ゴーストライター~東野圭吾さんへの敬愛の意を込めて~
「彼方」
後ろから僕を呼ぶ声がした。
首だけ回すようにして振り返ると、二つ折りにした紙を差し出している手が見えた。
「ん」と言って素早くそれを受け取ると、何事もなかったかのように前を向く。
お昼休みが終わって、教室中に緩慢な空気が漂う5時間目。
教壇では美園先生が教科書の問題を黒板に書き写していた。
先生の様子を上目遣いに伺いながら、僕は折りたたまれた紙を開いた。
紙面に目を落とす。
『吾輩は死者である』
最初の文面が目に入った瞬間、僕は二つの意味でハッとした。
ひとつ、これは僕たち小学生ですら誰もが知っている。
夏目漱石による有名な書き出しのもじりだ。
そして、もうひとつ。
僕の席は教室の一番後ろの列だ。
そう、「一番後ろ」の列なんだ。
僕の後ろには誰も座っているはずがない。
なら、この手紙を差し出していた手はいったい…。
僕の中で、今しがたまで感じていたとろけるような眠気が消し飛んだ。
そこはかとない寒気を感じた僕は、息をひそめて後ろを振り返った。
それは、そうだ。
そのはずだ。
後ろには誰もいなかった。
僕の後ろに机は無く、教室の後ろの壁にみんなが掛けた色とりどりのランドセルが見えるだけだった。
その事実を頭の中で反芻しながら、僕は改めて手元の紙に目をやった。
『名前はあった。○○○○だ』
そこには、つい先日訃報が報じられた某有名作家の名前が書かれていた。
作品が次々に実写化されている売れっ子で、僕が大好きな映画やドラマにもこの人が原作者のものが沢山あった。
にわかに興奮してきた僕は、授業中ということも忘れ、食い入るように続きを読んだ。
『この手紙を受け取ることの出来た君には、死者の声を聞く才能がある。そんな君にしか頼めないことがあるのだ。吾輩のお願いごとを聞いてはくれまいか』
死者の声を聞く才能、なんだそれは、ファンタジーか。
僕はそう思いながらも、この手紙を手にしているという事実の重さから、半信半疑くらいにはこの手紙の内容を受け入れていた。
『お願いというのは他でもない。吾輩の死はあまりに突然であった。それゆえ、吾輩の頭の中にはまだ原稿として書き記せていない物語がいくつもある。それを君に託したい。吾輩のゴーストライターとして、吾輩の頭の中に残ってしまった物語を世に送り出してほしいのだ』
ゴーストのゴーストライター。
なんて駄洒落だ。
嘘だろう。冗談だろう。
そんな僕の思いとは裏腹に、それから毎日のように死者からの手紙は差し出されてきた。
それは決まってお昼休みの後、まどろむような空気が教室を包み込む5時間目のことだった。
僕は授業が終わると駆け足で家へ帰った。
お母さんのパソコンを借りて、手紙に書かれた文章を一生懸命に打ち込んでいった。
そうして完結した作品が実際に出版されるまでには少し時間がかかったけれど、なんせ本当の原作者はあの超人気作家だ。
あの人の書く文章の力だろう。
ひとたび作品が刊行されると瞬く間に話題となり、新刊が出る度に重版出来が続いた。
こうして、世間から惜しまれて亡くなったあの作家の新作は、異なる筆名という仮面を被り、今もなお刊行され続けている。
そんな世界を夢見てもいいですか。
東野圭吾さん。




