ぼくには悪魔がついている
ぼくには悪魔がついている。
ぐねりと曲がったツノ。コウモリのようなハネ。矢じるしみたいなしっぽ。
誰かに見られるわけでもないのに、そいつは肩まで伸びた茶色い髪をくるくる巻きにしていて、バッチリメイクを決めこんでいるんだ。
ぼくはこの女が大っキラいだ。
いつもぼくのまわりをウロウロと飛び回っていて、何かあるとすぐにジャマをしてくる。
おかげで何もかもうまくいかない。
今日の朝だって――
――ピピピピー、ピピピピー
高々となりひびく機械の音に反応して、ぼくは目を開けた。
これから学校に行かなければいけないんだ。
めんどくさいけど、がんばって起きないと。
「えぇまだいいじゃん。もうちょっと寝てようよぉ」
ふわふわと宙にうかぶ悪魔が言った。こちらを見ながら楽しそうに笑っている。
「いやでも、また遅刻しちゃうよ」
「ユウ! 早く起きなさい! また遅刻するよ」
部屋の外から、お母さんの声が聞こえてきた。
「ほら、お母さんもこう言ってるし……」
「ダイジョブ、ダイジョブ! あと五分だけ。ねっ」
いや、いやまずいって、絶対まずいって……。
このまま動かないでいたら、また眠っちゃうよ。
今にもまぶたはどんどん重くなっていく。
ふんばる気力はなく、目の前がまっ暗になった。
けど、すぐに目を開けた。一回閉じたらパっと目が覚めた。
でもどうしてだろう。なんだかイヤな予感がする。
すぐさま時計に目を向ける。
今の時間は――八時五分。朝の会は八時二〇分からはじまる。
「あぁヤバイ!」
いきおいよくフトンから飛び出した!
走ってリビングに行くと、エプロン姿のお母さんがいた。
何も言わず、急いでパジャマを脱いで着替える。
「やっと起きてきた。何度も起こしたんだから」
「もう! うるさいな!」
お説教なんか聞きたくない。
しょうがないじゃないか。悪魔がジャマしてきたんだから。
着替えが終わって、すぐに家を出た。
がんばって走ったけど、間に合わなかった。
教室のドアを開いたとたん、みんながぼくを見ていた。
このままぼくという存在が消えてなくなってしまえばいいのにな、なんて願いながら先生から注意を受けた。みんなの前で。
「はぁ……」
帰り道を歩きながら、ため息を一つ。
どうしていつもできないんだろう。
毎日寝ぼうするし、宿題だってあとまわしにしてばっかだ。
マズいなぁ。明日こそは寝ぼうしないようにしないと。
宿題も家に帰ったらすぐにやらなきゃ。
こういう悪い部分は早く直しておかないと。
じゃなきゃ自分がどんどんダメになっていく気がする。
「ねぇねぇ~、帰ったらゲームやろうよ」
「やらないよ」
言って、歩くスピードを速めた。
それでも悪魔はぼくのとなりにべったりとついてくる。
うっとうしいったらありゃしない。
「えぇ~、宿題つまんないじゃん」
「つまらなくてもやるんだよ」
「なんで? つまらないならやらなきゃいいのに」
「やらなかったら先生に怒られるんだよ」
「でもさでもさ、宿題なんて将来やくに立たないじゃん。なんか意味あんの?」
「あぁもう、うるさいな!」
正直、そんなの分からないよ。
やりなさい、ってお母さんも言っているし、みんな出してるからきっと、ぼくもそうしなきゃいけないんだ。
いつもの道をしばらく歩いて、ようやく家に到着した。
学校の近くに家があればいいのにな、なんていつも思う。
「ただいま」
ドアを開けて、いつものあいさつをする。今日は誰もいないけど。
「あれっ、ママンいない?」
「今日は仕事でおそくなるんだって」
「あぁそうなんだ」
靴を脱いで、リビングに向かう。
あぁ……もう宿題やらないといけないんだよな……。
イヤだな。めんどくさいし。将来やくに立つのかどうかも分からないし。
そう考えると、とたんに意味がないように感じてきた。
「意味ないことやったってしょうがないじゃん! あとでやればよくない? ほらっ、スイッチあるよ」
「……」
悪魔がスイッチを高くもち上げて、ぼくに見せてきた。ニコッとした笑顔で。
絶対ダメだ。ここで誘惑に負けてしまったら最後、二度とやる気がおきなくなってしまう。
こんなのはいつものパターンだから、分かってるんだ。
そう、分かってるんだよ……。
「よしよし、あと少しだ」
「いけいけいけ! がんばれユウ!」
画面の中の戦士が、巨大なモンスターに向かって剣をふり上げる。
攻撃が当たった! モンスターがたおれて動かなくなった。
「たおした!」
「やったじゃん!!」
「「イエーイ!」」
二人同時に声を上げてハイタッチ。パン、といい音がなった。
けっきょくやってしまった。ぼくってなんてダメなんだろう。
何やったて一生直らない気がする。
あぁ、もう何も考えたくない。とにかく今はゲームを楽しもう。
ピンポーン。
とつぜん、インターホンがなった。
「だれかきた?」
「見てくる」
「アタシも行く」
立ち上がって玄関へ。
カベについているインターホンの画面をのぞいてみると、しらがの女の人がうつっていた。
「おばあちゃん!」
「ユウ」
優しい笑顔をうかべて、こちらに手をふっている。
「待ってね! 今あけるから」
やったやった! おばあちゃんがきた!
