付かず離れず、地獄まで
「きみの手はあたたかいね」
最初にそんなことを言われたのは、いつだったか。…………、ああそうだ。とある冬の日、とある学校からの帰り道だ。あろうことか、カバンの上に乗せるまでして用意していたお気に入りの手袋を、すっかり忘れて登校してしまったあの日。帰る時刻になってようやくその事実に気づき、絶望した。するとこいつは、「これで良かったら使って」なんて言って焦げ茶で無地の手袋を差し出してきたのだ。
「それじゃあお前の手はどうするんだ」
あの時素直に受け取ればよかったものを、たった一つの投げ返しでこのあとの全てが狂った。
「じゃあ、手を繋いで帰ろう。左手はきみが使えよ。右手はこっちで使うから。それで文句ないだろ?」
己の未熟さを呪った。思い出すだけでも胃のあたりがムカムカする。しかしそれ以外の方法で、両方の手が冷えきってしまわないで外から帰宅するなんて無理な話で。結局、どうしようもないからと提案を飲んでしまった。
その帰り道で、こいつが言ったことが『アレ』だ。どこで誰が見ているかも分からない道を、嬉しそうにして進んでいく。それが何だか腹立たしくて、ひとつ意地悪を言ってみた。
「手が温かい人は心が冷たいんだってな」
こいつが「きみの手はあたたかいね」なんて言って微笑むから、わざと言った。いつかお前を酷い目に合わせるかもな、なんて笑いながら。するとどうだ、こいつは目をぱちくりさせたあと、こう言ったんだ。
「手の温度は関係ないだろ。そんないじわるを言って、きみは雪の女王にでも魅入られるつもりか?」
ほんのり薔薇色になった鼻先をすん、と鳴らして、呼吸と同じように続けた。
「きみに鏡の破片は刺さっちゃいないよ。勝手に攫われようとしないでくれ」
これに対して、どれだけ必死に探しても、返す言葉はひとつたりとも見つからなかった。
それからだ。それからというもの、学校というちんけな箱庭では、一匹の魚ががたいそうご立派な尾ひれをつけて、泳ぎ回るようになった。大方予想はつく。手を繋いで帰っていたところを、偶然目撃したやつが広めたんだろう。どんな関係なんだと聞いてくる記者気取りのやつには、二度と間違えることのないようにきっちり訂正しておいた。
「言わせたいやつには言わせておけばいいさ。いちいち否定して回るのも面倒だし」
「いいや、駄目だ。お前に迷惑がかかる」
「別に気にしてなんかないよ」
「こっちが気にするんだよ」
「いいって言ってるのに。そういうことになっても」
耳を疑い、正気を疑った。このまま口論になれば、今までのことはぜんぶ有耶無耶になって、まっさらな状態になれるはずだった。ならなかった、もとい、なれなかったのだ。またしても、こいつの提案を飲み込んで、腹の底に落としてしまった。
二度目は覚えている。季節はたしか、秋口だっただろうか。卒業して疎遠になる、なんてことは夢のまた夢で、こいつとは「そういうこと」になったままだった。一度は、先のことを考えて離れた方が良いんじゃないか、と言ったこともあったのだが。
「心配してくれているところ悪いけど、生憎この目はもう、きみと生きる道しか見えていないんだ」
真っ直ぐな瞳でこんなことを言われたら、突き放す気も失せてしまうものだろう。実際、四年半続いた中で居心地が悪かったことなどなく、むしろ叶うならこのままずっと、とも思っていたぐらいだった。そんなところにこう来られては、こちらが折れるしかないのだ。
同日、夜半過ぎ。豆電球の明かりのもと、血の繋がっていない他人の、こいつの前で素肌を晒した。血縁者にだって、いいだけ大きく育った体を見せたことはない。赤ん坊の頃ぐらいだろう、誰かに素っ裸を見せても許されるのは。ただ正確に言えば、上は寝巻きのシャツを着たままだったが。
「綺麗な体だね」
心臓がこの胸を貫いて、飛び出してくるような気持ちだった。
「もう一度聞くけど、ほんとうにいいんだね? 不快だったりしないのかい?」
「……ッだから、いいって言ってるだろ。 お前もいい加減腹決めろ。ここで待ったをかけられちゃ、こっちが生殺しなんだよ」
ここまで来たら一緒に地獄にだって落ちてやる覚悟でいるのに、こいつはしきりに心配して聞いてくる。きみと生きる道しか見えてない、なんて口説き文句を垂れてきたのは、一体どこのどいつだと思ってるんだか。
それから、ついに体力を使い果たして、お互い息を荒らげて横たわっていた時。その時に言われた。白いシーツの上に投げ出していた手を、こいつが絡め取るみたいにして握ってきた。
「……きみの手はあたたかいね」
こいつの手はいつも冷たかった。というより、体が冷たかった。それは真夏でも変わらなくて、夏の間はこいつが暑いと言うのも聞かずにくっついて涼むのが日課だった。
「こんなにあたたかいと、ずっと繋いでいたら溶けてなくなっちゃいそうだ」
「そんなわけあるか」
「ものの例えだよ。……きみのこの手があたたかいうちは、きっときみの心もあたたかいままだ。雪の女王に攫われる心配もないね」
「いつの話をしてるんだよ」
「きみなら覚えてるだろうと思って。当たっただろ、きみはそういう人だからな」
腹立たしいが、図星だったから何も返さなかった。
三度目。もう終わりだろうな、と思った。凍った空気を肺に取り込み、吐き出す。
「…………これを、一緒に捨てに行ってほしいんだ」
車のトランクに、黒い袋がいくつも積まれていた。
「もちろん強制はしない、きみの人生はきみが決めるべきだから……」
自分で言ったことを忘れたのか、急に絡まった糸を解きはじめて「一人で生きていけ」なんて言い出すものだから、心底呆れて、深くため息をついた。
「お前、一回別れ話をふっかけられた時に自分がなんて言ったか、覚えてないのか」
「それとこれとは話が変わってくるだろ……」
「変わらない。変わらないから、ちゃんと聞け。一度しか言わない」
あの時に、こっちは一緒に地獄にだって落ちてやる覚悟はできていた、という話をした。長く話すには時間が惜しいから、できる限り手短に。
「だから、これが何だか知らないが捨てるのは手伝ってやるって話だ。さっさと行くぞ」
……話は現在に戻る。これから二人で、この雪の中に眠る。黒い袋は、あちこちに分散して捨てるには時間がなかった。なるべく離れたところに分けて捨てたけれど、きっと無意味だろう。ああ、感覚が無くなるぐらい寒いのも、目が痛くなるぐらい真っ白な雪も、大嫌いだ。
「まだ、起きてる?」
「辛うじて……」
「そっか。……ねえ、手を繋いでいてもいいかな。眠った先で離れたんじゃ、一緒に地獄にいけないだろ」
「……そうだな」
焦げ茶の手袋を外して、手を握った。離れないように、きつく、きつく結んだ。
「あ……はは、きみの手は、あたたかいね」
お前の手が冷たすぎるんだよ、と言おうにも、もう口が上手く動かなかった。




