夕暮れの悪夢
夕暮れ時の海沿いの道を、タクシーが走る。
若い青年運転手が、バックミラー越しに後方を見て、目を細めた。
「お客さん、すみません、ちょっと揺れるのでしっかり掴まっててください」
後部座席にいた私は慌てて、天井の手すりを掴んで、恐る恐る背後を振り返った。
私の乗るタクシーのすぐ後ろを、タイで有名な自動三輪車のトゥクトゥクが走っている。
それをよくみて見て、ぞっとした。
ーーーーー運転席に、誰もいないのだ。
「えっ!」
私が思わず声に出すと同時に、運転手が忌々しげに舌打ちして、急ハンドルを切って車線変更した。
「最近出るんですよ。あれ。挟み討ちにされて事故った奴もいるんで、危ないんです」
「そんな……どうするんですか?」
ちらりと後ろを見ると、急な車線変更にも、運転手のいないトゥクトゥクはついて来ている。
「このまま乗ってるのは危険なので、一旦降ります」
運転手は、そう言ってまた急にハンドルを切った。細い路地に入り、少し進んだ先、フェンスに沿って少しスペースのある場所に車を停める。
「早く降りてください」
促されるまま、車を降りる。来た道を振り返るが、トゥクトゥクは来ていない。
「一旦隠れましょう」
運転手はフェンスについていた扉を開けた。鍵はかかっていなかったようだ。
フェンスの向こうは、海へと繋がる川だ。川は太く、両端はコンクリートでしっかり固められている。
コンクリートの道を、運転手はスタスタと歩く。少し悩んだが、とりあえず彼について行くことにする。
「あ、この先海に通じていますけど、絶対に水には浸からないでくださいね。ここ、出ますから」
「出る? 何が出るんですか?」
私の質問に、運転手は答えなかった。
そしてふと、何かを感じて足元を見た。
まだ先だったはずの波がいつのまにか押し寄せていて、じわっと足元を濡らしていた。
「えっ!」
悲鳴にも似た声を上げた瞬間、運転手が私を突き飛ばした。
数歩後ろによろけ、水から出る。
「だからっ! 入るなって言っただろ!」
運転手の怒鳴り声が響いた直後、運転手がずるりと海に引きづり込まれた。
その刹那に見えたのは、運転手の足首を掴む手だった。
土気色の大きなそれは手首から下しかなく、明らかに人間のものではない。
数メートル先で、運転手がバシャバシャともがいている。
助けないと、咄嗟に私は辺りを見渡して、救助用のロープのついた浮き輪を手に取り、浮き輪を海に向かって投げた。
「掴んで!」
運転手が浮き輪を掴んでくれた手応えがロープに伝わり、私は力の限り引いた。
ざぶざぶと波の中から引き上げると、ボロボロになった運転手の服だけが、浮き輪に引っかかっていた。
「え……何これ、どういうこと?」
愕然として呟く私の背後に、ふっと影が落ちる。
「あー、こりゃ、あいつが出たね……」
誰もいなかったはずなのに、突然聞こえた声に驚いて振り返ると、数人の漁師のような格好をした男性たちが、浮き輪を見ていた。
「あ、あいつって、一体……」
私が聞こうとしても、彼らは私のことが見えていないかのように、仲間内でだけ何か話していて答えてくれない。
今更怖くなって、私はその場から駆け出した。
そしてはっと、気がつくと、見慣れた天井があった。
夢か、よかった。そう安堵して窓の外を見る。
いつから寝ていたのか、空は夕焼けに染まっていた。
「……どのくらい寝ていたんだろう……」
呟きながらベッドを降りようとして、ぎょっとした。
足首から下が、まるで水に浸かったようにびしょびしょに濡れていたのだ。