まるで豪華な景品を当てたような気分だ。
ぼくは飛び跳ねながら、ドアノブに手をかけた。
ドアを開けると、本当におばあちゃんがそこにいた。
高ぶる気持ちがおさえられなくて、すぐにだきついた。
「おばあちゃん! 会いたかったよ」
「おばあちゃんもよ。ユウ」
ぼくのカタにおばあちゃんのあたたかい手がそっとふれられた。
「さあ入って入って! あ、それぼく持つよ」
「あら助かるわ。ありがとう」
おばあちゃんの手にぶら下がった買い物ブクロを受け取ると、二人ならんでキッチンへ歩く。
「今日はどうして来たの?」
「お母さんからたのまれたのよ」
「えっ、でもぼく、お母さんから何もきいてないよ?」
「ユウをおどろかせたかったのよ」
おばあちゃんはふふっと笑った。
「そういうことね!」
「よかったねユウ。おばあちゃんきてくれて」
ぼくのとなりに、悪魔がやってきた。
キッチンの空きスペースに買い物ブクロをおきながら、心の中で『うん、まぁね』と返事をしておいた。
「ばんごはんすぐ作るからね。ユウ、しゅくだいはおわったのかい?」
うっ……それは今一番されたくない質問だ。
「えっと……まだ」
「そう。じゃあ、ばんごはん作ってる間にやっておいで」
「うん、分かった」
おばあちゃんに言われたら、もうやるしかない。
さっさと終わらせて、おばあちゃんと楽しい時間をすごした方がいいに決まっている。
ぼくは漢字ドリルとフデバコを持って自分の部屋へ向かう。
「ほんとにやるの? しゅくだいつまんなくない?」
「つまんないけど、おばあちゃんと約束したし」
部屋に入って、すぐに勉強づくえに向かってイスに座る。
つくえの上にスマホが置いてあるけど、今は無視だ。
「よし……!」
気合を入れてから、ドリルを開こうとしたとき。
「ねぇユウ。なんか見とかなくて大丈夫?」
言われて、かたわらにいる悪魔へ視線をおくった。
長いまつ毛をパチクリさせて、上目づかいでこちらを見つめている。
この子のあご下あたりに、スマホがあった。
言われてみれば、なんとなく見ておかなければいけないような気がする。
それを手に取る。目的があるわけではないけど、とりあえず画面をさわる。
「とりあえずYouTubeチェックしない? もしかしたら新しい動画出てるかもよ?」
出てた。すっごくおもしろそうなタイトルが画面いっぱいにドンと大きく映っている。
押そうとして、指を止める。
たぶん一本観ちゃったらまたもう一本観て、気がつけばかなりの時間がたっていた、なんてことになる。
いや、絶対にそうなる。だってそれがいつものパターンだから。
なのに、スマホをおくことができない。
ウラ返しにして、置く。ただそれだけのことなのに、そんな簡単なことが、できない。
「じゃあさ、これだけみようよ。これ一本だけ!」
「いや、でも……」
「このまましゅくだいやってもさ、動画が気になっちゃってあんま進まないと思うよ?」
「……それはたしかに」
おかしいな。なんでだろう。悪魔の言っていることがとても正しく思えてきた。
「ダイジョブダイジョブ。この動画八分ぐらいだし、大した時間じゃないじゃん」
そうだね。たった八分。
今日こそはこれだけみて、終わったらすぐにしゅくだいをやるんだ。
強く心に決めて、その動画を押した。
「ご視聴ありがとうございました!」
あっというまに四本の動画を観てしまった。
これはさすがにマズい。
スマホを引き出しにしまってドリルをひらく。
最初からこうするべきだったのに、また悪魔がジャマをしてきた。
「だって、宿題やりたくなさそうだったし……」
「だから、やらなきゃあとでこまるんだよ! いつも言ってるじゃないか」
