこちらを見てくれるだろうか。レナードはそれだけが心配だ。
そう考えた瞬間、打算も策略もなく、ただリゼットに【あの人】を重ねて救おうとした自分に気付いてしまい、ぞっとした。
「莫迦莫迦しい」
本当に莫迦だ。【あの人】は人を拳で殴るようなリゼットとは似ても似つかない。大体、年が離れていて相手にもされなかったではないか。
父親の愛人に恋をした、少年の頃の苦い思い出。
遠い思い出に浸る感傷など不要なはずだ。嘆こうと死者は蘇らない。レナードは【あの男】を殺すしかない。目的の途中にあることは全て過程に過ぎない。友情も愛情も、関係を円滑にさせる為のもの。
そう、全ては【あの男】を殺す布石に過ぎない。
「……イユ……」
レナードは今は亡き者の名をただ一度呟いた。
**初出…2009年8月1日




