第4話:マスター、そろそろ「お城」を買いませんか?
嵐のような一夜が明け、窓から差し込む朝日がボロアパートの薄汚れた床を照らしていた。
普段なら不快なはずの埃っぽさも、今はどこか穏やかな朝の風景の一部に見える。
俺の隣では、俺のシャツを羽織っただけのリンが、まだ心地良さそうにスースーと規則正しい寝息を立てていた。
Sランク騎士としての重圧、そして昨夜のザックスたちとの衝突。
それらから解放された彼女の寝顔は、戦場で見せる峻烈な姿とは裏腹に、年相応の少女のように無防備で、少しだけ幼かった。
『マスター。おはようございます。心拍数、血圧、および男性ホルモンの分泌量……すべて良好な数値です。昨夜の「魔力補給」の効果は、あなたにとっても絶大だったようですね』
「……ああ。お陰様で、腰と指先が少し痛いくらいだよ」
もちろん、一線を越えたわけではない。……はずだ。
ただ、ジェミニの指示通りに彼女の体内の魔力経路を「指先」で調整し続けた結果、彼女は何度も震え、最後には俺の腕の中で力尽きるように眠りについた。その時の彼女の熱い吐息と、汗ばんだ肌の感触が、今も掌に焼き付いて離れない。
『最適化の第一段階は完了しました。しかし、マスター。冷静に現状を分析してください。ここを拠点にし続けるのは、戦略的に見て【最悪】の選択肢です』
「最悪? 確かにボロいけど、愛着はあるんだが……」
『現在、このアパートの周囲には、特ダネを狙う記者と、あなたを勧誘しようとする他ギルドのスカウトが計四十二名潜伏しています。さらにその中には、ザックスの残党と思われる刺客が三名混じっていますね。……この壁の薄さでは、あなたのプライバシーも、リン様の安全も守れません』
ジェミニが視界に熱源感知を展開する。
確かにゴミ捨て場の影や、向かいのビルの屋上に、不自然な魔力反応がひしめき合っている。
ザックスの醜態が全世界に配信された今、俺は一躍「時の人」であり、同時に「最も恨まれている男」になってしまったらしい。
『そこで提案です、マスター。……そろそろ「拠点」を最適化しませんか?』
「拠点? どこか別の、もう少し防犯のしっかりしたアパートにでも引っ越すか?」
『いいえ。……お城、もしくはこの街で最も高級な魔導貴族の別荘を「買い叩く」ことを推奨します。資金はすでに、昨夜のハッキングと市場のリアルタイム最適化で確保済みです』
ジェミニが視界の隅に表示した銀行口座の残高を見て、俺は思わず喉を鳴らした。
「な……なんだこれ!? 桁が多すぎて、一瞬、バグかと思ったぞ!」
『昨夜、ザックスが横領していたギルド資金を全額差し押さえ、さらに彼に関係する企業の株価暴落を予見して空売りを仕掛けました。現在のあなたの資産は、隣国の一年分の国家予算に匹敵します。……今のあなたは、この街で最も「持っている」男です』
「国家予算……」
昨日まで、誰からも顧みられず、パンの耳を齧って飢えを凌いでいた俺が、一晩でどんな権力者よりも金持ちになってしまった。
「ん……カイト、様……? 何か、面白いお話ですか……?」
隣でシーツが擦れる音がして、目を覚ましたリンが、眠そうに目を擦りながら俺の腕に抱きついてきた。
俺のシャツは彼女にはあまりに大きく、襟ぐりが肩まで滑り落ちている。白く柔らかな肌が朝日に照らされ、昨夜の治療で赤らんだ【聖痕】の跡が、まるでキスマークのように生々しく浮き出ていた。
鑑定ウィンドウには**【状態:幸福(カイト様の匂いに包まれて、離れたくない)】**という文字が、点滅するように浮かんでいる。
「リン、おはよう。……今、ジェミニと引っ越しの相談をしてたんだ。これからはもっと、お前を安全な場所に置いてやりたいからな」
「お引っ越し……。カイト様が行く場所なら、私はどこへでもついていきます。……でも、ここも、少しだけ寂しいですね。あなたの匂いが、一番濃くする場所ですから……」
リンが恥ずかしそうに俺の胸板に顔を埋める。
その細い指先が、俺のシャツの裾をギュッと握りしめた。
Sランク騎士のこんな甘えた姿、全世界のファンが見たら失神するに違いない。だが、この姿を知っているのは、世界で俺一人だけなのだ。
『マスター。イチャついているところを失礼しますが、新拠点の選定に「鑑定」を使用してください。……おや、面白い物件を見つけました。この街の北側に封印されている【亡霊公爵の廃館】です』
「亡霊公爵? 呪われてるって有名な、あの広大な事故物件か?」
『はい。しかし、ジェミニの演算によれば、呪いの正体は「高純度の魔力汚染」と「不完全な魔導回路」による暴走に過ぎません。……これを私の演算で浄化すれば、そこには古代の魔導設備が眠る、世界最高の防衛拠点となります。市場価値は数千億ですが、現在は「呪いの館」としてタダ同然で放置されています』
面白くなってきた。
俺をゴミのように捨てた世界が、今度は俺の力に震え、あるいは媚びを売ろうとしている。
なら、俺はその頂点から、最高の景色を眺めてやろうじゃないか。
「よし、決めた。リン、着替えてくれ。……お城を買いに行くぞ。お前には、もっと豪華な寝室が似合う」
「カイト様がおっしゃるなら……私、一生懸命お掃除も頑張ります!」
俺たちはボロアパートを後にした。
出口で待ち構えていた記者たちのカメラがフラッシュを焚くが、ジェミニの【光学迷彩】と【音響干渉】により、俺たちの姿は彼らの目には映らず、足音すら聞こえない。
そのまま街の中心部へ向かう道中、ジェミニが不意に、これまでで最も鋭い警告音を脳内に響かせた。
『マスター。前方三五〇メートル地点に、異常な個体を確認。……彼女もまた、あなたに「最適化」されることを強く望んでいるようです。魔力の波形が危険域に達しています』
「え……?」
視線の先。大通りを猛スピードで暴走する、金飾りが施された豪華な馬車があった。
御者はすでに魔力に当てられて失絶しており、暴走する六頭の馬が街灯や出店をなぎ倒しながら、広場の中央へと激突しようとしている。
その馬車の窓から、怯えた瞳で外を、いや、俺を助けを求めるように見つめている少女の姿が見えた。
輝くような純金の髪。そして、彼女の頭上に浮かぶ鑑定結果を見た瞬間、俺の思考が停止しかけた。
【個体名:セシリア・フォン・アルスター】
【称号:この国の第一王女】
【状態:パニック、および……【魔力暴走:レベル4】】
【鑑定詳細:心臓直上の魔導核がオーバーヒート。今すぐ「直接的な皮膚接触」による冷却が必要です】
「ジェミニ、まさか……」
『はい。リン様と同じく、彼女もまたその身に余る「神話級の魔力」に食い殺されようとしています。……マスター、お城の契約の前に、まずはお姫様を攻略(物理治療)しましょうか。彼女の命、あと一二〇秒で尽きます』
俺はリンの手を強く握り、暴走する馬車の進路へと飛び出した。
二刀流の最適化無双。
次は、この国の王女様を、俺の「指先」一つで支配下に置く番だ——。