「……ごめん」
動画を観ている間、けっこうな時間がたったはず。
もしかしたら、もうばんごはんの準備ができていて、すぐにおばあちゃんが呼びに来るかもしれない。時間がない。
コンコンッ。
ドアをノックする音が聞こえて、心臓がドキリとした。
「ユウ。ばんごはんできたら出てらっしゃい」
「う、うん」
スタスタとおばあちゃんの足音がはなれていく。
とたんに、身体から力がぬけていった。
はじめることすらできなかった。
これから、おばあちゃんとおいしいごはんを食べるはずなのに、胸の中がとてもモヤモヤする。変な虫がおよぎまわっているみたいだ。
ゆっくりと立ち上がる。とても身体が重たい。
部屋を出ると、おいしそうなスパイスの匂いがしてきた。今日はカレーだ。
ぐーっと、お腹がなった。
いいのかな。ばんごはん食べちゃって。まだ宿題やってないのに。
なんだか悪いことをしている気がする。
ダイニングに来ると、テーブルにカレー二皿とサラダのもり合わせが置いてあった。
まっ白なごはんの上で、とろりとした黄色いソースが光っている。
「うわ、めっちゃおいしそうじゃん!」
「当然だよ。お店で売っているルーを使うんじゃなくて、たくさんのスパイスを合わせて作るんだ。」
「えぇ~! すごい! もうそれプロだね」
そうだよ。ぼくのおばあちゃんはすごいんだ。
「ねえ早く食べよ! 宿題なんかあとでもできるって!」
「さあ、食べようか」
悪魔の言葉に続くように、おばあちゃんが言った。
おだやかな声で、おばあちゃんがぼくにほほえみかけている。
このタイミングで宿題やってないなんて言えなし、何より、早くカレーが食べたい。
さっき言われたように、宿題は食べてからでもできる。なら、あとででいいや。
「うん」
テーブルの前に腰かけたすぐ、「いただきます」と、二人で手を合わせた。
スプーンでごはんとカレーをすくって口にはこぶと、スパイスとうまさと一緒に、とろりとした食感が口いっぱいに広がった。
「んん! やっぱりおばあちゃんのカレーおしいしいや!」
「そう、よかったわ。いっぱい食べてね」
「うん!」
「そうだ、ユウ最近何かおもしろいこととかあったかい?」
「あ、最近『オラの英雄学校』が新しくはじまって、それがすっごいおもしろいんだ」
「あらそだったの。おばあちゃんまだ観てないのよ。次はどんな悪いやつが出てきたんだい?」
「えっと、それがね――」
話はじめると、次から次へと言葉が出てきて、気づけばたくさん話をしていた。
おばあちゃんは「うんうん」てうなずいて、「それで?」「どうして?」って聞いてくるから、ついしゃべりたくなっちゃう。
しかも、ぼくが好きなアニメはおばあちゃんもだいたい観ているんだ。
『その能力って三回までしか使えなかったわよね?』とか、
『あの武器ってこうなったらどうなるの?』とか、とってもいい質問をしてくるんだ。
「でね、その話が今度映画になるんだって」
「あらっ、それはおもしろそうね。じゃあ、はじまったら一緒に観に行こうか」
「え!? おばあちゃんが映画つれてってくれるの!?」
「そうよ。おばあちゃんも観たいもの」
「やったぁ! 行こう行こう! 楽しみだなぁ!!」
「ええ、おばあちゃんも今から待ちどおしいわ」
目をあけると、部屋が明るくなっていた。
鳥の鳴き声とカーテンからさしこんでくる光。もう朝だ。
胸の内側から、とても冷たいものがこみあげてきた。
宿題――今何時だろう。すばやく身体を起こす。同時に、時計を見た。
じこくは七時三〇分。
「あぁあああ寝すぎた! どうしよう!!」
両手で頭をかかえた。
もう時間がない!
