湖の周辺
二人に案内された道は、途中で二カ所ほど道が崩れかけていて慎重に通過しましたが、おおむね問題なく湖まで辿り着くことが出来ました。
湖には北側にそびえる山稜から小川が幾筋か注ぎ込んでいるようです。
逆側で湖から流れ出した川は南東に向かっているようですから、ひょっとすると最終的には旧街道の脇に沿って流れるエッシ川に合流するのかも知れませんね。
もしもそうなら、色々と便利に利用できる可能性があります。
「この湖には流入も流れ出しもありますから、雨水を溜めただけの池と違って湖の水が綺麗に保たれそうなのが良いですね」
「ウェインスさんもそう思うでしょ?」
「流入している川はそこそこの水量を保っているようですから、秋になっても水が涸れる心配は少ないでしょう。なにより大きな水車が設置できれば色々と便利ですよ」
「水車かあ...早く水車の粉挽きが必要なくらいになるといいなあ」
「そうですね」
「ねえウェインスさん、ここなら無理に棚池を作らなくても湖に生け簀を作るか、むしろ岸辺に浅い池を掘って魚を育てられるかなあ?」
さすがはアサム殿ですね。
『湖があるからそれをそのまま養魚池に』と安直に考えるのではなく、用水の確保なども含め、きちんと湖全体を管理する前提での利用を考えていたようですね。
バイロン殿に話を聞きに行けば、きっと色々な事を吸収して新しい村づくりに活かしてくれるでしょう。
「そうですね。流れ出している川があるから魚も住んでいるでしょうし、それを種に育成をスタートしてみるのが良いかと思いますな」
「えっ、って言うかウェインスさん、川の出て無い湖には魚がいないの?」
「魚が外から入ってくる方法がありませんからね。流れ出しの無い溜め池に住んでいるような魚は、ほとんどが人の手で移されたものです。ごく希に、太古に魚が住み着いた後で川が涸れて出入りが閉じてしまった、というような湖もあるとは聞きますが」
「そっかー!」
「あたし泳いでみるっ!」
私とアサム殿が湖を眺めながら話していると、いきなりリリア嬢がそう叫んで、ザブンと湖に駆け込みました。
まあ、毛皮にこびりついた泥を落とすのには丁度良いでしょうし、この季節なら風邪を引く心配も少なそうですからね。
私たちが入ってきた西側は森に閉ざされていて、馬車で湖の周りを一周することは出来なそうですが、東側と南側はかなり開けていますから全体としては明るい雰囲気の土地ですね。
恐らくこちら側の岸部周辺は、過去に人為的に切り開かれています。
でなければ、向こう岸と同じように水際まで樹が迫っていたことでしょう。
「岸辺までほとんど森が迫ってきてるけど、地面は平らだから伐採して整地するのは難しくないかなあ? 東側と南側の丘は岩がゴツゴツしてるけど見通しは悪くないし」
「明るい場所ですし、濁った魔力が淀むような地形でも無いですな。元が狩猟地だったとすれば魔獣も少ないと思いますよ。ちょっと歩いて丘の向こうの南東側の地形も見てみましょうか?」
「そうだね!」
「アサムくーん、気持ちいいよーっ!」
水面から顔を出した白豹、もとい、リリア嬢がアサム殿を呼んでいます。
「アサム殿も陽の高いうちに少し泳いでみますか? この湖なら特に危険も無いでしょうから」
「じゃあ魚がいるか、ちょっと見てこようかな...」
アサム殿が少し目を逸らして、言い訳っぽく水に入る理由を口にしました。
「分かりました。その間に昼食でも作ってますからごゆっくりどうぞ」
「じゃ、お願いします!」
アサム殿が元気よく水辺に駆けていきました。
若いというのは以下略。
「フォブ殿、ここで火を熾して昼食にしましょう」
「おお、そうですな! じゃあ儂は薪を集めてきますわ」
「お願い致します。二人が身体を乾かせるように、少し大きめの火を熾しておきましょう」
人の踏み込んでいない湖の岸辺というのは、焚き火の薪にする流木の類いには事欠きません。
嵐やら何やらで湖に流れ込んだ木々が水に浸かって樹皮を剥がされ、それから風で岸辺に打ち上げられて乾燥しているので、抜群に良く燃えます。
とりあえずその場に転がっている流木を少し集めて火を熾し、荷馬車から調理用具と食材を出して昼食の準備に取りかかりました。
