エリクサー(三十と一夜の短篇第83回)
人を見た目で判断してはいけない、見た目じゃない中身だ、と言われながら、見た目での損得を感じることが多い。
有名な所では古代ギリシアの高級娼婦のフリュネの逸話がある。祭祀で神々への不敬があったとフリュネが裁判に掛けられるのだが、弁護側が「この女性の美しさに罪はない」と言い、フリュネは一糸まとわぬ姿を見せた。美しさで圧倒し、フリュネは無罪を勝ち取った。(アホか) 全裸になったのは作り話ともいうが、ギリシア哲学の「真・善・美」の解釈と実践はそれでいいのかよと後世の人間は首を傾げてしまう。
美人は得、イケメンだから許しちゃう、などの風潮が完全に消えない限り、人は見た目を気にし続ける。美容に関する産業は今も昔も衰えを知らない。
亡き夫の喪が明けたばかりの侯爵夫人ドロシー・バーガンディーは、王女の教育係になってくれと国王から再三請われ、領地から王宮へと向かった。宮廷の人々は興味津々だった。何故ならドロシーは国王の初恋の相手と周知されていたからだ。二十年近く前、ドロシーは国王の母太后の侍女を務めており、十代半ばの王子だった国王はドロシーに夢中だった。当然のことながら王子の初恋は実らず、ドロシーはバーガンディー侯爵と結婚して領地で暮らした。国王となって君臨する今、ドロシーの夫もいなくなり、初恋の女性を側に呼び寄せるのに何の遠慮があろう。
「初恋の相手は忘れがたいもの」
「とはいえ国王が王太子で、ドロシーが宮廷勤めをしていたのはかれこれ十七、八年前、二十年近く経っている。バーガンディー侯爵との間に子も授かっているから、容色は変わっているだろう」
「そこはそれ。陛下が恋は盲目を地で行く振る舞いをなさるか、百年の恋も醒め果てるか、皆が目を離せぬのよ」
「政略で嫁いでいらしたとはいえ王妃様のご機嫌悪しくはなかろうか」
「王后陛下は既に王太子を含めて四人の王女王子に恵まれていらっしゃる。地位をおびやかされる心配はないと構えていらっしゃるのでは?」
「女心をそんな物差しで推量されるな」
好き勝手に噂する中、ドロシー・バーガンディーは王宮に到着し、その姿を見た者たちはあっと驚いた。
ドロシーの見た目は三十前後くらい、若さの華やぎを残す成熟した美しさ。王太后の侍女の時より確かに年齢を重ねた顔立ち、体つきだが、実年齢が五十前と思えぬ瑞々しさを保っていた。王女様の遊び相手を務めさせ行儀見習いをさせたいと連れてきた子どもたちもまた可愛らしい。国王は初恋の相手との再会に有頂天であり、王妃は衝撃を隠せなかった。
ドロシーが国王の愛妾になるのでは、と宮廷は盛り上がったが、すぐに白けた。ドロシーが国王の寝室に侍ることはなく、連れてきた子どもともども王女に側にいて王妃と語らう。常にドロシーは王妃の近くに控え、国王とは人を介して接する。
期待していたいざこざが起こらず失望した次に、貴婦人たちのもっぱらの関心はドロシーの衰えを見せぬ肌つやに移った。
「バーガンディー侯爵夫人はいつもお綺麗でいらっしゃる。どのような秘訣がおありなの?」
直球で尋ねてみても、ドロシーは戸惑いを交えながらにっこりと微笑む。
夜更かしはいたしません、食事は好き嫌いせずいただきます、領地では夫の狩りのお供をして乗馬をしていましたから自然に鍛えられたのでは、ともっともな返事をしても納得するご婦人方はいない。生活習慣と心掛け次第ならその日の内から実践できようものを、それを真似しようとする素直な女性はごく稚い少女ばかり。既に衰えを自覚している貴婦人方は若さを取り戻したい、その上で若さを保ちたいと二兎を求めているからドロシーの節制の美徳の一兎を見逃し、あの女は勿体ぶっているだの、魔女ではないかだの陰口を叩く。
「正直にお答えしていますのに、信じていただけないようで残念です。皆さん想像力が豊かでいらっしゃるみたい」
ドロシーは仕事の合間のお茶の時間に王妃に伝えた。
「同じ服でも似合う人と似合わない人がいるのと同じなのに、その方たちは健康法にも合う合わないがあると想像できないのでしょう。バーガンディーの領地での暮らしと貴女の夫との相性が貴女と気質と体質に合っていたと考えるべきでしょうに」
「王妃様のご配慮により、王宮での暮らしに迷いなく誠心誠意王女様にお仕えできます」
「わたくしにとって大事な娘を託すのですから当然です。それにわたくしも貴女に興味がありましたもの」
「恐れ入ります」
王妃は微笑む。
「わたくし貴女を姉のように思っているのよ。姑や夫の昔のちょっとした失敗談を教えてもらえる。それに、貴女はほかの年上のご婦人方みたいに姑や小姑みたいな小言を言わないんですもの。気の置けないお友だちみたいにお喋りできて嬉しいの」
「光栄ですわ」
「でも心地よく過していた領地から引き離してしまって申し訳ないわ。水が合わないと、体に悪いと言うでしょう? 折角美しくいられたのに、バーガンディーから王宮に来て貴女が疲れてしまわないか心配だわ」
「臣下は国王陛下と王后陛下にお仕えする為にあるのです。どうかお気遣いなく」
「有難う」
ドロシーは一旦自室に戻った。
ドロシーは帽子も髪飾りも取り、髪をほどいた。鏡を覗き、頬に手を当てる。若く見えると羨ましがられるが、二十歳の頃に比べたら当たり前に老けた。あの頃には戻れない。
ドロシーは深い呼吸を一つ、姿勢を正した。王妃の示す好意と信頼に嘘はないと信じつつ、刃の上に立つような緊張感を常に漂わせている王妃には謙譲の意は大切だ。どこで足をすくわれるか判らない。用心は怠れない。
「エリクサーを持ってきて」
と言うと、召使いの娘がぴしゃりと言い返した。
「いけません。エリクサーは床に就かれる時の飲み物です。これからまた国王ご一家の晩餐の席においでになるのですから、白湯か野菜の煮込みの上澄みにいたします」
秘薬ともなると摂りすぎはいけないと、主人の体調を見守るのも召使いの役割と自ら任じているようだ。
「いいじゃない、薬草酒で作る玉子酒」
「奥様は酒精を摂ったのがすぐに顔に出るからいけません」
ドロシーはがっくりと気落ちした仕草をしてみせた。鶏卵を使うのは贅沢だが、高名な錬金術師が調合する秘薬よりはずっとずっと安上がりなのに、と恨みがましく呟いた。
「駄目ですよう、そうやって言うことを聞かせようとするところが年相応にオバサンくさいです」
ドロシーは遠慮のない召使いの物言いが好きだ。強張った心が解きほぐされ、本音が出せる。本心の窺えない宮廷の中で唯一ここでは遠慮はいらない。腹の底から主従でからからと笑い合って、すっきりした。
「大口開けて笑うのが一番体にいい気がするわ」
「悩んだり、僻んだりばっかりだと皺になっちゃいますからね」
召使いはふざけて指で眉間に皺を作ってみせた。ドロシーは宮廷の誰かの顔を思い出して、また大笑いした。これで腹筋も鍛えられる。