家
それは蒼く澄んだ天満月の晩でした。
わたくしが私用のため、表へ出た時のこと。
子の刻もとうに過ぎたと言うのに、妙ななりをした青年が若い女を背に負い、疲れた様子で歩いておりました。
「どうしたのです」
と、わたくしが問いかけますと、青年は硝子のような澄んだ声で、
「私達は旅をしている者です。ですが、休まる場所が見つからず、こうしてさ迷い歩いているのです」
とおっしゃいました。
当時、わたくしは旅籠屋を営んでおりましたので、二人をお部屋の方にお通し致しました。
「なにせ、わたくし一人で切り盛りしているもので、何のお構いも出来ませんが、どうぞごゆっくりお休み下さいませ」
とわたくしが退室しようとしますところで、
「どうしてゆっくり休むことが出来るのです?」
「は?」
「己の住み処でもないのに、どうして休まることが出来るでしょう。ここは私の家ではありません。人が最も安心出来る場所は、その者の家なのですよ」
「あなた方は家を探して、旅をしていらっしゃるのですね?」
「そうです」
「確かにここは家ではございません。ここは長い旅路の中のほんの一時の休憩所に過ぎません。しかし、旅人の疲れを癒す宿屋なのです。人は永遠に歩き続けることなど到底かないません。だからこのような宿屋で休むのです。そうでなければ、次に進むことが出来ませんから」
わたくしがそのように申しますと、青年も考えを改められたようで、
「では休むとしよう」
と朗らかに笑みを浮かべになりました。
「ところで、ここには私達のように旅をしている者が来るのでしょうか」
「ええ。今はいらっしゃいませんが、春ともなれば、この辺りも賑わいますからね」
「その者達も家を探して?」
「いいえ。彼らは既に家を持っております」
「では何故、彼らは旅をするのですか?」
「それは家から解放されて、自分以外の何かになりたいからなのでしょうね」
「何故そのようなことを?」
「例えば、物事に失敗した時など、“これは本当の自分ではない。だから大丈夫なのだ”と、そう思いたくなったことはございませんか。旅をしますと、その全てが解決するのです。旅先で自分を知る者はいませんからね、家に戻って知らぬ振りをすれば、それで済むのです。だから人は旅することをやめないのです」
「旅をするのは自分以外の何かになれるから、ですか……。では現在の私達は本当の私達ではないのですね」
「でも、あなた方は本当の自分から逃げているのではないのでしょう。あなた方は家を探していらっしゃいますから」
「そういえば、先程、あなたはここは家ではないとおっしゃいましたね」
「え、ええ」
「と言うことは、あなたも本当の自分ではない、と言うことになりますね?」
思いがけない言葉にわたくしは戸惑いました。
今まで、わたくしはあくまでもわたくしだと思い込んでいたのです。
ですが、ここが家ではないと言ったのもわたくし、家を離れれば本当の自分ではないと言ったのもわたくしです。
わたくしには家がありません。
家のないわたくしは本当のわたくしではないのでしょう。
その翌朝、お二人の部屋に朝餉を持って参りますと、そこには誰もいらっしゃいませんでした。
恐らく、本当の自分を探して、早々に旅立ったのでしょう。
そのあとすぐ、わたくしは旅籠屋を仕舞い、彼らのように自分の居場所を、そして本当の自分を探して旅に出ました。
あれから数十年。
わたくしは今もあの日と同じ蒼く光る満月の下で一人、旅を続けています。
しかし、彼らはもう己の家を見つけたことでしょう。
なぜなら、彼らは一人ではないからです。
家とは家族があってのものです。
一人では家族にはなれません。
それに、本当の自分と言うのは一人では見つけられませんからね。
Poh 2002