どうしてあのまま寝ちゃったんだ。ぼくのバカ。がんばれば起きられたじゃないか。
いや、そもそもねむくなる前に宿題をやっていれば……あぁ、Yotube観ていたぼくをなぐりたい。昨日にもどりたい。そうすれば今後こそちゃんとやるのに。
こうしているあいだにも時間がすぎていく。
心臓が激しく動いている。バクバクと音を立てて。
「最悪だ、ほんと最悪だ。どうしよう、どうしよう、あぁどうしよう!」
「えぇっとぉ……昨日やっておけばよかったね……ごめん」
ぼくはそれをにらみつけた。ちぢこまっている悪魔を。
「今さらなんなんだよ!! いつもいつもぼくのジャマしてきてさ!」
「……ごめん」
おもいっきり声をはり上げた。目がしみてきて、今にも涙が出てきそうだ。
「ごめんじゃないよ!! きみのせいで何もかもうまくいかないんだ! この悪魔め!!」
コイツがいるからぼくはダメ人間なんだ。さっさといなくなってしまえばいいのに。
「……あたし、悪魔じゃない」
「えぇ?」
弱々しい声で、悪魔は言った。何て?悪魔じゃないって言っていたような気がする。
「あたし悪魔じゃない!」
「いや、きみのそのかっこうはどう見たって……」
「好きでこんなかっこうしてるんじゃないもん! このツノ痛いし、ハネもシッポもダサいしキバのせいでしゃべりづらいし」
「じゃあ、どうしてそんなかっこうしてるの」
「ユウが決めたんじゃん」
「は、はぁ?」
いったいどういうこと? 言っている意味がわからない。
そのかっこうをするよう、ぼくがこの子に言ったってこと?そんな覚えはまったくないし、ぼくにそんな趣味はない。
「最初からそのかっこうしてたじゃないか! ぼくが決めたとか、適当なこと言わないでよ!」
「決めつけてるじゃん!! いつもあたしのこと悪魔とか思ってるじゃん! 違うのに……あたし悪魔じゃないのに……」
言葉を発していくうちに、その子の声には涙がまじっていくようだった。
胸がチクりと痛んだ。
今にも泣き出しそうで、悲しい目でぼくを見ていた。
分かってもらえない。そんなふうだった。
「いや、だって……きみはいつもぼくのジャマをするじゃないか」
「だって、ユウ宿題とかやるときいつもイヤな気持ちになるじゃん」
「そりゃ、やりたくないから」
「だったらやらないほうがいいじゃん!」
言ってから、最後にはあきらめたように、その子はふっと消えてしまった。
今までさんざんジャマをされてきた。いろんな方法でぼくをゆうわくして、大事なことから目をそらさせて、失敗させて。
そんなぼくを見て楽しんでいるんだと、思ってた。
でも、違ってこと?あの子は、悪魔じゃない?
じゃあいったいなに?
ぼくはいったいどうしたらよかったの?
