溜め池とスズメバチ
バイロン氏が道々に話してくれたのは、けっこう重い内容だった。
「てなわけでよ、このままじゃあキャプラ川の川漁がダメになる。かと言って、よその土地のシーベル子爵に文句を付ける訳にも行かないってことで、ご領主様が、この養魚場の経営に取り組むことになったってわけよ」
なるほどね・・・
単に原価の安く上がる塩漬け加工で名産品を造ろうなんて安直な話だけじゃあなかった訳か。
「それにな、結局はキャプラ川ってのは遙かアルファニアとの境にある大森林地帯が源流だ。そこまでにまだ幾つかの領主が跨がってるし、シーベル子爵領で魚が獲れなくなったら、商人どもはきっと、さらに上流へ上がっていくだけだろうさ」
大河ってのは、幾人もの貴族の領地を通っていくのが普通だし、それどころか、国を跨がって流れる川だって珍しくはない。
確かキャプラ川は、ミルシュラント公国の領地内で海に注いでいたはずだが、ちょっとズレてどこかでルースランドを通っていたりしたら、それもまた火種になってたかもな。
「ともかく、養魚場の重要な場所って言うと、まずはここだな!」
バイロン氏の話を聞きながら登ってきた丘の頂上で、彼が指差した方には大きな池があった。
「川から水を引き込んだらよ、直接棚池に流さずに、一旦ここの貯水池に溜めるんだ」
てっきり、川から引いた水をそのまま丘の斜面に上から流し込んでいるのかと思っていた。
池に近寄ると、いったん溜めた水を水車を使って汲み上げ、それを地上に設置した木製の用水路を通じて下段に落としている。
池から溢れた水は、また川の方に戻るらしい。
「ずいぶん凝った仕掛けにしてるんですね?」
「川から引き込んだ水には、野生のカワマスやパイクなんかが混じってることがあるからな。そいつを直接パーチの稚魚がいる池に流し込んだりしてみろ、あっという間に平らげられちまうよ。水路に網をかけても、すぐにゴミで詰まるしな」
なるほど!
今日、何回目の『なるほど!』か忘れたけど、色々工夫してるなあ。
「まあ全部を防ぐってことは難しいだろうけどな。この先、棚池は何年かごとに順番に水を抜いて底の土を浚うことになってるんで問題ないだろ。ちなみにこの溜め池にいる魚は、ここの使用人なら誰でも好きに獲っていいことになってる。あと、うちの狩人たちも、ここの魚を獲りに来た獣だけは見逃してるっぽいな」
面白い約束事だ。
この広大な養魚場の中で、この貯水池が『聖域』と言うか、人と野生の緩衝地帯のように扱われている気がする。
「おっ!」
急にバイロン氏が、それまでとトーンの違う声を上げた。
「おい、みんな動くなよ? なにが来ても絶対に動くな、いいな?」
「え、なんですか?」
「大声も出すな。とにかくじっとしてろ。そうすれば大丈夫だ」
訳も分からずその場に固まっていると、小さくて黄色いものが池の上を飛んでいるのが目に入った。
「スズメバチだ。動かなきゃあ刺される心配はない」
バイロンさんが小声でそう告げる。
隣にいたパルミュナが、そっと俺の手を掴んだ。
視界に沢山のちびっ子たちが見えてくるが、飛んでいるスズメバチに怪しい気配はない。
本当に、ただのスズメバチなのだろう。
パルミュナは、『いまホットな話題の中心』であるスズメバチに俺が過剰反応しないように、教えてくれたんだな。
そのまましばらくじっとしていると、スズメバチは辺りをぐるっと回った後に、どこかへ飛んで言ってしまった。
「やっぱり女の子だなあ。強い魔法使いでも虫は嫌いか?」
バイロンさんが俺たちの方を見てニヤニヤしながら言った。
いつぞやのレビリスと同じだな。
まあ、若い女の子が『お兄ちゃん』と手を繋ぎたがるとしたら、怖がってるからだと思うのが順当だ。
「うん、きらいー」
おっと、驚いたことにパルミュナが言い返すでもなく、素直にバイロンさんに調子を合わせている。
「燃やそうかと思ったけど、あんな小さな的を狙っても、この池ごと吹っ飛ばしちゃいそうだから止めたのー」
おいヤメロ!
バイロンさんが心底ぎょっとした顔をしてるじゃないか!
