【1】
月光に浮かび上がるのは青年の影。
外套のフードの下から現れたのは、赤い髪に金色の瞳。黒一色の装束を際立たせるような白く透き通った肌。
「【破壊の使徒】ってキミのことだよね?」
「………………」
「【氷の瞳】の方が良い? それとも雪の女王とか?」
こいつは何者だ。心がうるさいほどに警鐘を慣らしている。それはただの空耳ではなく防衛本能の訴えだ。
瞳の色が以前と違うが、リゼットはこの人物を知っている。
世界の片隅に忘れ去られたように存在する島国へやってきた異邦の青年の名はレナード。レジスタンスに組する傭兵で、あの船へは軍事資料だかを手に入れる為に乗船したと言っていた。
その彼がここへ何の用があってきたというのだろう。どうしようもなく嫌な予感がする。
「何をしにきた?」
「キミのことが忘れなくて」
とろけそうなほど甘い微笑みを浮かべながらレナードはそう言う。
対するリゼットの表情は強張り、笑みの片鱗すらない。
「冗談はやめろ」
こちらは彼のことを忘れてしまいたいくらいなのに、何が忘れられないというのだ。
リゼットは莫迦と冗談は嫌いだ。しかし、レナードが単なる虚け者ではないことくらいは知っている。彼にとって軽口は駆け引きの一部。回りくどいやり方はあちらのペースに流されることになりかねない。
リゼットは一歩前に踏み出すと、単刀直入に問うた。
「率直に訊く。貴様は私に用があるのか」
「【私】か。オレも訊くけど、その【私】って誰?」
「どういう意味だ」
「リゼっていう女の子? それとも【破壊の使徒】っていう人殺し? それによって答えが物凄く変わる」
戸惑うリゼットに、レナードは真顔で告げた。
(ここにいる私?)
問われてみたものの、どちらだろうか。考えてみるが良く分からない。
リゼットがレナードに対して抱く不信感や敵意、殺意は人殺しのものだが、翡翠の目の前で手荒なことをしたくないという自分もいる。
「オレが忘れられないのは女の子の方だけど、生憎、用があるのは人殺しだよ」
「それで、その人殺しに何の用だ。捕まえて聖帝国に突き出すつもりか?」
一々反論していては話が進まないのでリゼットは目的だけを尋ねることにした。
背後で凍り付いたように震える翡翠の気配にリゼットは気付かない振りをした。
地上を緩やかに照らす銀色の月に雲が掛かり、辺りは一層の闇に包まれた。リゼットの視力は弱いものだったが、それでもレナードの瞳は強い輝きを持っていたので見失うことはない。
「いや、まさか。ただの勧誘さ」
「勧誘?」
黒いブーツが雪を踏みしめる音が夜闇に響く。
すぐ隣で氷が潰れた。
「詳しい話は後でするから」
レナードはそう言うなり、リゼットの手首を掴む。急に引っ張られたリゼットは前のめりによろけた。それに構わずレナードはリゼットの腕を引っ張り、近くの木の陰に連れ込む。
リゼットは強い憤りを感じている。
身勝手すぎる。
最初の出会いがあれだけに、この男が身勝手で人の心をさっぱり考えない奴だとは分かっていた。しかし、こうまで人の話を聞く姿勢がないと身勝手という一言では済ませない。
「貴様……、私の意思は関係なしか」
すると、氷のように冷ややかな眼差しを向けられた。
「分かっているはずだ。キミの世界はここじゃない」
「離せ!」
腕を掴む力が強くなり、骨がみしりと軋みを上げる。リゼットは痛みに顔を歪めるが、レナードは力を緩めない。
リゼットは掴まれた手を振り解こうとする。思いの外、相手の力が強くて逃れられない。レナードは更に言葉を続ける。
「人殺しは所詮人殺しでしかない。異端の存在は、正常な人間の害にしかならない。キミがここにいることで、あの娘が傷付くということがあるかもしれない」
「私は、彼等に刃を向けたりはしない」
リゼットは懸命に抗う。けれど、その意思を挫くようにレナードは胸を抉る言葉を吐く。
「そうかもね。でも、オレみたいにキミの過去を知る者がくるかもしれないよ」
汚れた過去によって、望まぬ争いに巻き込まれるんだ。
レナードはそう言ってじっと見つめてくる。半分伏せられた目蓋の奥に窺う彼の金の瞳は、刃のように鋭利な光を湛えていた。
それはこの前とはあまりに違う、人に対しての慈しみのない眼差し。
とんでもない奴だとは思っていた。人を殺しても眉一つ動かさず、笑ってみせる常軌を逸したふてぶてしい悪魔性。それでも、ふとした時に向けられた赤い瞳には間違いなく情があった。だからこそリゼットはあの時、レナードを信じてしまったのだ。
「……そうだろうな……、私はここを去った方が良い」
「じゃあ……」
手首を掴む力が少しだけ弱くなる。声も心なしか角がなくなった。
