キャラック船の出航
結局、午後遅くまでアクトロス号への積み込みは続いて、その間シンシアはぐっすりと眠り続けた。
エルダンから戻って以来、俺たちの中で最も苦労していると言うか、怒濤のような作業に追われる日々を過ごしているのは、魔道具開発を一手に引き受けているシンシアだ。
マリタンとパルレアの助けもあるけど、マリタン自身が古代の存在だから現代の魔法事情とは常識が違うし、パルレアも精霊魔法そのものに関してはともかく、人族の魔法を基盤にした『魔道具』の開発となると、とうの昔にシンシアに主導権を譲り渡している。
この深い眠り具合からみるに、シンシア本人は気が張っているから平気なつもりでいても、身体には疲れが溜まっているんだろうな・・・
まあ、こっちは勇者の肉体なので、シンシアの小さな頭が乗せられているくらいで痺れるなんて事はもちろん無い。
むしろ眠りこけているシンシアの寝顔が小動物みたいであまりにも可愛いので、間違って起こさないように鋼の集中力で『枕』に徹していた俺だったが・・・陽が傾き始めてアクトロス号が出帆しそうになってきたら、さすがに起こさない訳にもいかないか。
「起きてくれシンシア、アクトロス号で索具の片付けが始まって『曳舟』が出てきた。そろそろ出港準備だな」
「有り難うございます御兄様。思っていたよりも長く、ぐっすり眠りこけてしまったみたいで...すみません」
「なにも悪くないさ。謝られても困るよ」
「いえ、ですが、その、重くなかったですか?」
「シンシアの寝顔が可愛くてね。ずっと見ていたかったから、むしろ俺が起こしたくなかったんだよ」
そう言うとシンシアは少し、はにかむ様に微笑んだ。
「その...実は御姉様に言われてたんです。『きちんと自分から態度で甘えないとダメだ』って。それで甘えてみたのですけど、御兄様が不愉快にならなかったのなら良かったです!」
まったくパルレアのヤツは、なにを教えとるんだ・・・
そしてシンシアも、そこで理詰めな物言い・・・うん、このギャップこそがシンシアの持ち味なんだな、たぶん。
「シンシア、不愉快になんてなる訳が無いよ。それにパルレアから何を教え込まれていようと、『そうしたい』と思ったのがシンシアの思いなら俺にとっては嬉しいことだからな。だから、甘えたくなったのならいつでも甘えてくれればいいんだ」
自分で言ってから思ったけど、パルレアというか、パルミュナにもクレアにも言えないセリフだなコレ!
きっと二人の場合は、『いつでも』とか『どれだけでも』甘えていいとか言ってしまったら限度が見えない気がする・・・文字通りの底なしだろうな。
「はい! あ、それで御兄様、『曳舟』というのは?」
サクッと現実に戻るのが早いのもシンシアらしさだよ!
「船の周囲を見てごらん。漕ぎ手が何人も乗った小舟が何艘かいるだろう?」
「あれが曳舟ですか?」
「うん、港側の有料サービスだ。まず曳舟で桟橋から船を引き離して、周囲に他の船や障害物が無くてメインセールを広げやすい場所まで綱で引っ張ってあげるんだよ。人足達にはいい臨時収入だな」
「なるほど。混んでいる港の桟橋でいきなり大きな帆を張るのは、危険な感じもしますね」
「だから普通は小さな縦帆から張って、少しずつ桟橋から離れるようにするんだよ。いまアクトロス号は一番後ろにある三番マストの縦帆しか張ってないだろ? 特に昼の間は海から陸に向けての風が吹くことが多いし、風向きや風速がコロコロ変わりやすい季節には、ちょっとでも桟橋から離れた方が安全だからね」
「えっと、向かい風では進めないのでは?」
「いや? 帆で風を受ける角度を上手く調整してれば、船は風上に向けて斜めに進めるんだよ」
「魔法を使うとかでは無くて?」
「違うな。なんて言うか...吹いてくる風に引っ張られるんだよ。ただし風上の真っ正面に向けては進めなくて、斜め向きにしか走れない。だから、その向きが目的地の方向とピッタリ合ってない場合は、ジグザグに向きを切り替えながら進む必要がある」
これもアレだ。
一方向にズレて歩き続けると円を描くとか、実はポルミサリアの大地が丸いとかと同じで、日頃の『体感とか常識に反する』ってヤツかな?
