【2】
闇が広がる森の中に、更に濃い闇を纏った者たちが佇んでいる。
両者共に人間の持ち得ぬ妖気すら漂わせる容姿の持ち主だが、合わさる視線はあまりにも対照的。
慈愛と嗜虐の金と、警戒と拒絶の赤。
「私にレジスタンスに加われというのか」
「キミは聖帝国が憎いから喧嘩を売った訳だし、オレたちと利害一致すると思うけど」
キミは今まで通り聖帝国を潰すことを考え、オレたちは魔王を倒すことを考える。
利害一致しているではないかと勧誘の言葉にとびきりの微笑みを添えるレナード。そんな彼の前でリゼットは青冷めた顔をしていた。
レナードが話した内容も心を冷やすには充分だったが、左手首を掴む氷のような手が全身から体温を奪っていくようだ。
彼は穏やかな物言いをしているように見えて、反抗すれば腕が折りかねないほどの力を込めている。
「私はもう誰にも従う気はない」
誰かを守ったり、守られたりするのはもう嫌だ。
この腕は人を殺す為のもので人を守ることなどできない。リゼットにとってスレイド以上は存在しないのだ。心から慕うのは今は亡き彼のみ。忠義を誓う相手も、忠節を誓う心も存在しない。
「従わなくて良いよ。オレたちは利用するだけだから」
そんな心を読んだようにレナードは利用するだけだと言った。
リゼットは聞き分けのない子供のように首を横に振る。
「お前が探す【破壊の使徒】なんていない」
「じゃあ、キミは誰?」
「……そいつは死んだんだ」
「違うね」
今までとは明らかに声色が変わる。リゼットは掴まれていた手を離され、樹木に向かって勢い良く突き飛ばされた。
「……っ……!!」
みしりと幹の軋む感触が背中に伝わってくる。凄まじい衝撃にリゼットは身を折った。
背中を打ったはずなのに、脇腹が痛む。今までとは比べものにならない痛みに生理的に涙が浮かんだ。
立ち上がろうと膝を着くリゼットの目の前にレナードが立ちはだかる。最早、退路はない。
レナードはリゼットの顔の真横に拳を打ち付ける。響く音の強さにリゼットは目を見開いた。
「今の答え、嘘だよね?」
手が伸びてきて今度は前髪を掴まれた。強制的に上を向かされ、嫌でも目が合う。
レナードの声も表情もぞっとするほど冷め切っている。それは氷の冷たさではなく、見ていて寒気がするような灼熱の青い炎だ。
「嘘じゃない。私は刃向かう勇気すらなかったじゃないか」
リゼットは言いながら、今度こそ殴られることを覚悟した。
しかし、彼はすぐににっこりと笑った。
「そんなことはないよ。だって、キミがオレに向けてきたのは立派な殺人者の目じゃないか」
その言葉は刃物で斬るが如く、鋭く心を薙いだ。
乱暴に掴まれていた前髪が離される。解放されたリゼットは立ち上がることもできずに震えていた。リゼットの脆弱な精神は二度目の否定に堪え切れず、思考を停止してしまった。
月明かりに青白く浮かぶ剥き出しの腕には鳥肌が立っている。
「あ、ごめんごめん。そんな顔をさせたい訳じゃないんだ。ただ純粋に力を貸して欲しかった、それだけなんだ」
レナードはそう言いながら、強張りを和らげるようにリゼットの髪を指先で梳いた。
「どうして私の力が必要なんだ……」
「オレたちは力が必要だから。それも天地をひっくり返すような力がね」
「違う。私は貴様の目的を訊いているんだ」
「中々鋭いね」
レナードはくつくつと愉しげな笑い声を漏らしながら立ち上がる。
心を蹂躙するような眼光からやっと解放されたが、心臓がうるさいほどに鳴っている。リゼットは強張った顔のまま、レナードを見上げた。
「オレの目的はあいつを滅ぼすこと」
目が合うと彼は役者のように悠然と微笑み、そのまま続けた。
「火炙りでも水攻めでも八つ裂きでも、または氷付けでも構わない。あのクズをこの世から一塵も残さずぶっ潰す為なら何でもする。例え悪魔に魂を売り渡してもね」
レナードの声色に偽りはない。本気で誰かを殺したいと考えている。
「このどうしようもない怒りと憎しみの衝動、復讐に取り憑かれて剣を振るったキミなら分かってくれると思う」
「……分からないとは言わない」
絶対に許さない。彼の全てを奪ったあいつ等を決して許しはしない。のうのうと生きている愚民共も同罪だ。一人残らず潰す。例え悪魔に身を委ねようとも、絶対にあいつ等を殺してやる――!