「だが、私は貴様の言いなりになるつもりはない!」
そのようなことを勝手に決められる所以はない。リゼットは手を振り払うと、隠し持っていたナイフを敵へ向けて投げ放つ。
銀刃は閃光のように闇を一直線に奔る。
「危な……」
攻撃をかわし、器用に宙返りして地面に着地したレナードは、困ったなと言わんばかりにこめかみを押さえた。流石の彼も勧誘の方法を間違ったことに気付く。
「キミみたいな子は押して押して押しまくるみたいな強引なタイプに弱いかと思ったのに」
「誠意が全くない誘いに誰が乗るか!」
「人殺しが人殺しに誠意を求めるってのも可笑しな話だね」
「黙れ!」
確かにしつこく迫られれば怒りよりも呆れが勝り、肯いてしまいそうになる面倒臭がりなところがないでもない。だが、こちらも莫迦ではない。
怒声と共にリゼットの手に現れたのは、透き通るような蒼白の刃を持つ剣――アイスブランド。船で失ったガンブレードに代わる得物だ。
「キミって空間操作できたんだ……?」
正確にはできるようになった。レナードが使ったのを見て、盗ませてもらった。
空間操作の基本は物の粒子分解ということは知っていたリゼットは、実物を見ればコツは掴めた。こちらも一ヶ月という月日を怠けていた訳ではないのだ。
殺意を込めて武器を手に取るリゼットに、レナードは一瞬だけ驚いたという顔をしたが、それはすぐに笑顔の無表情へと変わる。
「あんまり手荒な真似はしたくないんだけどなあ」
レナードの伸ばした右手に現れたのは漆黒の長剣だ。丈は百四十センチほど。目分量で四、五キロといったところ。形状からしてバスタードソードだろう。
「リゼ、やめて……」
アイスブランドから発せられる冷気によって冷えた腕に、翡翠の柔らかな手が触れる。剣を一度も握ったことのないだろうあたたかく柔らかい、人を慈しむ為の手の平は自分のそれとあまりにも違う。
「ねえ、リゼ!」
これはきっと罰だ。安らぎが欲しいと思った自分への罰だ。
だったらいっそのこと魔族の本性を見せ付けて、翡翠から拒絶を受けた方が割り切れるのではないだろうか。悪魔がそっと耳許で囁いた。
「女は邪魔だ」
リゼットは翡翠を拒絶した。
ぞっとするほど冷たい声音に、翡翠は震えが止まるほど気圧され、その場にへたり込んだ。
(やっぱり私はここにいられない)
リゼットは苦い思いを呑み下し、試合う為に剣を構えた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
少々宜しくない展開だ。穏便にことを済ませようと思っていたのに、気付けば刃を向けられていた。
女子供はなるべくなら痛め付けたくはないし、どちらかというと苦しむより笑っていて欲しい。そうは思っても戦いとなると手加減ができないのが己の悲しき性。
(何を間違ったのかな)
ああいう気の強い女は少々強引にすれば意外に乗ってくるかと考えていたのに、却って怒らせてしまった。あれは素直に褒めて煽てて惑わせれば良かったかと後悔するが、後の祭り。
油断していると痛烈な一撃が飛んでくる。
「氷花の結晶よ――!」
木々の間から凛とした声が聞こえてきた。
条件反射として後方に飛びすさると、今までいた場所に氷の花が咲いた。
ダリアのような白銀の花輪が開花すると同時に摩擦から氷煙が上がる。
術の系統は、地属性の下級魔術グレイブと類似している。それにしても情緒に欠けていそうな殺人鬼の癖に、氷雪花とは中々美しい。まともに食らったら足がずたずたになることは容易に想像できたが、相手の技に感心するほどにレナードには余裕があった。
リゼット――本名リゼッティ・シュトレーメル。
聖帝国の特殊部隊の当時司令官だった男の懐刀と言われた忠実な剣。そんな飼い犬がどうして世界に喧嘩を売ったのかは定かではないが、噂によるとその司令官が殉職した時期とほぼ同時期に国から姿を消したらしい。
一年前の宣戦布告から聖帝国所有の基地や要人たちを潰してきた魔物がここにいる。
レナードがあの船に乗り合わせたのは、興味本位だった。勿論レジスタンス【黄金の暁】としての活動もあったが、命知らずな破壊者の顔を見てみたくなった。
そうして出会ったのは、少々無愛想な十代後半ほどの娘。
どんな屈強な女かと思ってみれば、何処か物憂げで儚ささえ漂わせる娘で面食らった。
物理戦闘力は中の上。機動力はあるが先を読まない動きが多く、隙が大きく持久力もない。それは長期戦に際しては致命的なことだが、暗殺者として一撃で相手を仕留めてきたからと考えれば仕方ないとも言える。そんな彼女の最も脅威的な技は剣技ではなく、魔術だという。
彼女は生物の体内の水分を一瞬で凍結させ、冷凍崩壊させる術の遣い手だ。
