<閑話:魔導書のあるじ>
「それにしても『魔道理知大鑑』とは、実に立派な名前ですね!」
その声と共に再びワタシが意識を持った時、先ほどの『人の枠に収まってない様子の人』のうち、やや小さな方、人族風に表現すれば少女がワタシの目の前にいたわ。
書棚に運ばれた訳でも無く、表紙の裏には例の小汚い魔法陣を描いた紙が挟まったままだっていうのに、それまでの間、ワタシの意識は完全に停止していたのよね・・・
謎!
謎だけど、それは喫緊の問題じゃないわ。
それよりも、いまワタシのいる場所がさっきまでの錬金室とは似ても似つかない簡素な部屋で、しかも周囲がなにか『絶対に逆らえない強大な力』に取り囲まれてるのよ!
こっちはマジゆゆしき問題。
書籍っていう存在の範疇でそれなりに動揺したけど、この部屋の周囲、空気、っていうか空間全体を包む圧倒的な何かが、この『人のようで人の枠に収まってない少女』の周囲に滲み出ているモノと同じ力を源泉としていることを理解してからは少し落ち着いたわ。
だったら、そんなに危険なものでも無いでしょ。
少なくとも、この部屋が火事になっちゃうなんてことは無さそうよね・・・
「え、火事?」
でもその時、唐突に少女が呟いたの。
吃驚した顔で周囲を見回している。
いっけない、動揺してつい言葉にしちゃってたわ!
書籍たるもの、主から話し掛けられなければ、そうそうペラペラと口を開くものじゃあ無いのよ。
それが魔導書の嗜みっていう感じ?
・・・いや待って待って、そもそも何故にこの少女は私の呟きを聞き取ったのかしら?
錬金室ではこの人達の声はぼんやりとした響きに過ぎなかったし、私の声は少なくともドラゴンには聞こえていなかったはずだし?
それから周囲を何度も見回した上で、なぜか自分の指先をじっと見つめていた少女は、意を決したように、明らかに『私に視線を向けて』問いかけてきたわ。
「もしかしてあなた、この部屋が火事になるのがどうこうって言いましたか?」
何故はともかくとして、聞かれたからには答える義務があるってモノ、ね。
「環境の変化に少々慌てたってだけなの。周囲に不明な強い力を感じたから、なんだかつい悪い連想をしちゃった、わ」
「やはりあなたでしたか! 古代の魔導書が意志を持つ魔道具だったというのは本当だったんですね!」
「古代って言うのが何を指し示しているか判断できないんだけど、ね...ワタシみたいに魔法を行使できる力を与えられた魔導書に自意識があるのは、自明のことじゃない、の?」
「なるほど!」
「あら、ご存じなかった?」
「はい」
「それは不思議、ね。アナタは恐ろしく強い魔力、それも普通の人には持ち得ぬほどの不思議な力を蓄えている魔法使いだっていうのに、魔導書のことをご存じない、ワケ?!」
「すみません、私自身、古代の魔導書と対面した経験は今回が初めてなんです」
ワタシと普通に会話が成立していて、しかも魔導書に自意識があることを理解しているのに、それが特殊なことだと思ってる感じ?
ちょっと不思議よ、ね、このやりとり・・・
「申し訳ないんだけど、ね。アナタが先ほどから仰っている『古代』って言うのはどんな意味なの?」
「あ、ごめんなさい! 恐らく、あなたがこの世界に生み出された頃から考えると、いまは数千年の時が過ぎています。『年』という時間単位の概念はお分かりですか?」
「...知識としては...ね」
ワタシは理解したわ。
自分の推測が正しかったであろう事を・・・
最後に書棚に収められてからあの魔法使いに引っ張り出されるまでの間に、まあ本当に途轍もない時間が流れていたのね。
「なるほど、それでワタシの名前はなんと?」
「それは『魔道理知大鑑』ではないのですか? あ、すみません。それはあくまで現代書籍風のタイトルにした場合で、本来の表題は『マギア・アルケミア・パイデイア』ですね。魔法と錬金の教養といったニュアンスだと思いますけど...」
そしてワタシはもう一つ理解したの。
目を覚ました瞬間に聞こえた声、あれはワタシへの名付けだったのよ。
そして名付けられたって言うことは、ワタシはこの少女の僕で、この少女はワタシの主だってこと。
それにしても、誕生から数千年の時が流れて、ようやく『内容と一致した名前』が付けられることになるなんて、ね・・・世界ってうのは、なんて皮肉なモノなんでしょう。
これまで様々な名前で呼ばれてきた『壺』は、いま新たに『特大ワイン壺』という実に即物的な名前を得たようなモノだって言っていいのかしら、ね?