お湯が沸く間に、塩漬け肉を大きく切り取って水に浸けておきます。
ですが、これは実は夕食用です。
クライスさんがいないと生肉に不自由しますが、基本が歩き旅だった現役破邪時代を思えば、重い塩漬け肉や塩漬け魚の樽を持ち歩けると言うだけでも大変な贅沢ですな。
食事というのはやっかいなモノで、一度美味しい料理に慣れてしまうと以前のレベルに戻すことが大変困難です。
フォーフェンで暮らすようになって以来、自分自身としては贅沢に慣れたというか、すっかり堕落しきったつもりでいたのですが、クライスさんと出会ってからは銀の梟亭の料理やトレナ殿達が作って下さる料理に馴染んでしまい、さらに一段、贅沢の閾値を突破した気がしておりますな。
料理の準備をしている間も、水辺の方からは二人の楽しそうな声が聞こえてきます。
リリア嬢のはしゃぎ声に思わず目を向けると、アサム殿が背中にリリア嬢を乗せたままで結構なスピードの犬掻き泳ぎを披露していました。
アサム殿が大きいので、リリア嬢はまるで水面に浮かぶ巨大な丸太の上に四つ足で立ったたまま進んでいるかのようにも見えて、本当に楽しそうです。
肉の下処理を終えたところで、昼食用には樽から塩漬け魚を取り出して切り身にし、塩を洗い落として串に刺しました。
切り身を取った残りの部分は干し野菜と一緒にお湯に落してスープの出汁にしましょう。
フォブ殿が抱えてきた薪を焚き火に追加して、串に刺した切り身を炎から少し離した位置に突き立ててじっくり炙っていくと、周囲に食欲をそそる匂いが漂い始めます。
しばらくするとアサム殿とリリア嬢も、魚の焼ける匂いにつられたのか揃って水から上がってきました。
アサム殿はいつもの服のまま狼に変身していたので、人の姿に戻ってもボタボタと水を垂らしていますな。
馬車の中で少女の姿に戻ってきたリリア嬢に、手早く腸詰めと酢漬け野菜を切って堅パンに添え、炙った魚の切り身と一緒に渡します。
塩抜きが出来ていないのでかなり塩辛いはずですが、酢漬けの野菜と一緒に堅パンのおかずにする分には問題ないでしょう。
口中の塩がきつく感じて来始めたら、スープと腸詰めで口直しを。
「魚はいましたか?」
「いたよ! たぶん鱒だと思うけど、結構大きいのが泳いでた!」
「鱒って、前にアサム君がくれた魚?」
「そうだよ、あれ美味しかったかな?」
「すごく美味しかったの!」
そんなやり取りをする二人を見て、フォブ殿も顔をほころばせていますな。
わたしが言うのも憚られますが、リリア嬢を見やるフォブ殿は典型的な好々爺という感じです。
単なる直感ですが、フォーフェンに店を持つか新しいルマント村で鍛冶仕事の指導者にでもなるか、いずれにしてもフォブ殿とリリア嬢は近隣に残ってくれそうな気がしてきました。
ただしアンスロープの村にエルセリアが住むことに不安感がある、と言うのはもっともな話なので、その辺りさえアサム殿に上手く解決して貰えれば大丈夫でしょう。
「フォブ殿。これから私とアサム殿は少々周囲の土地を見て回ろうかと思います。ここは危険なものも出てこないでしょうし、今日はこのまま野営しても問題ないでしょう」
「そうですか。そんなら儂はここでのんびりさせて貰いましょうかの」
「わたしはアサム君と一緒に行きたいの」
「ええよリリア、行っておいで」
元気いっぱいなアサム殿やリリア嬢と一緒に野山を歩けというのは、フォブ殿には少々酷な話です。
まあ私だって、この二人が変身したら置いてけぼりを喰らう以外に術はありませんがね。
「ここは特に心配無いと思いますが、もしもフォブ殿がなにか危険を感じた時には我々の馬車に移って荷台に入っていて下さい」
「はあ、そらまたなんでですかの?」
「実はこの馬車には魔獣や悪人を立ち入らせない結界の護符が仕込まれていますからね。荷台から出なければ安全です」
「なんと! それは凄いですな」
「ですから、こちらの馬車の中に寝転がっていれば、ぐっすり昼寝をしていても安全でしょう」
「ほんなら、そうさせて貰いますわ」
と言うことでフォブ殿を留守番に残し、三人で丘の向こうを覗いてみることにしました。