率直に言って、恐ろしい。彼女は魔術の詠唱を必要としないようなので、阻止することは難しいだろう。
しかし、所詮は炎と氷。どんなに強固な氷塊も燃え盛る業火の前では消ゆるしかない。
故にレナードは飽くまでものんびり構える。
(力圧しじゃ適わないと思われているな)
闇に乗じて暗器や魔術でちまちまと攻撃を受けている。
レナードは何を思ったか、尖った爪で指先を切った。膨れ上がった血の玉はころりと落ちる。
白い指先から赤い血が地に落ちるのと同時に、古代文字の刻まれた深紅の魔法陣が現れた。強烈な赤い光は辺りを妖しく照らす。
「業火の猛り、ここへ集え――」
省略した詠唱詩の僅かな精神集中。レナードはそこに賭けた。
「させるか!」
氷の剣を手に飛び込んでくるリゼット。
二人が対峙する傍らには、夜空をそのまま映し出したような藍色の池が広がっている。森は水の加護が多い場所とはいえ、火の魔術が発動されれば一瞬にしてフィールドの状態が変わる。リゼットはそれを良しとしない。
白と黒の剣がぶつかる。
「やあ、お久し振り……っ!」
「ふざけるな!」
「ちょこまかと脱兎みたいに逃げ回って。正面からくればちゃんと受け止めてあげるのに」
「貴様のような奴に前から向かって行くのは莫迦だ!」
だからといって陰から狙うのは卑怯だろう。レナードはリゼットを誘き出す為にわざと隙を作った。
レナードは現状をそれなりに楽しんでいる。それは冗談とも本気とも取れぬ戯言を吐けるほどに。
こちらが本気で押せば屈するのはあちら。けれど、それは大人げなかった。
レナードは一度力を抜き、数瞬後、一気に力を込める。
「――――ッ」
弾き飛ばされたリゼットは剣を構え直し、舌打ちした。レナードは内心嘆く。
黙っていれば愛らしい容貌なのに、何処までも厳しい彼女の表情を見てとても残念に思う。
レナードは剣を下ろし、改めてにっこりと笑みを作った。
「このシチュエーション、ぞくぞくしない?」
レナードのように剣を下ろすことはせず、リゼットは剣を構えながら怪訝な顔をする。
「運命的な出会いから一時の別れ、そして再会と同時に合わさる鋼と飛び散る火花。演劇としてはベタだけど中々素敵な絵柄だと思うな」
「もしも貴様と会ったことを運命と言うなら、それは運命の悪戯だ」
リゼットに真顔でそう言われ、レナードは冷笑でも無表情としての笑みでもなく、ただ純粋に笑った。
木々はざわめく。
「忌々しい太陽なんて登らなければ良いのに」
勿論、他意はない。ただ今が楽しいと思えばこそ。
レナードは柔らかい物言いのまま続けた。
「そうすれば、魔族たちはずっと斬り合っていられる」
「そんなの御免だ」
「つれないな」
男女は肌を合わせ語り合うことができるが、男同士はそれができない。だから代わりに剣で試合えと言うものだが、例えリゼットが女性でも彼女とは切り結んでいる方がきっと楽しいだろう。
けれど、楽しい時間はあっという間に終わってしまう。朝という夜明けに理不尽に奪われてしまうなら、自ら終止符を打った方が後悔は残らない。
「そろそろ終わりにしようか?」
「貴様が引くと言うのか」
「いや、逆。キミが降参するんだ」
彼女が飛び込んできた時から勝敗は決していた。
本当はこういうやり方は好きではない。だが、今相手に与えるべきなのは致命的外傷ではなく、戦意を挫くこと。ドラッグに頼って戦っていたようなリゼットだ。精神の方は強くないと見た。
「さっきの魔術は攻撃というよりトラップなんだ。因みに、発動範囲は術者の半径五メートル」
「トラップ……?」
「雪の女王様を捕らえる焔の檻と言ってみようかな」
「私が動けば発動するのか?」
「いや、キミが動かずとも、すぐにでも発動させて焼き殺すことができる」
焼き殺すという言葉にリゼットは臆した様子もなく目を伏せ、「負けか」と呟く。そして真っ直ぐにレナードを見返し、静かに言葉を継いだ。
「私も腑抜けたな」
「そうだね」
あの銃弾行き交う船の中で華麗に戦って見せた彼女ならば、この場も上手く切り抜けただろう。
ここにいる【リゼット】はあっさりと負けを認めた。赤い瞳には諦観すら見える。それでもレナードには落胆する気持ちはなかった。
「やっと捕まえた」
欲しいものは何があっても手に入れなければ気が済まない。手に入らないのならば壊す。
レナードが求めたのは、【ある人物】を殺す為の絶対的な力。そして【あの人】に似ている木苺色の瞳。
幸運なことにリゼットはその両方を持っていた。その彼女を逃がすつもりはない。
「手を離せ。私は逃げない」
消えそうなほど小さな声で呟くリゼットの腕を、レナードが離すことはなかった。
**初出…2009年7月26日




