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水たまりに落ちた娘

作者: 高端 朝
掲載日:2025/10/31

「私の娘は水たまりに落ちたんです」


インタビューが始まった。私はメモ帳とボールペンを持ち、


「落ちた、と言うと……」


浅く水がたまったものである『水たまり』と、『落ちた』という言葉が頭の中で噛み合わず、困惑が声に混じる。


夏子さんはベッドの上で、掛け布団を弄びながら言った。


「落ちたんです。“転んだ”とか“踏んだ”とかじゃなく、“落ちた”んです」


慣れているのだろうか、夏子さんは「しっくりこないですよね」と微笑んだ。


埼玉県のとある町に住む四五歳の女性に何が起きたのか。それを知るために私は彼女が入院している病院まで会いに来た。


白い個室の窓から覗く空は青かったが、ぽつぽつと雨の落ちる音が聞こえた。天気雨だ。


「いえ……」と私は一言置く。


「水たまりに落ちてから娘さんは戻っていないと?」


「はい」


彼女の顔は娘を失った親のものとは思えないほど晴れ晴れとしていた。憔悴し切るとは言わずとも、言葉を詰まらせるくらいはしてくれてもいいのではないか。


予想外の様子に私は調子を乱された。同情し、悲しみに共感するような表情を作ってきたことに馬鹿馬鹿しさを覚えたが、なんとか維持する。


「娘さんはどのような経緯で水たまりに、その……落ちたんですか?」


「去年の梅雨の頃。その日も雨で、娘と手を繋いで家に帰っているときでした」


「娘さんは学生ですか?」


夏子さんは不思議そうに笑って、


「いえ、五歳。幼稚園児でした」


ガタリ。病室に音が響く。私が座っている丸椅子が、長さの合わない脚で床を叩いた音だった。


「香菜は……娘は水たまりを踏みつけるのが好きでした。赤い雨合羽を着てはしゃぐあの子の姿が何度も何度も夢に出てくる……もっとちゃんと叱ればよかった」


娘を失った母親はようやく悲しそうに顔を歪め、心底後悔しているという風に俯いた。


「一際大きな水たまり。娘は大喜びて走っていって、私は『洗濯が大変になるから、跳ねる泥が少なければ助かる』なんて考えていて───」


夏子さんは真っ直ぐにこちらを見つめる。


「でも泥は跳ねませんでした」


黒い瞳はもう歪みなく、口の端はわずかに吊り上がっていた。


「落とし穴にでも落ちるみたいに、娘の体は水たまりに吸い込まれていきました」


言って、彼女は口を閉じた。病室に静寂が膜のように張り付き、数秒、無言の時間が流れる。


私はハッと意識を戻して、


「そのあと、娘さんを探したんですよね?」


本来訊くまでもない質問を投げかけた。


「探しましたよ、水たまりに手を突っ込んで」


彼女は訊かれると分かっていたかのように即答で返してきた。


「でもあれ、ポットホールというんですか、アスファルトが剥がれたところには砂利とか土とか。そういった当たり前の地面があるだけで、小さい子が入れるようなスペースなんてなかったですよ」


彼女は一息で言って、


「そしたらもう探しようがないじゃないですか」


「確かにその通りです」私は同意する。


しかし、彼女の仕草は大人が失敗の言い訳をするときのそれに思えた。


或いは私の先入観によるものかもしれないが。


「夫に『娘が水たまりに落ちた』って言っても信じてくれない。警察だって捜索願を受け取りもしないんですよ」


「それは辛いですね」


「半年経ってようやく夫が動いてくれると思ったら、『君は疲れてる』とか言って病院に入れられるし」


ここから先は愚痴が続いた。


夫の無関心や退屈な病院、意地悪と彼女は語るが、どう考えても当たり前の対応をしている看護師。果ては無邪気さの末に失踪した娘に対する文句さえ。


怪訝な顔をしたかと思えば、表情を無にする。


私はこの女性の気持ちを測るのを諦めることにし、聞くに堪えない言葉を聞き流す。


すると不意に手を握られた。


「貴方だけが信じてくれた」


その手の温かさに反して、私の心は冷めていく。


私は娘が水たまりに落ちて消えたなんて、そんな話は信じていない。娘を探してやる気もないのだ。


罪の意識が湧く気がしたが、それは錯覚以外の何物でもない。


私はただ微笑んで手を握り返した。


夏子さんは落ち着いたのか「どうです、ホラー雑誌にでも送ったらお金になるんじゃないですか?」と軽口を叩いた。笑っている。


やはり夏子さんにとって、娘が水たまりに落ちたことは好都合なのだ。居ない方がいいのだ。私はそう断定する。


こちらも笑うしかなくなって、しばらく関係ない話題で談笑した。


「では、これでインタビューは終わりです。ありがとうございました」


白紙のメモ帳を閉じて、私は立ち上がる。病室の扉の隙間が狭くなっていく。


会釈すると、夏子さんが返してくる。他人に向けた礼儀正しい会釈。母はもう、母ではなくなってしまった。彼女が役割を放棄したのだから。


病院の駐車場。天気雨の直後の忌々しいほど眩しい日光が、足元の水たまりにキラキラと反射する。


「私、これに落ちたってさ」


軽くジャンプし、水たまりを踏みつけた。


瞬間、浮遊するかのように体が軽くなり、視界が急降下。まさか。恐怖すら感じぬまま、私は落ちた。


「痛っ!」


激しく尻もちをついた。驚きのあまり立ち上がれない。ぽつぽつと車の並ぶ駐車場で、私はしばらく座ったままでいた。


「足が滑っただけか」


服に染み込んで気持ちの悪い水や髪にまで跳ねた泥。笑いが込み上げてきた。


口から漏れる声を抑えようとするも、次第にどうでもよくなって諦めた。


水たまりに落ちた娘?


「……そんなオチのない話、金になるわけねぇだろ!」


水浸しになった体を軽快に揺らし、私は家路につく。


歩みを進めるごとに、水滴が太陽に照らされながら零れ、地面に吸い込まれていった。


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