シンシアが珍しくきょとんとした表情を見せている。
「...すみません御兄様。そもそも向こうからこちらへと吹く風...向かってくるモノに引っ張られる、という理屈が良く分かりません...」
「だよなあ...そうだシンシア、なにか薄い紙を持ってるかい?」
「はい、ちょっと待って下さいね」
もちろん、シンシアなら持っているに決まっているよな。
シンシアが腰のポーチからアスワンの小箱を引っ張り出すと、その鏡の裏から薄くて綺麗な便箋を取り出した。
ラスティユ村特製の綺麗な薄紙だ。
久しぶりに見るね・・・
それを一枚受け取ると、俺は両手で支えた紙の縁を口元に近づけて、その上面にふーっと強く息を吹きかけた。
すると、手の中でしなだれていた薄紙が、俺の吹く強い息に吸い寄せられるように持ち上がって水平になる。
「垂れ下がった紙の下側に息を吹きつければ持ち上がるのは当然だ。だけど俺がいま吹いた息は紙の上側を素通りしただけだろ? それなのに紙が持ち上がったのは吹き抜ける風に吸い寄せられたからだ。分かるかい?」
「ほわぁー...」
シンシアが、こんな気の抜けた声を出すのも珍しいな。
「大抵の人は風が吹けば、旗や干してある洗濯物のように薄い布が『はためく』のは当然だと思っているけど、それは『風に押されて』動いているって理解だろ?
だけど実際は、『風に引き寄せられる』って動きも同時に起きてるから、こういう事象が起きるんだよ」
「そうだったんですね! 全然知らなかったです!」
ま、実は俺も帆船に乗ってみるまでは全然知らなかったんだけどね・・・
シンシアの可愛い反応を見ることが出来たので、俺もちょっと得意になって、以前に船乗りから教えて貰った蘊蓄を語る。
「船の帆でも同じ事が起きるんだ。真っ直ぐ正面から向かい風を受けたら、そりゃあ押し返されちまう。だけど帆と、船体と、舵板の角度を調整して風を斜めに受けてやれば、帆が風に引き寄せられる力を、うまく船が前に進む力に出来るんだよ。だから、帆の角度はマストを中心に、自由に変えられる必要がある」
「凄いです御兄様...」
「いや、以前に船乗りから教えて貰ったことの受け売りなんだよ。しかもその人の話によると縦帆の場合は、特定の条件に限っては『真後ろからの追い風』よりも『斜めの向かい風』の方が速く走れる時もあるんだってさ」
「ええぇっー! ホントですか!」
「俺も見た訳じゃ無いけど、そう教えて貰った」
「でも、どうしてそんなことが起きるんでしょうね? 魔法を使う訳でも無いのに...」
「理屈ではそれで合ってるんだそうだよ。だって追い風だったら絶対に『風の速さ』以上のスピードで船が走ることは出来ないだろ。それは分かるよな?」
「ええ、そうですね...自分の足で走らないのであれば、後ろから背中を押してくれる人以上の速さで進むことは出来ません。馬車が馬より速く走れないのと同じでしょうね」
「だけど向かい風を進む力に変える場合は、風が吹いている限り、ずっと『引き寄せ続けて貰う』ことが出来る。だから、どんどんスピード『足し算』していくことが出来るんだそうだ」
「なるほど! 初めて知りましたけど、帆船って凄い知恵で動いてるんですね!」
「まあ実際には条件や限界があるらしいけど、ただ風上に向かえるだけじゃ無くて、追い風より速く走れる事もありえるなんて、ちょっと面白いよね?」
「かなり面白いですっ!」
「そりゃ良かった。聞きかじりの蘊蓄を披露した甲斐があったよ」
「聞きかじりだなんて謙遜ですよ御兄様!...でも『向かい風だからこそ、力を足していける』なんて...なんだか、魔法にも応用できそうな気がしてきました!」
さすがシンシア・・・話題の締め方がひと味違うね。
さて、俺とシンシアがそんな長閑な会話をしている内に、曳舟がアクトロス号を桟橋から引き剥がし始めた。
屋敷で寝てるはずのパルレアとアプレイスを指通信で起こしてウルベディビオラに来るように伝え、シンシアもマリタンを小箱から出す。
ちなみにマリタンには睡眠の欲求も無ければ退屈さも感じないので、閉じられて置かれたままだろうが小箱に収納されていようが、どちらでも構わないらしい。