「冗談ですよ。すみません、コイツ、こういうことを言うのが好きなもんで...」
「えへー」
「ああ、まあ、そうか...」
いやバイロンさん、半信半疑な表情だな・・・
つまり、さっきのレビリスの言葉もあって、パルミュナが本気だったと疑っている訳か・・・
確かにパルミュナなら、この池くらいウインクするだけで干上がりそうだけどさ。
「まあ、な、一匹だけだっただろ? いまの季節に飛んでるのは冬を越した女王蜂でよ、巣作りの最中なのさ」
気を取り直したバイロンさんが説明してくれる。
「まだ働き蜂や兵隊蜂はいないんですね?」
「ああ、そうだ。いま時分は女王蜂が巣を作って、働き蜂を生み始める季節だからな。だから今のうちに女王を退治しておきゃあ、夏以降になって蜂の大群に悩まされるってことがないのよ」
「なるほど。じゃあ、駆除も難しくないですね」
「報告に入れとくかい?」
レビリスが尋ねた。
「いんや、スズメバチは破邪が出張るほどのもんでもないよ。うちの狩人に伝えておけば、後で巣を探し出して始末しといてくれるだろ。それよりも最近は山里でも魔獣を見かけることが増えてるって噂だ。そっちの方こそ頼むよ」
「そりゃもっともだ。じゃあスズメバチは、こっちの狩人さんが対応するってことで」
「ああ、それでいい。あんたたちも知ってるとは思うがよ、ここは二年前にスズメバチのせいで酷い事故が起きたからな。ちょいと神経質になろうってもんだ」
「領主様ご夫妻の事故の件ですね?」
「ああ。あん時はなあ...俺もてんてこ舞いだったよ。領主様ご夫妻が揃って視察にお見えになるってんで、上を下への大騒ぎだ。ここもまだ出来たてでよ、整ってないところも色々あったから、粗相のないようにってあれこれやってたんだけど、もう、それどころじゃなくなっちまったからな」
「バイロンさんも、その時には現場の方へ?」
「おうよ。知らせが来てすっ飛んでいったら、そりゃもう酷い有様だったぜ」
「そうだったんですか...」
「挙げ句に、馬車から放り出されて命拾いしてた御者が厩舎で首を吊ろうとしてたところを見つかって危うく助けられてな。慌てて伯爵家からこの件に関する自己審判を厳禁するってお触れがでたぐらいだ」
「御者さんも助かってたんですね」
「馬が暴れた時に御者台から振り落とされてたのよ。それもあって、馬車が落ちたのは自分が手綱を放しちまったせいだって悔やんだらしくてなあ」
「それは、きっと原因じゃないでしょう」
「みんなそう思ってるよ。あれは御者の責任なんかじゃねえ。橋のど真ん中で四頭が一斉に暴れ出したら抑えきれるもんかい」
「ですよねえ」
「まあ、あの馬どもも繋がれてたからよお。馬車に引き摺られて四頭一緒に川に落っこちまってドンっ!だ。あの光景は思い出すだけでぞっとするな」
先に馬車が傾いて橋から落ちて、それに引き摺られて馬たちも一蓮托生か・・・
確かに、貴族の使う飾りの沢山付いた重い馬車は悪路でひっくり返りやすいと聞いたこともある。
何でも、馬車の脇を徒歩で併走するフットマンっていう従僕は、元々は主の馬車が安全に走れるように路面の状況を確認するのが役目だとか。
御者台の上からだと位置が高いから遠くまで見通せる代わりに、前にいる馬の背に遮られて直前の地面の状況はよく見えてないんだそうだ。
それに、馬は少々のでこぼこでも気にせず走ってしまうので、馬車の車輪がそういう障害に引っかかって勢いで横転してしまう、という事故も意外とありがちなのだという。
「しかもみんなスズメバチの大群に襲われてたんでしょう? 結局、無傷な人間なんて一人もいなかったんじゃないですか?」
「どうだろうな? ハチに刺されてたとしても、もう、それどころじゃなかっただろうよ...」
それもそうだな。
知る限り、スズメバチの毒ってのは強烈で、人によっては気を失うことさえあるほどだと言うが、目の前で伯爵夫妻が大変なことになってるのに、痛みで騒ぐ奴なんかいる訳もないか。
「御者の奴だけは、馬が暴れたのは自分の手綱さばきが悪かったせいだって、ずっと騒ぎ続けてたらしいけどな。それで責任を感じて首を吊ろうとしたんだけど、まあショックだったんだろうさな」
「バイロンさんは刺されなかったんですか?」
「ああ、だって俺が現場に駆けつけたのは、護衛の騎士たちがなんとか川に落ちた馬車の中からご夫妻を助け出そうと四苦八苦してるところだったからな。もうハチなんざいなくなってたさ」
んん?
それはちょっとおかしくないか。