スレイドを失った後、憎しみのまま剣を振るったリゼットにはレナードの言うことが痛いほど良く分かる。
「なら、来てくれる?」
「分かる……けど、できない」
「苦しみが分かるというなら、どうして助けてくれない?」
「それは私の意思じゃないからだ!」
リゼットは幹に手を付き、立ち上がる。そして相手を真っ直ぐと見据えてきっぱりと言い切った。
レナードの無表情が崩れた瞬間だった。
「私は自分の為にしか動かない」
かつてはスレイドの為に、そして彼が死んでからは自分の為に動いたリゼットだ。
リゼットはレナードのことなど知ったことではない。誰かを殺したいなら自分で殺せば良い。復讐は自分でしてこそ気が晴れるというものだ。大体、人を捻り潰すのに充分すぎる力を持っているではないか。
不快感も露わな面でそう言うリゼット。レナードは暫く呆然としていたが、足を一方前へ踏み出した。
「じゃあ、仕方ないか」
「え……」
それは一瞬の出来事だった。
冷たい手が首を掴む。抱きかかえるように腕を回され、太い血管の通る箇所にすっと刃物が添えられる。リゼットは息を呑んだ。
「何をするか解っていると思うけど、なるべく傷まないようにするから」
「傷まないように……?」
「血が吹き出すのは美しくない」
「莫迦か! 私はお前の隷属になるくらいなら死んだ方が良い!」
「動かないで。刃先がぶれる」
首の血管に添えられたナイフが薄皮を剥ぐ。そして刃先が穿たれようとした、その時。
「やめて!!」
甲高い悲鳴が響き、茂みの陰から身体をぶつけるように飛び込んできた少女がいた。
咄嗟のことで反応できなかったレナードは衝撃に突き飛ばされる。その瞬間にナイフが横に引かれる。肉がざっくりと切れた感触にリゼットは咄嗟に手を宛がった。
生温い液体がどろりと溢れ出てくる。鉄の匂いが間近でした。
「……ふ……ふざけるな……っ!」
それはレナードに言った言葉であり、飛び込んできた少女――翡翠に向けた言葉でもあった。
あと数センチずれていたら頸動脈が切れていた。
今のは翡翠が飛び込んできたことに原因はあるが、そもそもナイフを向けてきたのはレナードだ。しかし、彼等はそんなリゼットに構わず向き合っている。翡翠の目はいつになく強い光を湛えていた。
「あなた、リゼに何をするの!?」
「オレが探す人殺しはいないらしいから、その人殺しの力を持った子から力を貰うことにしたんです。何か問題がありますか?」
「力を貰う……?」
「なあに、簡単なことですよ。共食いっていう凄く簡単なこと」
魔族は共食いをする。彼等は地下に封印されていた千年という年月を同族を食らって生き延びた種族だ。弱い者は直ちに食われ、強い者は強い者同士で殺し合った。
ヴェノムもまた然り。弱いヴェノムは強い魔族を捕食して力を高める。
人の霊力が宿る場所は心臓と血液と頭蓋骨と言われ、その中で最も手軽に手に入るものは血液だ。
「黙っていれば好き勝手言っているが、私は御免と言っている」
「じゃあ、来てくれる?」
「嫌だ」
「なら、我慢しなきゃ。駄々っ子じゃないんだから」
リゼットはこんな男に生き血を吸われるくらいなら魔物の肥やしになった方が良い。
無理を言っているのはあちらの方なのに、何故こちらが蔑まれなければならないのだろう。別の意味で冷静な思考能力が戻ってきたリゼットは再び武器に手を掛けようとした。けれど、二人の間に割ってきた翡翠がリゼットに抱き付く。
この行動にはリゼットもレナードも呆気に取られた。
普通の感覚を持たない二人には翡翠が何をしたいのかさっぱり分からない。翡翠自身もどうして良いのか分からないらしく、リゼットの胸に顔を埋めて泣きじゃくっている。
「下がれ、翡翠」
「彼女の言う通り。首を突っ込むと怪我しますよ」
「貴様……、翡翠に何かしたら氷付けにするぞ」
「だから何もしないうちに――」
「そんなに力が欲しいなら私を殺せ」
魔族なら、殺さずに力を奪われることがどれほど屈辱的なことなのかを分からないはずがない。
それを強いてくるのだから、この男は最低だ。勿論、最低なのは知っていたが【最低】という枠組みの中でも最下層に位置する劣悪さだ。
「嫌だ。殺したくない」
「何で」
「キミは蛻になったとしても、見栄えが良い」
(見栄え?)