別に嫌じゃないけど。
「では、ワタシの名前は『魔道理知大鑑』と言うことね。さっそくなんだけど我が主、あなたのご尊名をお聞かせ願いたいわ」
「え、あるじ?」
「だってワタシに名付けをしたんだから、あなたはその瞬間からワタシの主なんですよ?」
「そ、そういうものなのですか?...」
「魔導書とはそう言う存在なの、よ。今後ワタシはあなたのために『魔法を選び、研ぎ澄まし、その求めに応じて行使する』と誓いましょう。で、主様のご尊名は?」
「あ、えっと、名は『シンシア』と申します。フルネームはシンシア・クライス、またはシンシア・ノルテモリア・リンスワルド、もしくはシンシア・ジットレインです」
「ご尊名が複数あるワケ? 人族って面白いもの、ね」
「状況によって使い分けておりますので...」
「なるほど。えっと、三つの御名に共通する要素は『シンシア』でしたから、ワタシはこれから主様の事を『シンシア様』とお呼びするのが宜しいのかしら、ね?」
「えっと、『様』は不要ですよ?」
「なりませんわ。魔導書は『主と僕』の関係をしっかりと固持するよう動機づけられておりますの。主様以外の方はどう呼ぼうと構いませんけど、主様のことはきちんと『シンシア様』と呼ばせて頂きたいわ、ね。もしもフルネームで呼ばれなければ不愉快でしたら、一番長い『シンシア・ノルテモリア・リンスワルド様』とお呼び致しましょうか?」
「いえ、あの、ただのシンシアでいいです...」
「かしこまりましたシンシア様」
新しい主は非常に奥ゆかしい人物のよう、ね。
「ところでシンシア様、いま現在お困りで、それを魔法によって解決したいと思われていることはございませんか?」
「あると言えば幾つもあるのですけれど」
「聞かせて下さい、な」
「まずは、あなた...魔導理知大鑑さんご自身に関することで、私たちはあなたの表紙の裏に挟まれている紙に描かれている転移門を解析したいと思っています」
「ワタシにさん付けは不要ですわシンシア様。しかしワタシの表紙裏に挟み込んである小汚い...失礼、ムダの多い魔法陣を解析するのは、それほど大きな手間だとは考えにくいのですけど、ね?」
「ええ、転移門そのものの解析は以前の経験も踏まえて、独力で取り組めると考えています。問題は三つですね」
「問題?」
「まず、この魔法陣は魔導理知大鑑さんを開くことで起動するように仕組まれています。私たちとしては、その転移門を起動させること無く魔導理知大鑑さんからこの魔法陣を描いた紙を抜き取りたいのです」
「えっと、解析のために、まずはワタシから魔法陣を分離するってこと、ね。ちなみにさん付けは不要ですから」
「そして次に、魔法陣を解析することで任意の状況で転移門を開けるようにします。これは単に起動するタイミングを自由に選べるようにするだけでは無く、ずっと転移門を開いたままにしておくことや、恐らく一方通行に改変されているであろう転移門を、双方向に戻すことも含まれます」
「方法論はいくつかあると思いますけど、内容を解析して新たに作り直した方が簡単じゃないのかしら?」
「ですが、この転移門を起動させた状態で、誰も実際に向こう側に行くこと無く、転移門の繋がる先の様子を知りたいんです。この転移門が一方通行の罠として構築されている事を考えると、繋がった先にも何かの仕掛けがあるかも知れません。私たちが新規に造った転移門では、同じ行き先を設定しても、向こう側の仕掛けを発動できない可能性があると思います」
「なるほど、ね。シンシア様の憂慮することも、ごもっとも、だわ」
「それと、実際に転移せずに向こう側の様子を知ることに関しては魔道具の力を借りる必要があると思っていて、いくつかのアイデアはあるのですが、実装するまでには少し実験と試作の手間が掛かりそうです」
「では以上の三つが、我が主シンシア様の現時点での懸案事項である、と。えっと、いくつか参考にして頂ける術式がワタシにも記載されていると思うんですけど、ね。それを参照して頂くためには、まず、挟んである紙を開かないまま魔法的に抜き取る事が必須って訳...よね?」
「そうなんです! 私も出来れば魔導理知大鑑さんに書かれている内容を早く知りたいのですけれど、迂闊なことはしたくありませんので」
「承知致しました、わ。ワタシも一緒に検討させて頂ければ、と。それからワタシへのさん付けは不要ですので」
「はい、よろしくお願いします。それで、その、名付けの事なのですけれど、『魔導理知大鑑さん』というのはやはり少々呼びづらいので、呼びやすく省略してもご気分を害されたりはなされませんか?」
「もちろんですわ。シンシア様の思うよう、に」
「では、魔導理知大鑑を省略して『マリタンさん』と呼ばせてください」
「...かしこまりました。ですが、さん付けは不要です、わ」
微妙にウッカリを感じさせる名付けから始まって、さらに『特大ワイン壺』と言う名前が一瞬にして『トワボ』に短縮されたって感じもするのだけど、ね。
別に不愉快じゃないわ、よ?
魔導書は主様の役に立てるならば、形骸的なことなんてどうでも良いんだから。
・・・ね?