いろんなことが頭の中でごちゃごちゃしていて、考えても考えても答えがみつからない。
ぼくもわからないよ。
「ユウ、どうかしたの?」
「入ってもいい?」
「うん」
ドアがあくと、エプロンすがたのおばあちゃんが入ってきた。
ぼくの前でしゃがみこむと、口を開いた。
「なにがあったの?」
「……」
目を合わせられない。
ちゃんと言わなきゃ。宿題やらなかったこと。ウソついたこと。
でも、こんなこと知ったら、おばあちゃんなんて思うだろう。
怒られるかな? きらわれるかな? そんなのイヤだよ。
「言ってごらん。大丈夫よ、ユウ」
「……」
やさしい声で、ニッコリとほほえんでいた。
その顔を見て、なんだか大丈夫のような気がしてきた。
その顔を見て、なんだか大丈夫のような気がしてきた。
たぶん、おばあちゃんはきらったりしない。
きびしいことは言われるかもしれないけど、ちゃんと伝えなきゃいけないんだ。
「おばあちゃん、ごめん。じつはぼく、きのう宿題やってなかったんだ。
終わったって、ウソついたんだ。なんどもやろうとしたけど、悪魔がジャマをしてきたんだ。
ゲームやろう、Yotube観よう、って言ってきたりしてきて、それでぼくはことわれなかったんだ。
けっきょくあとで後悔して、その悪魔に怒ったんだ。
でもあの子は、自分を『悪魔じゃない』って言ってとても悲しそうにしていたんだ。
それで、もうわからないって言っていて、でもぼくも分からなくて……えっと……その……」
ぼくはなにを言っているんだ。
自分でわからなくなってきた。
おかしな話をしているのはわかっている。
やっぱりやめておけばよかった。
ウソをついたことまで言って終わりにして、そこでただあやまればよかった。
でも止められなかった。まるでスイッチが入ったみたいに口が動いて、どんどん言葉が出てきた。
けっして悪魔のせいにしたいんじゃない。
おばあちゃんに『じゃあしかたないね』なんて言ってほしいわけじゃない。
ぼくはただ――
「ユウ。おばあちゃんもね、それは悪魔じゃないと思うの」
「え?」
おどろきで、目が大きくひらいた。
おばあちゃんはおだやかな表情で、まじめな受け答えだった。
おかしいとか、思っていなさそうだ。
「じゃあ悪魔じゃないなら、なに?」
「それはおばあちゃんにもわからないわ」
おばあちゃんは首を横にふった。
「でもね、きっとそれは悪いものではないと思うの。ユウのしあわせを願っている、なにかじゃないかしら」
「だったら、どうしてぼくのジャマをするの? 宿題やらなきゃいけないのに、わざわざゲームを持ってくるんだ」
「本当はユウのジャマをしたいんじゃない。幸せでいてほしいから楽しいことを提案するのよ。でもそのやり方がまちがっているから、ユウのジャマになってしまっているんじゃないかしら」
あの子が言っていた言葉が、頭の中で次々と出てきた。
『ねぇユウ。しあわせ?』
『せっかくおばあちゃんとの大切な時間を過ごしてるんだし』
『しあわせなんだなって思ってうれしかったのに……』
きのう、おばあちゃんと楽しくしゃべっているぼくを見て、あの子も笑顔になっていた。
ぼくが楽しんでいるとき、ほとんどあらわれることはなかった。
出てくるのはだいたい、イヤなことがあるときだけ。
ジャマをしたかったわけじゃなくて、楽しくなるよう、ただ提案していただけなんだ。
でも、やり方が間違っていた。
そういうことだったんだ。
「なら、どうしたらわかってくれるかな」
「おしえてあげればいいのよ。しあわせになるために、痛いことやくるしいこともしなければいけないことをね」
「……できるかな?」
おばあちゃんはそっとうなずいた。
「ええ、きっとだいじょうぶ。もちろん、すぐにはわかってもらえないわ。だから、時間をかけて、ゆっくりとおしえていくの。ときにはできないこともあるわ。でも絶対に自分をせめてはダメよ」
「どうして? できない自分をちゃんと怒らなきゃ、また同じ失敗しちゃうよ」
「じゃあ聞くけど、自分をせめて、うまくいったためしがある?」
記憶をさぐる。
せめたことはすぐに思い出せる。
でも、そこからうまくいったことは……。
「……ない」
「そうよね。自分をキズつけてもうまくいかないのよ。でも、自分にあまくなってしまうのもダメ。大事なのは、次はどうするかを考えること。どんなやり方なら、どこなら、どこまでならできるかを考えてみるの」
「……いい方法を考えても思いつかないよ」
なにより、そんなのめんどくさい。