つまり従えば従ったで自主的に傍にいることになり、拒めば拒んだで強制的に傍に置かれるというのか。それは一体何の冗談だろう。拒んだ場合は抵抗できなくなる分、状況は悪化するだろう。
この呪縛から逃れるにはやはり自害か、彼を殺すしかないのだろうか。
どちらにしろ血生臭い展開には変わりない。震えるように息を吐くリゼットの胸で翡翠は泣いたままだ。
リゼットは翡翠の行動に戸惑う。血を吐く思いで突き放したのにどうしてここにきたのだと内心詰る。
「リゼは怪我人なのよ! そんなことしたら死んじゃうわ……っ!」
「怪我人?」
怪訝そうに復唱するレナードは、致命傷になるような傷は与えていないと言うように首を捻った。そして漸く気付く。
リゼットは首の傷からだけでなく、脇腹からも血が溢れ、白い足を伝っていることに。
「その程度の傷が何で塞がっていないんだ?」
「知るか……!」
この痛みのお蔭で今まで意識を手放さずに済んでいたが、過ぎた痛みは意識の混濁を催す。
「リゼもあなたも、お願いだからもうやめて!!」
(何をやめろと言うの……?)
もう帰る場所も失うものもないというのに。リゼットは暗い気持ちで目を閉じた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
「不審者は出て行って下さいよ」
表の顔と裏の顔。その両方を使いこなそうとするのは、自分が生きる上で必要なことだからだ。琥珀はそれを悪いことだとは思わない。
「去りたいのは山々だけど、生憎オレが用があるのは野郎じゃなくて亜麻色の髪のお嬢さん」
窓際の椅子に長い足を組んで悠々と座っている黒装束の男がいる。
彼は物憂げに外の景色を眺めている。琥珀からするとリゼットは翡翠の招き入れた【余所者】だが、この男は招き入れもしない【不審者】でしかない。
赤茶の髪に金色の瞳という派手な出で立ちの男は、見れば見るほどに端正な顔である。ただ品は何処か欠けている。生々しく淫靡。この世に悪魔がいたらきっとこんな顔をしているだろう。
何はともあれ、彼が招かれざる客だということは間違いない。
「貴方は何者? 彼女の知り合いなんですか?」
「親しげだね。もしかして付き合ってる?」
「ふざけたこと言わないで下さい。リゼットは僕の姉の友人です」
その突拍子もない解釈は何処からくるのだ。この男、やることもいかれているが、その頭もぶっ飛んでいるのかもしれない。
ああいうことを考える時点で普通ではないのだ。人の生き血を吸うなんて化け物だ。
「友人ねえ……。彼女は人殺しだよ」
嘲笑うように言った後、男は立ち上がり、琥珀の目の前に立つ。
何をされた訳でもないのに、ぞくりと肌が泡立った。琥珀は見上げることもできずに歯を噛み締める。
「血の匂いがするからオレが嫌なんだろ。でも、あの女もそうだよ」
嗅覚で感じたのではない、それは本能で感じるもの。リゼットもレナードもその目が同じなのだ。
彼が言う風であれば人殺しの色。それを真正面から受け止める度胸は琥珀にはない。
「ヴェノムは人間と違うんだ」
「ヴェノム……?」
「太陽の光が心地良いとか、家畜の肉を食うとか。お前らにとっての普通がオレたちにとってどれほどの苦痛なのか、分からないだろ?」
冬の淡い日溜まりの中で、リゼットが命を削られているように感じたことがある。それは錯覚ではなく、事実だったというのか。
琥珀はリゼットが人殺しということよりも、ヴェノムだったという事実に衝撃を受けていた。
その時、彼の横に立つ影があった。
「ね、姉さん……!」
バシッと、翡翠の右手がレナードの頬を撲った。
何を言われても黙って我慢するしかできない姉が、見たこともないような顔をしていた。
琥珀は息を呑む。翡翠は激しい剣幕でレナードに詰め寄った。
「リゼに何をしたの!? 何も答えてくれないわっ!」
「人聞きが悪いな。オレは何もしていないよ」
「あの時、あたしが止めなかったら、リゼのこと連れて行ったでしょう!」
「彼女の為を思ってのことさ」
「あんな……あんなことがリゼの為になるというの!?」
「なるよ。怒りも憎しみも生きる力になる」
レナードは悪びれもせずに言う。その様子に翡翠は怒りで顔を赤くした。
「このままじゃ死ぬよ」
「分かっているわ」
医者を呼びにいくと言う翡翠の前に、レナードは立ちはだかる。
「無駄だよ。あれはそういうのじゃないから」
「何のことを言っているの?」
「彼女を生かしたいなら、生温い世界から解放して欲しい。彼女はまだ世界に必要なんだ」
金色の瞳が、琥珀と翡翠をそれぞれ一瞥した。