「そうねぇ、なら宿題を『はじめるところ』までやってみるのはどう?」
「はじめるだけでいいの? そんなのだれでもできちゃうよ」
「でもユウの場合、かならず終わらせなければいけない、って考えて、はじめることすらできてないでしょ?」
「……うん」
まったくそのとおり。
おばあちゃんにはなんでもおみとおしだ。
「まずは、どんなにちょうしが悪いときでも、どんなにめんどくさいときでも、『これならできる』って思えるくらいやることを小さくして、そこからはじめるのよ。なれてきたら、ゲームみたいに少しずつレベルを上げていくの」
「でも、またゲームとかやりたくなったらどうしよう」
「ならゲームがないところではじめればいいのよ。おうちからはなれている場所ではじめれば、わざわざ取りにいこうとか思わないでしょ?」
「あぁそっか……」
でも心の中でまだなにかがひっかかっている。
胸の奥がとってもモヤモヤするんだ。
「……ちゃんと宿題終わらせられるようになるかな?」
「ユウならできるわよ」
「そうかな?」
「えぇ、だいじょうぶよ。おばあちゃんがついているわ」
おばあちゃんはぼくの両手をにぎりしめて、まっすぐに目を見て言った。
とたんに、フウセンから空気がぬけたみたいに、心のモヤモヤがしゅーっと小さくなった。
どうしてかはわからないけど、なんとかなりそうな気がしてきた。
「そうだよね……ぼく、今日からやってみるよ」
「えぇ、その意気よ。いっしょにがんばりましょ」
うなずくと、おばあちゃんは立ち上がった。
「さあ、朝ごはんにするわよ」
今日からぼくの新しい一日がはじまった。
学校に行って、宿題を忘れて、先生からまた注意をうけた。
授業がぜんぶ終わって、かえりの会で今日もまた漢字の宿題が出た。
「先生さようなら!!」
クラスでかえりのあいさつをして、みんないっせいに教室から出ていく。
けど、ぼくは自分のせきで立ち止まった。
ふと、おばあちゃんが言っていたことを思い出した。
『ならゲームがないところではじめればいいのよ』
今がそうじゃないか。
「でもさ、早くかえりたくない?」
気づけば、あの子がいた。
ツノもハネもなくなっていて、見た目はただの、ちょっとハデな女の子になっていた。
前の席でつっぷすように座っているその子は、顔をこちらに向けていた。
心配そうな表情で、ぼくを見ていた。ジャマをしようなんて悪意はまったく感じなかった。
ただ、やり方が間違っているだけ。だから今、ちゃんと教えてあげなければいけないんだ。
ぼくは一度、深呼吸をした。
「宿題やらないと、先生におこられちゃうんだ。早くかえりたいけど、家だとたぶんやらないから、ここでやってく」
イスにすわって、ランドセルからノートを取り出して、つくえに広げる。
「でも宿題とか意味なくない? 将来やくに立たないじゃん」
「うん、かもね」
「じゃあなんでやるの?」
女の子が首をかしげた。
「意味がないってわかっていても、ぼくがどうにかできるわけじゃないから。一人だけ出さない、ってやると、たぶんぼくの心がしんどくなると思うんだ。だからやる」
「そっか。わかった。がんばってね、ユウ」
女の子は優しくほほえんでいた。わかってくれたみたいだ。
やっぱり、ぼくはかんちがいしていたんだ。
いや、ちゃんと理解しようとしなかった。
かってに決めつけて、ヒドいことをしてしまった。
だから、ちゃんと言わないと。
「あの……」
「なに?」
「えっと……この前は、ごめん。いや、この前だけじゃない。今までも、きみにたくさんヒドいこと言ってきた。よくなかったと思うし、はんせいしてる。もうきみをせめたりしないから。本当に、ごめんなさい」
ゆるしてもらえるかはわからない。
でも、これが今ぼくにできることだから。
もしもゆるしてもらえなくても、うけいれるしかない。
ゆっくりと時間をかけて、ゆるしてもらおう。
「ユウがしあわせならそれでいいよ」
おだやかな声で、その子は言った。あたたかな笑みをうかべていた。
「ありがとう」
きっとまた、この子はゆうわくしてくる。
ぼくが痛いことやくるしいことを前にしたとき、かならずあらわれる。
そのたびに、やらない理由を魔法みたいにポンポン出して、阻止しようとしてくる。
それはたぶん、一生続くんだろうなと思う。
でもきらいになっちゃダメなんだ。
なぜならこの子は、悪魔ではなく、ぼくのしあわせを願っているから。
ぼくも、この子がしあわせになってほしいと思う。
どれだけまちがえてもかまわない。
やり方を変えて、またはじめればいいんだ。何度も何度も。